はじめに
アメリカ大統領史のなかでも唯一の連続ではない2期を務めた人物がグロバー・クリーブランドです。グロバー・クリーブランドは第22代、第24代の大統領を務め、正直かつ誠実な人物として活躍したことから1928年から1946年までアメリカ1,000ドル紙幣の肖像画に採用されました。(現在は廃止)
グロバー・クリーブランドが大統領を務めた第一期では政治腐敗を正すことに尽力し、政府に対する悪いイメージの払拭に努めました。大統領に返り咲いた第二期では1893年恐慌に直面し、困難を迎えることになります。
今回はアメリカ第22、24代大統領を務めたグロバー・クリーブランドを「第一期」と「第二期」に分けて解説します。
「グロバー・クリーブランド」のプロフィール
グロバー・クリーブランドは1837年にニュージャージー州で生まれました。グロバー・クリーブランドが生まれてから両親と9人の子どもはニューヨーク州に引越しをしたため、幼少期の大半はニューヨークで過ごしました。
グロバー・クリーブランドが10代なかばで牧師だった父親が他界したため、大学に通うことを諦めて様々な職をこなしながら生計を立てていました。そのなかのひとつが法律事務所だったため、自らも法律を勉強し弁護士になることを決意します。
1859年にはニューヨーク州の弁護士資格を取得し、ニューヨーク州エリー郡の検事を補佐する検事補を任されるようになります。頭脳明晰に加えて巨漢だったこともあり、その後は同郡の保安官も務めました。
この頃には民主党員として政治活動を始め、1881年には民主党所属の弁護士としてニューヨーク州バッファロー市の市長選に当選します。市長時代には市政改革に尽力し、弁護士そして行政家として多くの人から支持されるようになりました。
1882年にはニューヨーク州知事選挙に民主党候補として指名され、圧倒的な人気で勝利しました。州知事選においては政敵である共和党の革新派からも支持されたほどで、公職制度改革が進められていた時代においてグロバー・クリーブランドの行政手腕の実績は非常に高かったとされています。
1884年の大統領選で民主党候補として出馬したグロバー・クリーブランドは、共和党候補のジェイムズ・ブレインのネガティブキャンペーンに翻弄させられます。その内容は、兵役逃れと隠し子騒動でした。これに対してグロバー・クリーブランドは潔く事実を認めたため、世論は正直者としてグロバー・クリーブランドを味方するようになりました。
一方で、財界との癒着が発覚したジェイムズ・ブレインは共和党からも支持者を失うことになり、僅差でグロバー・クリーブランドが大統領選に勝利しました。このことは、アンドリュー・ジョンソン以降長く続いていた共和党政権が敗れ、民主党が政権を取り戻した大きな転換期となります。
多くのアメリカ国民は南部が支持母体だった民主党が勝利したことで、ついに南北戦争の決着を迎えると大きな期待を寄せ、グロバー・クリーブランドもそれに応えるべきと考えていました。さらに、南部の民主党が主体になっても政治的秩序を乱さないようにすべきとも考えていました。
国民が望んでいたような正直で誠実、そして腐敗した政府を一掃するエネルギーを持っていたグロバー・クリーブランドは正にその典型とされ、連続ではないものの2期にわたって大統領史に様々な功績を残すことになります。
「グロバー・クリーブランド」の経歴
【公職制度改革への取り組み】
グロバー・クリーブランドは1884年の大統領選において、28年振りの民主党出身の大統領になりました。長らく共和党が支配してきた議会では、産業の発展と並行するようにして企業と政治家の癒着や贈賄問題がはびこっていました。加えて、共和党が支配した上院議会は大統領よりも権力を持ち、大統領の無効化と言われるほどに幅を利かせていました。
権力を持った議会は公職の人事に関しても実質的な決定権を持ち、大統領による人事の指名を覆すなどして、議会の都合の良いように政府を操りました。この行き過ぎた議会の暴走を制止しようとしたのが先代の大統領だったラザフォード・ヘイズ、ジェームズ・ガーフィールド、チェスター・アーサーらです。
なかでも、チェスター・アーサーによるペンドルトン法(公職を資格試験制度で選出する制度)の可決は、腐敗した議会に大きな風穴を開けました。チェスター・アーサーが大統領職を終えた後、グロバー・クリーブランドもこの意志を引き継ぎ、政治腐敗、縁故、政治信条による人事に強く反対し、公職制度改革を突き進めました。
