アメリカ第33代大統領ハリー・S・トルーマンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第32回目は、第33代大統領を務めたハリー・S・トルーマンです。ハリー・S・トルーマンは、第二次世界大戦を正式に終結させた大統領として有名です。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。


はじめに

1945年4月12日、アメリカ国内で圧倒的な人気を誇ったフランクリン・ルーズベルトが急死したため、繰り上がるようにして副大統領から大統領へ就任したのがアメリカ第33代大統領ハリー・S・トルーマンです。

ハリー・S・トルーマンは原子爆弾の使用を許可したことや、ソ連との間で始まり世界中に影響を及ぼすことになった「冷戦」の始まりの時代に大統領を務めていた人物として知られています。

一方で、就任当時のアメリカは第二次世界大戦の最中だったことや、自身の外交経験が乏しいこと、カリスマ的だったフランクリン・ルーズベルトの後を継ぐ重責など、厳しい状況下で大統領になった人物でもあります。今回は、アメリカにとって長く続いた戦争時代に大統領を務めたハリー・S・トルーマンについて解説します。

「ハリー・S・トルーマン」のプロフィール

ハリー・S・トルーマンはミズーリ州の農家で3人兄弟の長男として生まれました。幼い頃から農業や家畜によって生計を立てていた父親の仕事を手伝うことが習慣だったと言います。高校を卒業してからは銀行の事務職などで働きますが、22歳のときに父親の仕事を継ぐため農業に専念することにしました。

第一次世界大戦の際には州兵として参戦し、大尉を務めたハリー・S・トルーマンですが、終戦後にはミズーリ州に戻って恋人のベスと結婚しています。その後、ミズーリ州のカンザスシティで市会議員を務め「政治ボス」と呼ばれた実力者のトーマス・ペンダーガストと知り合い、同州ジャクソン郡の行政官に就任しました。

ハリー・S・トルーマンは、行政官として州内の道路整備などを成功させたことから、次第に地元でも良い評判が広まるようになりました。後ろ盾になっていたトーマス・ペンダーガストの奨めもあり、ミズーリ州の上院議員として選出され、本格的に国政へ携わるようになります。

フランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策を支持し、地元州でも世界恐慌から立ち直ることに貢献しました。上院議員として再選を果たしてからは国防費の不正使用を調査する「トルーマン委員会」を設立し、おおよそ150億ドルの無駄な使用を暴き、その名を国内に知らしめました。

全国的な知名度を得たハリー・S・トルーマンは、1944年の大統領選において民主党から副大統領候補として選出され、フランクリン・ルーズベルトと一緒に勝利を収めています。副大統領職に就任した僅か3ヶ月後、フランクリン・ルーズベルトが急死したため大統領に繰り上がるようにして就任します。

この時の様子は自身の日記に書かれており、外交への自信のなさやトップとしての責任の重さ、周囲からの信頼のなさなどに触れ、不安しか書かれていなかったとされています。まさに前途多難な大統領職の始まりだったと言えます。

「ハリー・S・トルーマン」の経歴

大統領就任まで

1884年にミズーリ州で生まれたハリー・S・トルーマンは、農業を営んでいた父親を手伝う生活を続けていたため、大学には進学せずに事務職に就く傍らで農業を手伝っていました。後に政治家そして大統領にまで登り詰める訳ですが、ハリー・S・トルーマンはアメリカ大統領史上最後の大卒ではない大統領経験者ということになります。

1906年に正式に父親の農業を継いだものの、アメリカは第一次世界大戦に参戦することが決まり、ミズーリ州の州兵としてフランスに派遣されました。帰国後に職を転々としながら過ごしている時に、地元の実業家で市会議員のトーマス・ペンダーガストと知り合い、政治の道へ進むことになります。


政治ボスの異名を持ったトーマス・ペンダーガストの支援によって市会議員選挙に立候補したハリー・S・トルーマンは、票を獲得するために白人至上主義団体のKKKに入会しています。(その後すぐに退会)1922年には地元の行政官に就き、道路整備を始めとする公共事業や、そのための債券発行を実現し地元のインフラ整備に貢献しました。

ハリー・S・トルーマンは、この頃に公共事業の重要性や、予算確保の手法、腐敗が起こる可能性を認識していたことから、後にフランクリン・ルーズベルトが注力したニューディール政策(世界恐慌を克服するための政府主体の公共事業など)を熱心に支持し、同時に公共事業の無駄を暴く必要性に気づいていました。このことは後に名を広めることになる「トルーマン委員会」設立に繋がります。

