アメリカの大統領 第11代 ジェームズ・ポークについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第11回目は、第11代大統領を務めたジェームズ・ポークです。ジェームズ・ポークは、ヨーロッパとアメリカの間で互いに干渉しないことを主張したモンロー主義を外交理念に用いた最初の大統領でした。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。


はじめに

「大統領職は1期(4年)だけ」と公言して第11代の大統領に就任したジェームズ・ポークは、世界的にはあまり知られていないものの、アメリカ史のなかでは多くの功績を残した人物として有名です。後にアメリカの国土が大きく広がることに繋がる米墨戦争やオレゴン境界紛争などを指揮し、強いアメリカと呼ばれる時代を築きました。

今回は知られざる偉大な大統領でもあるアメリカ第11代大統領ジェームズ・ポークについてご紹介します。

「ジェームズ・ポーク」のプロフィール

ジェームズ・ポークはノースカロライナ州の農家の長男として生まれました。読み書きについては両親から教えてもらうほどの環境であったにもかかわらず、独学で勉学を続けノースカロライナ大学に進学します。大学を卒業してからは法律を学んで、弁護士として活動することになります。

弁護士として活動しているなか、テネシー州の下院議員として選出されて本格的に政界へ進むようになりました。連邦下院議員や議長なども歴任し、1844年の大統領選において勝利はほぼ確実とされたホイッグ党のヘンリー・クレイを大接戦の末で破り、大統領に就任します。この時の大統領選ではジェームズ・ポークが勝利すると考えていた人はおらず「ダークホース」の候補とされていました。

大統領就任後は「任期は1期のみ」と公言し、後のアメリカに大きな影響を与えることになるイギリスとのオレゴン境界紛争、メキシコとの米墨戦争など外交政策を通じて数々の功績を残すことになるのでした。

とくに現在のアメリカ南西部(テキサス州やカリフォルニア州)の拡大を実現した功績は大きく、アメリカ国内では「隠れた偉大な大統領」と言われています。

「ジェームズ・ポーク」の経歴

1795年、ジェームズ・ポークはノースカロライナ州メクレンブルク郡の小さな農家を営む家庭に生まれます。父親は測量士としても活躍し、小さい農家ながら奴隷を抱える家庭でした。

両親はスコットランドとアイルランド系の移民の家系で親戚も含めてパインビルという町に住んでいましたが、ジェームズ・ポークが幼い頃、多くの親戚はテネシー州に引越してしまいます。身近な所に頼れる人がいなくなったジェームズ・ポークの家族はパインビルに残り、土地投機などをして財産を増やしていきました。

ノースカロライナ大学を卒業した後に弁護士になったジェームズ・ポークは30歳になった1825年にテネシー州の下院議員として政界に入り、時の大統領だったアンドリュー・ジャクソンを一貫して支持しました。1839年からはテネシー州知事を務め、1844年の大統領選において民主党から選出されました。

この当時、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる一時代を作った民主党のアンドリュー・ジャクソンやマーティン・ヴァン・ビューレンの人気が下落するなか、対抗勢力として活動していたのがホイッグ党のヘンリー・クレイ、ウィリアム・ハリソンらでした。1844年の大統領選も民主党とホイッグ党の一騎打ちになりましたが、現行政権だったホイッグ党が優勢と考えられていました。

ジェームズ・ポークは無名すぎたためホイッグ党から「誰?」などと辛辣なネガティブキャンペーンの対象になってしまいます。しかし、蓋を開けてみればホイッグ党候補のヘンリー・クレイを僅差で破り、大統領の座を射止めました。この背景にはホイッグ党はアメリカの領土拡大に反対し、大恐慌後の経済問題解決に期待できないことなどが挙げられます。


1845年3月、大統領になったジェームズ・ポークは「1期のみ」と公言し、選挙公約を果たすために尽力し始めます。ジェームズ・ポークはイギリスとアメリカの間で領土問題になっていた「オレゴン問題」に着手します。現在のアメリカとカナダの国境一帯において、イギリスは毛皮貿易の拠点として領土を確保したい思惑があり、アメリカも同様に交易の拠点に使いたい希望があったため、双方が譲らない状態になっていました。

アメリカ世論はイギリスとの戦争も辞さない態度でしたが、ジェームズ・ポークはメキシコとの戦争の可能性もあったため、当初の主張だった北緯54度40分ではなく北緯49度線で妥協する形で決着させました。(1846年のオレゴン条約)アメリカ世論の領土拡張の流れがあったものの、イギリスとメキシコを相手に同時に2つの戦争をするのを避けた英断だったとされています。

1846年には米墨戦争を指揮しました。メキシコは自国の領土と主張していたテキサス共和国がアメリカに加盟することに反対し、一方でアメリカは勢いを増す領土拡張の風潮を受けテキサスをアメリカの併合させることを望んでいました。1845年に前大統領のジョン・タイラーによってアメリカ国内ではテキサス併合が決着していましたが、メキシコ政府はそれを認めていませんでした。

