はじめに
1913年から1921年まで2期にわたってアメリカ第28代大統領を務めたウッドロウ・ウィルソンは、南北戦争後しばらく続いた共和党政権がなかば崩壊するようにして民主党政権に移行した際の大統領です。
歴代の大統領のなかでも学問に長けた人物として知られ、歴代大統領のなかで唯一自らの努力で博士号を取得したことでも知られています。また、第一次世界大戦への参戦を決断するなど、アメリカにとって大きな時代の転換期に大統領を務めていたことも事実です。今回はアメリカ第28代大統領を務めたウッドロウ・ウィルソンについて解説します。
「ウッドロウ・ウィルソン」のプロフィール
1856年、バージニア州で父親のジョゼフ・ウィルソンと母親のジェシーの間に4人兄弟の3番目として生まれます。ウッドロウ・ウィルソンの祖父母はスコットランドからの移民で、敬虔なキリスト教の牧師でした。父親のジョゼフ・ウィルソンは1861年から1983年まで存在した合衆国長老教会(The Presbyterian Church in the United States)の創始者として知られています。
南北戦争の頃には父親のジョゼフ・ウィルソンは連合軍(南部)を支持し、自らも奴隷を保有していました。自身の教会では毎週日曜日に奴隷に対して教育をおこない、戦争で傷を負った兵士を手当するなど献身的な活躍をしたとされています。
当時幼かったウッドロウ・ウィルソンはその頃の記憶が明確に残っており、連合軍大将のリー将軍の横に立って顔を見上げていた時の様子や、街の通行人が南北戦争の始まりを噂していることなどを覚えていると残しています。ウッドロウ・ウィルソンにとって南北戦争の影響は大きく、9歳まで教育を受けられなかったことで学習障害を抱えることになります。しかし、この障害が後に学問に励む大きな機会に繋がるのでした。
ウッドロウ・ウィルソンは独学で速記を習得し、父親による教育を経てジョージア州のオーガスタにある学校に通うようになります。17歳のときにノースカロライナ州のデイヴィッドソン大学へ進学、1年後には後に総学長を務めることになるプリンストン大学へ編入し、1879年に卒業しました。
その後、バージニア大学で法律学を勉強し、弁護士事務所を開業する傍らでジョンズ・ホプキンズ大学の大学院で政治学の博士号を取得しました。ウッドロウ・ウィルソンはこれまでの大統領経験者とは異なり、弁護士や政治家としてよりも「学者」としての立場を築き上げたことが特徴と言えます。
1910年、学者出身者としてニュージャージー州知事に当選し政治家として本格的な活動を始めます。1912年の大統領選では民主党候補として選出され、共和党のカリスマとされたセオドア・ルーズベルトと、その後継者と言われたウィリアム・タフトの分裂によって共和党は弱体化したため、民主党が勝利してウッドロウ・ウィルソンが大統領に就任しました。
ウッドロウ・ウィルソンは大統領に就任後「ニュー・フリーダム」をスローガンにして関税引き下げなどの国内政策、そして共和党政権時代とは対照的な「宣教師外交」の実施を主張します。しかし、ウッドロウ・ウィルソンを待ち受けていたのは第一次世界大戦に繋がる混沌とした世界情勢でした。
「ウッドロウ・ウィルソン」の経歴
大統領就任まで
牧師が父親だったウッドロウ・ウィルソンは、幼い頃から父親の宣教師活動に合わせた生活を送っていました。バージニア州で生まれたものの、一家は布教活動のためにジョージア州に引越しをします。連合軍を支持した父親の影響で、ウッドロウ・ウィルソンは14歳までジョージア州で過ごすことになります。
ウッドロウ・ウィルソンは学校に通えていなかったため、父親を継いで牧師になることを父親から打診されます。しかし、ウッドロウ・ウィルソンはこれを拒否して、政治の道へ進むお告げがあったと主張しました。このことを心配した周囲から精神分析を奨められたほどでした。
9歳までは文字が読めず、11歳までは文を書けなかったウッドロウ・ウィルソンでしたが、父親の力も借りながら学業に励むようになります。ジョージア州オーガスタの学校に通えるようになってからは階段を登るようにして、名門プリンストン大学へ進学しました。
大学では政治哲学や歴史を勉強し、学生政治団体の会長などを務めるようになります。当時としては珍しい政治学について博識な人物だったことから、政治問題に対する意見や発言が影響力を持つようになっていきました。プリンストン大学を卒業後は法律学を身につけ弁護士になります。また、ブリンマー大学やウェズリアン大学で教鞭を取る一方で、政治学の博士号を取得しました。
このように、ウッドロウ・ウィルソンは幼少期の教育環境の障害を乗り越えて、政治学の学者になりました。これまでの大統領経験者に多い「名誉学位」ではなく、実力で学位を取得したことから、多くの人から支持されるようになります。事実、後のニュージャージー州知事選や1912年の大統領選では「学者出身候補」として新しいタイプの人物として注目を集めるようになります。
大統領就任後
1912年の大統領選では、なかば共和党の自壊によって勝利した民主党ですが、学者出身というウッドロウ・ウィルソンには大きな期待が集まりました。なかでも、アメリカ政治の新しい体制を示したことは功績のひとつと言えるでしょう。
ウッドロウ・ウィルソンは、あらゆる政策を円滑に進めていくためには、アメリカのように行政府と立法府を完全に独立させて権力を分散させるのではなく、イギリスのように党内規律の下に党議拘束を強めて党綱領を実施するべきと主張しました。
