アメリカ第39代大統領ジミー・カーターについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第38回目は、第39代大統領を務めたジミー・カーターです。ジミー・カーターは、2002年に「ノーベル平和賞」を受賞した大統領として知られています。

公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。


はじめに

リチャード・ニクソンが関与したとされるウォーターゲート事件以来、急激に信頼を失っていった共和党政権に民主党候補として立ち向かったのが今回ご紹介するジミー・カーターです。

ほとんどのアメリカ国民がジミー・カーターのことを知らなかったとされるほど知名度が低かった人物ですが、どのように大統領選で勝利し、どのような功績をあげたのでしょうか。今回はウォーターゲート事件によって失墜したアメリカ政府への期待を取り戻すためのホープとなったジミー・カーターについて詳しく掘り下げて解説します。

「ジミー・カーター」のプロフィール

ジミー・カーターはアメリカ南部のジョージア州の出身です。ピーナッツ農園を経営する父と看護師の母の間に長男として生まれ、兄弟は4人いました。大統領経験者で初めて病院で出生した人物として記録が残っています。

生まれてから大学生までジョージア州で過ごし、ジョージア工科大学で理学士の学士号を取得しています。22歳になった1946年には海軍兵学校に入学し、理学士の知識を生かして原子力潜水艦の開発担当者も務めました。この頃にロザリン・スミスと結婚をし、後に4人の娘をもうけています。

1953年、父親がジョージア州の下院議員に当選したもののすぐに他界したため、海軍を退役して家業のピーナッツ農園を継ぐことにしました。妻のロザリンと一緒にピーナッツ栽培について学習し、大成功を収めています。

ピーナッツ農園を経営する傍らで地域の教育委員などを務め、1961年にジョージア州上院議員に当選し、政治家としての生活が始まります。後に、敗れてしまうもののジョージア州知事選にも立候補し、穏健派でリベラルな発想を持った人物として知られるようになりました。

1970年にはジョージア州知事選で勝利し、1期のみ州知事を務めた後、1976年の民主党候補として大統領選に選出されました。現職だったジェラルド・R・フォードとの接戦を制し、第39代アメリカ合衆国大統領に就任しました。

しかし、この選挙は戦後最低の投票率を記録しており、ウォーターゲート事件に対する不信感、ニクソンを恩赦したジェラルド・フォード大統領への失望、そして誰もジミー・カーターを知らないという「関心が低い大統領選」となりました。ただ、多くのアメリカ人はとびきりの笑顔とピーナッツ農園の経営者というクリーンな印象を持ったジミー・カーターに好意的だったことは違いありません。

「ジミー・カーター」の経歴

大統領就任まで

1924年、ジョージア州で生まれたジミー・カーターは南部の家庭らしく農園を経営する家庭で育ちました。工科大学に在学中は第二次世界大戦の最中ということもあり、卒業してからはすぐに海軍兵学校に進みました。

海軍兵学校に入校してすぐに戦争が終わりましたが、原子力潜水艦の技術士として開発に参加しています。1952年にはカナダのオンタリオ州にあるチョーク・リバー研究所で起きた原子力事故の処理に参加していたため被爆を体験しています。

1953年、父親が死んだことを機に海軍を退役し、実家のピーナッツ農園を継ぐことにしました。父親の成功を見ていたものの、農場経営には無知だったジミー・カーターは独学でピーナッツ栽培や農場経営を学び、結果的に大成功を収めることになるのでした。


地元の有力者として知られるようになってからは、地元の評議員として活躍するようになり、周囲の奨めを受けて、1961年のジョージア州上院議員選挙に立候補しました。この時、敗戦が確定していましたが、選挙不正があったことを訴えて、結果が覆るという事態を体験しています。

1966年にはジョージア州知事選挙にも立候補しますが、南部特有の保守的な思想を持った人たちに受け入れられず敗戦。1970年の州知事選では、人種差別撤廃、貧富の差是正、教育格差の是正を訴えて見事に勝利しました。後の大統領選でもトレードマークとされた満面の笑みと穏やかな表情は人々に好印象を与えました。

4年間の州知事を経験した後の1976年の大統領選ではついに民主党候補として選出されます。この時、ジョージア州以外でジミー・カーターのことを知る者はいなかったとされており「ジミー?誰?」という言葉がいたるところで聞かれたほどでした。

しかし、誰も知らないことやクリーンな印象が有利に働き、長引いていたウォーターゲート事件の余波や、共和党への不信感などの不満を募らせたアメリカ国民から支持されるかたちになりました。結局、現職のジェラルド・フォードを僅差ながら破って大統領に就任します。

大統領就任後

ジミー・カーターが大統領に就任した1977年頃は、政治不信、南ベトナム崩壊、高インフレ、財政赤字、マイナス経済成長率などの問題が山積みでした。これらの問題を解決できる術を持っていなかったジミー・カーターは「結束」を訴えかけ、先代のジェラルド・フォードが積極的だった、大統領と国民の距離感を縮めることに懸命になりました。

大統領と一般人が質疑応答できるラジオ番組への出演を始め、ホワイトハウスでの質素な生活、一般人同様に部屋着でテレビに出演するなどしましたが、かえって大統領の尊厳を失う結果になってしまいます。後にジミー・カーターは「世論に過剰に反応し過ぎた」と世間体を気にし過ぎた方針を認めています。

ジミー・カーターが残した数少ない功績のなかのひとつにエネルギー省の創設があります。他国からの石油輸入に頼ることの危険性を訴え、新たなエネルギー源の開発を促進するために1977年にエネルギー省を設立し、国民にエネルギー問題に関心を持つように仕向けました。しかし、1979年3月にはペンシルベニア州でスリー・マイル島原発事故が発生し、エネルギー開発に懐疑的な目が向けられる始末でした。