1934年、トーマス・ペンダーガストの支援を受けて連邦上院議員に選出されたハリー・S・トルーマンは、10年間にわたり同職を務め、国防費の無駄を断罪するなどして全国的な知名度を手に入れました。1944年の大統領選では副大統領候補として民主党から選出され、フランクリン・ルーズベルト大統領の元で働くことになったのでした。

1945年、第4期目となるフランクリン・ルーズベルト政権が始動してわずか82日後の4月12日、急遽ホワイトハウスに呼び出されたハリー・S・トルーマンは、フランクリン・ルーズベルト夫人から大統領の死を告げられます。

大統領就任後

フランクリン・ルーズベルトの突然の死を告げられたハリー・S・トルーマンは、動揺する夫人に対して何かしらの支援を申し出ますが、夫人からまったく同じ質問を返されてしまったと言われています。それほどまでにハリー・S・トルーマンが置かれた状態は大変な状況を意味していました。

その頃のアメリカは第二次世界大戦の真っ只中にあり、降伏しない日本に対して原子爆弾の使用が秘密裏に計画されていたことや、第二次世界大戦の幕引き、ソ連が対日参戦することでの後の影響(ソ連が最強国になる恐れ)など、あまりにも大きな課題が山積していました。

1945年7月、アメリカを代表してポツダム会談に参加したハリー・S・トルーマンは、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長らと第二次世界大戦の戦後処理について話し合い、日本の無条件降伏を含むポツダム宣言を作成しました。この時、ハリー・S・トルーマンはソ連の対日参戦を約束されましたが、軍事大国になっていたソ連を恐れもしていました。

戦後の世界においてソ連が優位になる状況を避けたかったハリー・S・トルーマンは、ソ連抜きで日本を降伏させられないかと考えるようになります。そんな時、アメリカから核実験(トリニティ実験)が成功したという知らせが入ります。

ハリー・S・トルーマンは原子爆弾を日本に使用して降伏が実現すれば、戦争の幕引きとソ連への警告が出来ると国務長官だったジェームズ・F・バーンズらの原爆強行派に進言され、ソ連の参戦よりも原子爆弾の使用を優先して考えるようになりました。

原爆強行派は原子爆弾を使用する前に日本が降伏すると原子爆弾を使用する機会がなくなることと、ソ連へ圧力をかける機会を失うと判断し、ハリー・S・トルーマンが降伏条件を緩和することを阻止しました。

その結果、1945年8月6日、広島に初めての原子爆弾が投下され、8月9日には長崎にも投下されました。日本は9月2日に無条件降伏が含まれたポツダム宣言に署名し、アメリカにとって第二次世界大戦は終結しました。

第二次世界大戦が終結した後は、アメリカはソ連との関係を悪化させることになります。当時のソ連を率いたスターリンは東ヨーロッパへの影響力を拡大し、なおかつ日本の北海道北部も手に入れようとアメリカに打診するほど強気な姿勢でした。これに対してアメリカは強硬姿勢で対応し、両国の関係は緊張関係に発展します。

ハリー・S・トルーマンは、ソ連がヨーロッパでの勢力をこれ以上拡大させないために、第二次世界大戦で罹災したヨーロッパ諸国に対して復興援助を実施し(マーシャル・プラン)また、内戦状態に陥っていたギリシャやトルコにソ連が侵攻することを阻止するために、イギリスに代わって両国に4億ドルの支援を決定しました。(トルーマン・ドクトリン)

これらのマーシャル・プランやトルーマン・ドクトリンは、ハリー・S・トルーマンが実施した外交における功績とされており、事実、ソ連がヨーロッパに勢力を拡大することを抑制することに繋がりました。一方で、アメリカとソ連の関係は一層悪化し、資本主義(アメリカ)と共産主義(ソ連)の2つに大きく分断され「冷戦」状態に突入しました。

1950年には朝鮮戦争が勃発、アメリカは国際連合軍として参戦したためハリー・S・トルーマンは外交政策に専念せざるを得ない状態になります。ソ連や中国との対立を招き、朝鮮戦争が長期間にわたり泥沼化したことから支持率は急激に下がっていきました。このような状況下での再選は難しいと判断し、1952年の大統領選には不出馬を決めて政界を引退しました。


ちなみに、大統領職を退いたハリー・S・トルーマンは収入源を失い困窮状態に陥ったことから、この時に大統領の年金制度が作られています。1964年には転倒事故が原因で半身不随になり活動が制限され、1972年に88歳で亡くなりました。