さらに、アメリカは独立宣言後もいまだに問題相手になっていたイギリスに対抗できるようにアメリカ大陸西海岸、太平洋側(現在のカリフォルニア州)に港を構えることを悲願としていました。当初、メキシコには土地の買収提案がなされましたが、メキシコ政府は混乱の最中で、国内からは猛反発を受け交渉は決裂しました。

テキサスの土地を巡ってはアメリカとメキシコで認識がずれていたため、ジェームズ・ポークはザカリー・テイラー将軍(後のアメリカ12代大統領)にアメリカが主張する領土を抑えるように指示し、認識のずれから現地で戦闘が始まり、1846年5月にアメリカが宣戦布告しました。

アメリカは1847年1月に欲しかったカリフォルニアを征服し、1848年2月にはグアダルーペ・イダルゴ条約を持ってして米墨戦争は決着しました。これによりアメリカはカリフォルニアだけでなく、現在のネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの土地を手に入れました。

アメリカはメキシコ政府に1,500万ドルと325万ドルの債権放棄をしますが、格安で広大な土地、さらには悲願だった西海岸の領土を手に入れたのでした。アメリカにとっては幸運なことに新たに手に入れた土地で金鉱脈(ゴールドラッシュ)や油田が発見され、アメリカ経済に強烈な追い風になりました。このため米墨戦争を決着させたジェームズ・ポークの功績は大きかったとされているのです。

一方で、戦争に敗れたメキシコは国土の3分の1を失い、アメリカへの憎悪の念が一層深いものになりました。そして、アメリカは手に入れた土地において奴隷制度の支持か反対かを巡って国内論争、そして南北戦争へ突入していくのでした。

オレゴン境界紛争、カリフォルニアの獲得などアメリカの領土を巡る外交問題をわずか4年間で決着させたジェームズ・ポークですが、領土拡大を成功させた反面で奴隷制度の問題も拡大させることになってしまうのでした。

ジェームズ・ポークは大統領の任期を全うした僅か5ヶ月後にテネシー州のナッシュビルで息を引き取ったため、彼自身は後に起こる南北戦争のことは知らないのです。

ポイント1:オレゴン境界紛争を決着させた人物

ジェームズ・ポークの大きな功績のひとつがイギリスとの間で揉めていたオレゴン地域の領土問題です。この地域はロッキー山脈以西の北緯42度から北緯54度40分までのことで、領土拡大に躍起になっていたアメリカ世論は戦争してでも手に入れる意気込みでした。

この際にジェームズ・ポークは第5代大統領であるジェームズ・モンローが説いたモンロー主義を用いています。ジェームズ・ポークは、ヨーロッパとアメリカの間で互いに干渉しないことを主張したモンロー主義を外交理念に用いた最初の大統領でした。

幸運にもこの時のイギリスは国内問題に追われ、アメリカと戦争している余裕はなく、オレゴン境界紛争は両国の妥協案によって終結しました。戦わずして領土を手に入れたジェームズ・ポークの功績は大きかったと言われています。

ポイント2:米墨戦争による領土拡大に成功

ジェームズ・ポークはアメリカの悲願であった西海岸(太平洋側)の領土獲得を実現した大統領です。メキシコの領土だったカリフォルニアを始め、合計で3億2,000万エーカー(約1,294,994平方キロメートル)を手にした米墨戦争の勝利は、アメリカにとって1803年のルイジアナ買収に次ぐ領土拡大になりました。

この米墨戦争において前線で戦った一人であるザカリー・テイラー将軍は米墨戦争の英雄として注目され、ジェームズ・ポークの後の大統領になりました。


ポイント3:ウォーカー関税の導入

ジェームズ・ポークは前大統領だったジョン・タイラーが導入した高関税の「ブラック関税」を大幅に引き下げて貿易の増加、そしてアメリカの租税収入を増やした功績もあります。35パーセントから25パーセントに引き下げられた税率によって貿易が増加し、結果的にアメリカ経済にプラスになりました。

ちなみに、ウォーカー関税とはジェームズ・ポーク政権で財務長官だったロバート・ウォーカーの名前に由来しており、ロバート・ウォーカーの優れた先見性がジェームズ・ポークの功績を支えました。

まとめ

ジェームズ・ポークはダークホースとして大統領に選出され、コロンビア境界論争や米墨戦争、ウォーカー関税など特に外交政策において功績を残しました。わずか4年で掲げた公約を次々と成し遂げた偉業はアメリカ経済の発展に繋がることが多く、隠れた偉大な大統領と呼ばれる所以になっています。

ジェームズ・ポークに関する豆知識

・大統領在任中の休暇日数は4年間で37日だったとされています。
・アメリカで切手を導入した初めての人物です。
・United States Naval Academy (海軍士官学校)やスミソニアン博物館はジェームズ・ポークによって設立されました。

本記事は、2019年2月4日時点調査または公開された情報です。
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