他にもジミー・カーターは連邦裁判所判事に女性を積極的に採用したり、政府機関に黒人、女性、高齢者、ユダヤ人、同性愛者などのいわゆる少数派を積極的に割り当てるなどの取り組みを進めました。1964年に差別を禁止する公民権法が成立して以降、少数派が次々に社会で活躍できる環境の走りになったことは間違いないでしょう。

外交では、1978年に対立関係にあったエジプトとイスラエルの和平協定を仲介した「キャンプ・デービッド合意」があります。ジミー・カーターによるこの働きは、中東和平に貢献したと評価された反面、この時のエジプト大統領だったサダトが暗殺される事態を招きました。

この他にもジミー・カーターは外交に積極的で、パナマへパナマ運河の返還、中国との正式な外交関係締結、台湾からのアメリカ軍撤退などを決めています。このようなジミー・カーターの積極的かつ平和的外交は、大統領を退いた後も継続し、2002年のノーベル平和賞の受賞に繋がるのでした。

総じて、ジミー・カーターが大統領時代に残した功績には目立ったものはありませんが、少数派の社会進出を促進したことや、エネルギー問題に国をあげて取り組む仕組みを作った政策は現代にも続く基礎になっています。さらに、中東和平や中国との国交正常化などを実現したことも評価されるべきことと言えます。

ポイント1:アメリカ大使館人質事件

1979年11月4日、イランの首都テヘランにあったアメリカ大使館で大使館職員を人質にとった占拠事件が起こりました。この事件は、エジプトに亡命したイラン元皇帝のパフラヴィーをイランに送還させることを要求した過激派による事件で、イランを近代化、西洋化しようとしたパフラヴィーを支持したアメリカが標的になったものです。

学生を中心にした過激派はアメリカ大使館に侵入し、52人を人質にとりましたが、イギリスやカナダ大使館の援助を受けて6名は国外へ脱出できたものの、大半の人質はジミー・カーターが退任した1980年1月20日まで444日間も軟禁状態に置かれました。ジミー・カーターは軍事力による人質奪還を試みますが失敗に終わり、いたずらにイランの態度を硬化させることになっただけでした。

結局、アメリカはサウジアラビアやヨルダンなどの仲介国の力を借りて交渉を続けることになりますが、1980年7月27日にパフラヴィーが死亡したため沈静化に向かいました。解決まで1年以上も時間を要したこの事件はジミー・カーターのリーダーシップのなさを露呈させ、1980年の大統領選にまで影響しました。(ジミー・カーターはロナルド・レーガンに敗北)

イラン政府はこの事件についてアメリカに謝罪しないまま今日に至っており、アメリカとイランは国交断絶状態が続いています。外交関係について取り決めたウィーン条約では、大使館の安全は所在する国が責任を持つことになっていますが、イランはそれを無視したため世界中から非難を浴びる結果になりました。


ポイント2:モスクワオリンピックをボイコット

1980年、ジミー・カーターはモスクワオリンピックにアメリカ選手団を送らないという決断を下します。アメリカに賛同した日本や中国など50カ国がボイコットする事態になりました。この騒動の背景は、ソ連がアフガニスタンにいるイスラム原理主義の反政府勢力を制圧するために侵攻したことがきっかけです。

ジミー・カーターは、アフガニスタンを含むペルシャ湾一帯において、どこかの国が支配しようとするような動きは、すべてアメリカへの攻撃とみなし、軍事力を使ってでも阻止するという姿勢を表明しました。ソ連に対する実質的な挑戦になったこの一件は「カーター・ドクトリン」と呼ばれています。

ポイント3:ノーベル平和賞を受賞

ジミー・カーターは2002年に「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」ということを理由にノーベル平和賞を受賞しています。

大統領就任期間中の4年間では、エジプトとイスラエルの和平協定を仲介したり、中国と国交を結ぶことを実現しています。大統領を辞めてからは「カーター・センター」を設立し、北朝鮮の金日成主席や、キューバのフィデル・カストロなどと接見しています。なかでも、1994年の北朝鮮訪問は核兵器の開発凍結を盛り込んだもので、後の「米朝枠組み合意」に繋がります。(当時は大きな進展だったものの2003年に決裂)

ジミー・カーターのこのような取り組みが評価され「史上最高の元大統領」としてノーベル平和賞を受賞したのでした。皮肉にも、ジミー・カーターは大統領時代よりも、引退してからの方が評価される人物になりました。

まとめ

ジミー・カーターは地元のジョージア州以外では誰も知らないという存在でありながら、共和党に幻滅したアメリカ国民の期待を背負って大統領に就任した人物です。国政、外交ともに批判されることが多く、任期を終える頃の支持率は底を打ち、トレードマークだった笑顔や穏やかな表情は消え去っていました。

ジミー・カーターは、アメリカの大統領は国民との間に一定の距離感が必要なことや、国民の結束や国民感情だけで政治は動かないことを証明することになりました。議会をまとめるための術を持たなかった「無知な大統領」という評価を受けています。

ジミー・カーターに関する豆知識

・ジミー・カーターは大統領就任式後に歩いてパレードをする習慣を初めて取り入れた大統領です。就任直後から国民との距離を縮めたかった思惑が見て取れます。
・2019年8月時点で、ジミー・カーターは最長寿の歴代大統領経験者です。

本記事は、2020年1月2日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

39代大統領ジミー・カーター
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