ポイント1:第二次世界大戦の終結と核兵器

ハリー・S・トルーマンは第二次世界大戦を正式に終結させた大統領です。1945年5月にはドイツが降伏し、最後に残ったのが日本でした。当時の日本の外務大臣だった東郷茂徳は、ソ連を仲介役としてアメリカとの和平工作を試みますが交渉は難航していました。

この時、アメリカ政府は日本の和平工作の通信を解読し、日本が和平を望むことを大統領に伝えていました。つまり、ハリー・S・トルーマンは日本が和平を望み、降伏の可能性があることを知っていながら、意図的に無視をして原子爆弾の使用を推進したことになります。このことは後にアメリカ国内で批判の対象になりましたが、大統領を辞してから全国で演説をおこなったハリー・S・トルーマンは、原子爆弾の使用の正当性を主張し続けました。

一方で、大統領による明確な指示の証拠はなく、国務長官だったジェームズ・F・バーンズが押し切るようにして話を進めたという声があることも事実です。ジェームズ・F・バーンズは後の冷戦時に、他国との交渉の際に核兵器の存在を露骨に示す強気な姿勢を取り続けたため、1947年にハリー・S・トルーマンによって解任させられています。

ポイント2:冷戦の始まり

ハリー・S・トルーマンが大統領に就任してすぐに冷戦の始まりを迎えたと言えます。第一次世界大戦以降、ソ連は急激に軍事力を増してアメリカにとってひとつの脅威になっていました。両国は第二次世界大戦では連合国として同盟ではあったものの、共産主義を拡大しようとしていたソ連と、資本主義の代表だったアメリカは対立するようになります。

ハリー・S・トルーマンはソ連が共産主義を広めようとすることを阻止するために、外交的な戦略をとりました。そのひとつが「トルーマン・ドクトリン」です。ソ連にとって拡大を阻止されることに繋がったこの一件をきっかけにして、ソ連とアメリカは明確に対峙することになりました。

ソ連とアメリカとの間に武力衝突はなかったものの、両国が優位性を保つために核兵器の開発など進め、まるで戦争下のような状態だったことから「冷戦」や「冷たい戦争」と呼ばれるようになります。冷戦は1991年にソ連が崩壊するまで44年間も続きました。

ポイント3:フェアディール政策

1948年の大統領選ではフランクリン・ルーズベルトの意思を継いだ政策を続けることを表明し、自ら「フェアディール政策」と名付けた政策を推進しました。フェアディール政策は、アメリカ国民が政府から社会福祉や国民健康保険制度、教育などを平等に受け取れるような福祉国家アメリカを目指したものでした。

しかし、共和党からの反対意見が多く、冷戦の最中に社会主義的な理想国家像は受け入れられず、実質的に頓挫した政策になりました。ちなみに、アメリカの国民健康保険制度はフェアディール政策の目玉のひとつでしたが、この時に廃案になっています。仮に、ハリー・S・トルーマンが外交問題ではなくフェアディール政策に専念できていれば、現在のアメリカの福祉事情は大きく違ったことでしょう。

まとめ

アメリカ第33代大統領を務めたハリー・S・トルーマンは、図らずも大統領職に就くことになりましたが、第二次世界大戦や冷戦、朝鮮戦争など在任中は外交問題に翻弄され続けた人物でした。第二次世界大戦を終結させたことは一定の評価があるものの、人類で初めて核兵器を使用した国がアメリカという負の歴史も残しました。

戦争の終結によって多くのアメリカ人が命を落とさずに済んだと英雄視される側面があるものの、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーや、ハーバート・フーヴァー元大統領、マッカーサーらからは痛烈な批判を受けたことも事実です。

一方で、アメリカの大統領は核兵器に対する決定権を持つ最高司令官であることや、資本主義のリーダー的役割を担う存在であることを証明した人物です。現代にも続く「アメリカ大統領の存在感」を世界に示したのがハリー・S・トルーマンだったと言えるかもしれません。

ハリー・S・トルーマンに関する豆知識

・フランクリン・ルーズベルト政権で副大統領を務めたにもかかわらず、本人とは一度しか顔を合わせていないと言われています。
・マッカーサーは大統領が自分に相談なく原子爆弾の使用を許可したため、ハリー・S・トルーマンに激怒したと言われています。
・朝鮮戦争の際に国連軍の総司令官だったマッカーサーが、中国本土へ核爆弾を使うことを進言しましたが、ハリー・S・トルーマンはそれを拒否し、マッカーサーを更迭しています。

本記事は、2019年12月20日時点調査または公開された情報です。
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33代大統領ハリー・S・トルーマン
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