アラバマ州連邦検事の任命を巡っては、現職のジョージ・ダスキンを大統領命によって停職させ、新たにジョン・バーネットを任命しました。これに対して共和党上院議員らは反発します。しかし、国民の注目を集めることに長けていたグロバー・クリーブランドは世論を味方につけ、議会が大統領の権利を阻害していること主張しました。議会が反発を諦めざるを得ない状況を作り出し、任命を承認させました。
この実績を持ってしてグロバー・クリーブランドの正当性は証明され、公職在任法は撤廃されることになります。そして、大統領は上院議会の助言や同意を伴わずに公職を更迭できるようになりました。この結果、全国の郵便局長や連邦官使などの公職員を総入れ替えし、公職制度改革に決着をつけたのでした。
【保護関税への挑戦】
グロバー・クリーブランドは大統領に就任後、公職制度改革を進めた一方で、国民の関心を腐敗した政府から関税に向けることにも注力しました。
グロバー・クリーブランドはアメリカの産業や経済を守るために導入されていた保護関税と呼ばれる関税を引き下げるべきと主張しました。事実、大統領選の際には関税を引き下げることを政約とし、アメリカ国民の生活必需品や原材料費にまで国民は大きな金銭的負担を強いられていると危機感を煽りました。
グロバー・クリーブランドは関税問題がいかに重要で緊急であるかを知らしめるために、1887年の一般教書演説において極めて異例の関税問題にだけ的を絞った演説を実施します。演説では国民に負担を強いることは強奪であり、アメリカの公平と正義に反する裏切り行為と表現し、関税引き下げの必要性を説きました。
グロバー・クリーブランドの関税問題に対する熱の入れようは国民の関心を惹き付けますが、共和党によって1通の手紙が公表されたことで事態が急変します。その手紙こそが「マーティソン・レター」と呼ばれる手紙で、イギリス大使のライオネル・サックヴィルが次期大統領選でグロバー・クリーブランドの当選を期待する旨を記したものでした。
この手紙によって、アメリカ政府はイギリスとの貿易を活発化させてイギリス製の物をアメリカ国内に広く流通させようとしており、さらにはアメリカ国内産業をないがしろにする可能性があると解釈されてしまいます。
グロバー・クリーブランドの関税引き下げ方針は製造業の中心だったアメリカ北東部、中西部から批判を買い、とくに影響力が大きかったニューヨーク州からの支持を失います。大統領就任前に知事を務めていたニューヨーク州からの支持を失ったことは致命的な打撃になりました。
このことは、1888年の大統領選で対抗馬となったベンジャミン・ハリソンに敗れる原因となり、1888年の大統領選で再選を逃す結果になったのです。
第二期(1893年3月から1897年3月)
関税問題に失敗したグロバー・クリーブランドは、2期連続の当選を目指した1888年の大統領選で民主党のベンジャミン・ハリソンに敗れてしまいます。一般投票では勝利したものの、選挙人投票で大差をつけられてしまいました。なかでも、出身州であるニューヨーク州の選挙人投票で敗れた(1パーセント差)ことが決定打となりました。
第一期で関税引き下げに取り組んだグロバー・クリーブランドですが、思わぬ形で頓挫してしまった関税問題に執着し続けます。一旦は大統領を退き、弁護士としての活動を再開していたグロバー・クリーブランドは、ベンジャミン・ハリソン大統領による関税引き上げ(マッキンリー関税法)に反対し、1892年の大統領選で民主党から大統領候補の指名を受けます。
この当時のアメリカの関心事は関税問題になっており、民主党は自由貿易主義、共和党は保護貿易主義を主張する対立状態になっていました。ベンジャミン・ハリソン政権によって関税が大幅に引き上げられたことを受け、国内全域で物価が上昇したことや「ザル法」とされたシャーマン反トラスト法など、不評な政策を続けたベンジャミン・ハリソン政権は支持を失い、民主党のグロバー・クリーブランドが大統領に返り咲くことになりました。
4年越しに再び大統領に就任したグロバー・クリーブランドを待ち受けていたのは1893年恐慌と呼ばれた深刻な経済不況でした。この原因とされたのがベンジャミン・ハリソン前大統領によるマッキンリー関税法(関税の大幅引き上げ)です。グロバー・クリーブランドは議会に関税引き下げを要求しますが難航し、1894年の中間選挙では再び共和党が議会を支配するようになりました。
