アメリカの大統領 第10代 ジョン・タイラーについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第二回目は、10代大統領を務めたジョン・タイラーです。ジョン・タイラーは、副大統領から大統領に昇格した最初の人物です。 公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

はじめに

第9代大統領のウィリアム・ハリソンが大統領就任後わずか1ヶ月で病に倒れたため、急遽、副大統領から大統領に昇格するかたちで大統領に就任したのがジョン・タイラーです。もともとは、ウィリアム・ハリソンと同じホイッグ党の所属でしたが、大統領就任後に除名されることになります。

突然、大統領に就任することになったジョン・タイラー政権は「偶然内閣」や「継承内閣」などと揶揄される波乱万丈の政権運営になりました。今回は偶然的に大統領に就任することになったアメリカ第10代ジョン・タイラーについてご紹介します。

「ジョン・タイラー」のプロフィール

ジョン・タイラーはアメリカが独立宣言をした後の1790年にバージニア州で生まれました。ジョン・タイラーが生まれたチャールズシティ郡は、奇しくも先代の大統領であるウィリアム・ハリソンと同じ地域です。

幼い頃から上流階級の教育を受けて育ったジョン・タイラーは17歳で名門ウィリアム・アンド・メアリー大学を卒業します。政治界との繋がりが深かった父親にならうようにして政治界へ進んだジョン・タイラーは下院議員、上院議員、そしてバージニア州知事などを歴任しました。

1840年に同じホイッグ党選出のウィリアム・ハリソンが大統領選に勝利すると副大統領に抜擢されます。しかし、ウィリアム・ハリソンが肺炎により大統領就任直後に命を落としてしまいます。大統領不在の状態になったため、副大統領だったジョン・タイラーが自らが進んで大統領を引き継ぎました。

大統領就任後は自身を支持してくれたホイッグ党を除名され、無所属になったジョン・タイラーは「政党を持たざる男」として広く知られるようになりました。かのジョージ・ワシントンも無所属を公言していましたが、実質的には連邦党の一員だったため、ジョン・タイラーは本当の無所属政治家だったとする見方もあります。

大統領としてはテキサス共和国を合衆国に加入させた功績がありますが、皮肉にもこのことは後の南北戦争の火種のひとつになるのでした。

「ジョン・タイラー」の経歴

1790年、ジョン・タイラーはバージニア州チャールズシティ郡で生まれます。第3代大統領だったトーマス・ジェファーソンと親交があった父親を持ち、大規模なタバコ畑と黒人奴隷を大勢保有する家庭でした。父親はリッチモンドの裁判所にも勤務していたため、ジョン・タイラーも必然的に政治界と近い環境で育ちました。

12歳の頃にはウィリアム・アンド・メアリー大学直系の学校に通い始め、1807年に同大学を卒業します。卒業後は大学で学んだ語学や法律学を生かして弁護士として活躍する一方で、政界への進出を狙っていました。

1816年、26歳のときにバージニア州の下院議員に選出されて以降は、1825年にバージニア州知事、1827年にはバージニア州上院議員を歴任しました。1835年までバージニア州上院議員を務めた以降はホイッグ党の一員として、創設者で党首だったヘンリー・クレイや、後の大統領になるウィリアム・ハリソンらと共に、民主党のアンドリュー・ジャクソンやヴァン・ビューレン政権と対立しました。

1840年の大統領選で同じ政党のウィリアム・ハリソンが勝利し、副大統領に任命されます。しかし、ウィリアム・ハリソンは大統領就任後わずか1ヶ月で肺炎のため命を落とし、繰り上がる形でジョン・タイラーが第10代の大統領に就任しました。この際、副大統領の座は空席という異例の事態になりました。

ちなみに、この時代には非常時に副大統領が同じ権限で大統領職を引き継ぐという明確な憲法はなかったため、揶揄の意味を込めて「偶然内閣」などと呼ばれました。1967年にアメリカ合衆国憲法修正第25条が制定されてからは、非常時には副大統領が正式に大統領を継承し、副大統領を新たに指名する決まりになっています。

ウィリアム・ハリソンの死後、ホイッグ党の党首だったヘンリー・クレイはホイッグ党にあまり協力的ではなかったジョン・タイラーが大統領職に就くことを懸念し、議会で話し合う場を設けていました。しかし、それを無視するようにジョン・タイラーが宣誓を実施して、ホワイトハウスへ移り住みました。

さらに、ホイッグ党が推進しようとしたアメリカの工業を守るための高関税政策や合衆国銀行の再興などをことごとく拒否権を行使し退けました。自身の政党へ協力しない姿勢は反感を買い、史上初めての大統領弾劾にまで発展します。関税法については大統領の拒否権が覆るという初の事態が起こりました。このようなことからジョン・タイラーは大統領就任後2ヶ月でホイッグ党を除名されてしまいます。

「政党を持たざる男」となったジョン・タイラーですが、大統領在任中にテキサス併合という大きな功績を残します。任期満了1年に迫った1844年4月、ジョン・タイラーは奴隷制度を支持するテキサス共和国とアメリカ合衆国の併合条約を結びました。しかし、ホイッグ党など奴隷制度に反対する人たちから外国の併合は違憲とされ、批准を拒まれます。

批准を拒まれたため合併は頓挫しますが、これに対してジョン・タイラーは上院で3分の2以上で成立(批准)する方法ではなく、単純過半数で可決する両院共同決議を使って併合条約を可決させました。そして、ジョン・タイラーの任期最終日にテキサス共和国へ特使を派遣して、即座に同意を取り付けました。違憲とも言える方法でまとめたテキサス併合は後にアメリカに大きな波乱を引き起こす原因となるのでした。

ポイント1:副大統領から大統領になった人物

ジョン・タイラーは前任のウィリアム・ハリソンが死亡したため、史上初めて副大統領が繰り上がるかたちで大統領になった人物ですが、大統領選で勝利して大統領になることを密かに夢見ていました。しかし、ホイッグ党からは怒りを買い、政治的な後ろ盾を失った瞬間にその夢は断たれたのでした。

ポイント2:9回に及ぶ拒否権の行使

ジョン・タイラーはアンドリュー・ジャクソンに次いで大統領による拒否権を最も多く行使した大統領でした。4年間で合計9回の拒否権を行使し、自らを後押ししてくれたホイッグ党にさえも抵抗しました。当時、副大統領が大統領になった場合、どのような権限を持つのかが不明確だったため、ジョン・タイラーのこの振る舞いは後の憲法修正に影響しました。

ポイント3:テキサス共和国をアメリカに加盟させた

ジョン・タイラーは議会の投票制度の抜け穴に着目し、任期終了間際にテキサス併合を成立させました。南部の一大奴隷州がアメリカに加盟したことは、奴隷制度反対派と推進派の対立を浮き彫りにし、アメリカ政府にとって頭を悩める問題になるのでした。そして、テキサスの加盟は後の南北戦争に繋がっていきます。

まとめ

ジョン・タイラーは副大統領から大統領に昇格した最初の人物ですが、大統領就任後は支持政党から除名され、目立った活躍はできないまま任期を終えました。傍若無人にも見えた振る舞いを通じて、アメリカ憲法の不明確さや欠点を浮かび上がらせたため、反面教師になった人物だったと言えるかもしれません。

ジョン・タイラーに関する豆知識

・一人目の妻との間に8人の子どもがおり、二人目の妻との間には7人の子どもに恵まれました。ジョン・タイラーは歴代大統領のなかで最も子どもが多い人物です。

本記事は、2019年1月23日時点調査または公開された情報です。
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