また、ウッドロウ・ウィルソンはセオドア・ルーズベルトのような強いリーダーシップを持った大統領が不可欠で、議会に問いかけるのではなく、人民に問いかける大統領が必要と考えました。さらに、大統領は人民を代表して世論を議会に伝え、大統領は人民と密接でなければならないと説きました。
ウッドロウ・ウィルソンの新しいアメリカ政治の形や、大統領のあるべき姿は大衆を喜ばせたことには違いありませんが、政治に博識なウッドロウ・ウィルソンと大衆の間には知識の壁や言葉の本質を捉える力の差があったことは否めないと見る声もあります。
ウッドロウ・ウィルソンの第1期目は国内政策中心となり、関税改革、企業による自由競争の加速、累進所得税の導入などに取り組みました。
1917年からの第2期目は外交問題に取り組みます。なかでも、第一次世界大戦を巡る政策が中心になりました。1916年の大統領選の際に民主党は「彼は私たちを戦争から守った」というスローガンを採用し、ウッドロウ・ウィルソンのお陰でアメリカが戦争を回避できたと大衆から評価されました。
しかし、ウッドロウ・ウィルソンの心情は、軍備を拡張することで他国がアメリカを攻める気にさせないようにすることでした。また、アメリカが参戦しない限りドイツが勝利することは明白で、とくにカリブ海領域でアメリカの脅威になると考えていました。
その後、ドイツによる民間船舶攻撃が発生したため、ドイツとの国交断絶、そして戦争教書を議会に提出してドイツに対して宣戦布告することになります。当初、ウッドロウ・ウィルソンは第一次世界大戦については中立派だったものの、結果的には参戦を決意したのでした。
第一次世界大戦後は国際連盟(後の国際連合:国連)を創設し、国際的な協力によって平和を築くことを提唱しことから、1919年にノーベル平和賞を受賞します。大統領の任期を残り2年とした1919年には病に倒れ、後に回復したものの機械的な作業や演説が続き、任期末期頃は全盛期の影はなかったとされています。
ポイント1:第一次世界大戦への参戦
2期目がかかった1916年の大統領選でウッドロウ・ウィルソンは、第一次世界大戦に対してアメリカは中立の立場を取ることを明言して当選を果たします。しかし、実質的には連合軍へ戦費の貸し付け、武器や物資の調達などを実施しており、中立とは言えない立場になっていました。
ドイツによる無制限潜水艦攻撃によってイギリス船籍のルシタニア号が沈められ、アメリカ人を含む乗客1,198名が死亡しました。さらに、1917年にドイツのアルトゥール・ツィンメルマン外務大臣がメキシコ政府に対し、仮にアメリカが参戦した場合、ドイツはメキシコと手を組むという極秘電報(ツィンメルマン電報)が送られていたことが発覚したことで、ウッドロウ・ウィルソンは連合軍に参戦することを決断します。
現代においてこの決断は、ウッドロウ・ウィルソンが用いた言葉でもある「戦争を終わらせるための戦争」としてもよく知られています。
ポイント2:ノーベル平和賞
1919年、ウッドロウ・ウィルソンはアメリカ人としてセオドア・ルーズベルトに次いで2人目のノーベル平和賞を受賞しています。1918年に第一次世界大戦後の和平会議のためパリを訪れ、世界初となる国際平和機構の国際連盟を創設しました。第二次世界大戦後の1946年に国際連盟は国際連合、いわゆる「国連」になります。この平和機構の創設に尽力し、委員長を務めた功績が評価されてノーベル平和賞を受賞しました。
また、これに先立ち、第一次世界大戦後の国際秩序の構想を示した「十四か条の平和原則(Fourteen Points)」も発表しており、国際社会が協力して平和を築く重要性を提唱しています。
ポイント3:ニュー・フリーダム
ウッドロウ・ウィルソンが1912年の大統領選で掲げたスローガンが「ニュー・フリーダム」です。セオドア・ルーズベルトが取り組んだ大企業による独占を禁止して、連邦政府による規則の下に企業を置くという方針に対し、ウッドロウ・ウィルソンは独占を禁止するものの自由競争を活発化させて、行政府への過度な権力集中を避けるべきとしました。
セオドア・ルーズベルトよりも一歩踏み込んだこの思想は、あくまでも自由競争から逃れるために独占(トラスト)する大企業を敵視したのであって、正当に自由競争を生き残ろうとする大企業からは歓迎されました。
立法の面では主に、関税率が平均41パーセントから27パーセントに引き下げられ、鉄鋼や羊毛は免税されました。さらに、累進所得税の導入や中小企業が大企業と競争が出来るように連邦取引委員会が設立されました。現代にも続く自由競争の基礎はウッドロウ・ウィルソンの貢献が大きかったと言えるでしょう。
まとめ
ウッドロウ・ウィルソンはアメリカ大統領史のなかでも珍しい学者出身の大統領です。なかでも専門だった政治学は大統領就任後も生かされ、アメリカ政府や大統領のあり方について近代的な思想を導入しました。アメリカの政治が近代的に変化したのはセオドア・ルーズベルトとウッドロウ・ウィルソンの貢献が大きいと現代でも評価されています。
ウッドロウ・ウィルソンに関する豆知識
・1919年10月、脳梗塞で倒れた影響で言語症や左半身不随などの重度の後遺症が残りましたが、主治医と妻のイーディスはこの事実を極秘にし、代わりにイーディスが非公式に決裁などをおこなっていたとされています。しかも、この事実はウッドロウ・ウィルソンの死後(1924年)に明らかにされました。
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