恐慌を解決するにあたり関税を引き下げることが不可欠と考えたグロバー・クリーブランドは、第一期のように強権主義を貫きますが、党の支持を得られずに空回りに終わってしまいます。1894年、ウィルソン・ゴーマン関税法によって関税が引き下げられたものの恐慌を解決するには至らず、強権主義を嫌った党の支持を失う結果に終わりました。
第一期とは打って変わって、グロバー・クリーブランドは思うように政策を進められずに1897年に任期を終えたのでした。この背景には、農業不況、通貨問題、欧州の不景気、不況によるストライキなどがあり、行政手腕で知られたグロバー・クリーブランドは経済の立て直しまでは出来なかったと言われています。
グロバー・クリーブランドは第一期では公職制度改革によって政府の悪い印象を払拭することに決着をつけ、国民の関心を関税問題に移行させましたが、第二期では恐慌によって民主党や支持者らの利権が激変したため、リーダーシップが機能しない状況に陥りました。
孤高を貫き、側近さえも配置せずにすべてを自分で判断したとされるグロバー・クリーブランドは、大統領としてのカリスマ性や特別な才能などはなく、他の誰よりも正直で誠実、強い意志と独立性を持っていた人物だったと評価されています。その反面で、複雑な要因が絡む経済問題を解決できるほどの柔軟性はなかったのも事実です。
ポイント1:公職制度改革を推進(第一期)
グロバー・クリーブランドは公職制度改革を推進させ、長く続いた公職在任法を撤廃させた人物です。先代の大統領だったチェスター・アーサー政権で可決されたペンドルトン法を忠実に実行し、新設されたポジションについては人選に時間をかけ、結果的に多くの優れた人選を生み出しました。
ラザフォード・ヘイズ、ジェームズ・ガーフィールド、チェスター・アーサーらによって着実に前進してきた公職制度改革がグロバー・クリーブランドによって終結したと言えます。公職在任法の撤廃は事実上、大統領の権威復活を意味するものであり、アメリカの政治にとって大きな転換期になりました。
ちなみに、公職在任法は別称で猟官制度、猟官法、スポイルズ・システム、党人任用制などいくつかの表現がありますが、いずれも政治信条や政治的背景に基づいて公職(公務員)の人選を行うことで、政治腐敗を生みやすい制度とされています。
ポイント2:関税問題(第一期、第二期)
グロバー・クリーブランドは自由貿易と保護貿易に揺れていた時代にアメリカ国民に対して関税問題に目を向けるように仕向けたことでも有名です。南北戦争以降、国民の関心は腐敗が続いていた政府に向けられていましたが、全国民に影響が及ぶ関税を問題視したことは、国民を政治に参加させた意味においても功績と言えるでしょう。
グロバー・クリーブランドは、関税問題について焦点とされていた自由貿易派か保護貿易派という観点ではなく、国民が負担を強いられることを問題視していました。政党や利権などではなく、国民の生活を考えた行動だったことは評価されるべき点と言えます。
ポイント3:ベネズエラ国境問題(第二期)
グロバー・クリーブランドはアメリカが領土拡大に向けて海外進出することには消極的な姿勢を貫きましたが、1895年にイギリス領だったギアナとベネズエラの国境を巡る紛争に対し、イギリスに武力を持ってしてでも仲裁に応じるべきと圧力をかけました。
イギリスの領土搾取に反対するのがアメリカの責任と主張し、イギリスは国際仲裁裁判によってこの問題の解決に合意しました。この際にグロバー・クリーブランドが介入の正当性を主張した根拠こそ1823年にジェームズ・モンローによって起草された「モンロー主義」です。
まとめ
グロバー・クリーブランドは連続ではない二期にわたって大統領を務めた唯一の人物ですが、第一期と第二期で評価が大きく分かれることも事実です。とくに第二期では恐慌によって持ち前の強権主義が機能せず、思うような成果を残せずに終わりました。正直さや誠実さには長けていたものの、根回しなどの政治的戦略や経済政策が苦手な一面もあった大統領です。
グロバー・クリーブランドに関する豆知識
・1888年の大統領選で敗れ、ホワイトハウスを去る際にスタッフに対して「4年後に戻ってきます」と言葉をかけ、実際に4年後に戻ってきた逸話があります。
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