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武士の気風を反映した新しい文化の誕生・鎌倉時代の文化・仏教・経済

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鎌倉時代といえば、本格的な武家政権「鎌倉幕府」が誕生した時代です。征夷大将軍となった源頼朝は関東に幕府を開きました。これまでは京都が政治の中心でしたが、源頼朝はそれを大きく変えたのです。

またこの鎌倉時代を象徴する出来事としては、新しい仏教が次々と誕生したことでも有名です。これまでは朝廷や権力を有する公家とも密接な関係だった仏教が、新しい姿で地方武士や庶民に広く浸透していくことになります。

日本の歴史を振り返ったときに、公家中心だった文化や仏教が、地方と結びついていく大切な転換期が、この鎌倉時代です。

この鎌倉時代で押さえておきたい文化や仏教の重要ポイントは、3点になります。

① 新しく誕生した6つの仏教(鎌倉新仏教6宗)、「浄土宗」「浄土真宗」「時宗」「法華宗」「臨済宗」「曹洞宗」
② 「運慶」「快慶」の代表作「東大寺南大門の金剛力士像」
③ 「琵琶法師」が弾き語りする「平家物語」、後鳥羽上皇の指示でまとめられた歌集「新古今和歌集」、鴨長明が著した「方丈記」、吉田兼好が著した「徒然草」

どれも試験に出題される可能性が高いものばかりですね。特に新興仏教に関しては開祖についても結びつけて覚えましょう。文学も著者や選定者などといった関係する人物も併せて覚えておかないと正答できないので注意してください。

鎌倉文化に活躍した人物やその作品、室町文化(北山文化・東山文化)に活躍した人物やその作品はしっかり選別できるようにしておきましょう。禅や臨済宗などは室町文化にも直接的につながっていきます。歴史は縦と横のつながりも理解しておくことが大切です。

それでは、今回は武士が活躍することになった最初の時代である鎌倉時代の文化・仏教・経済についてお伝えしていきましょう。

目次

鎌倉文化の特徴

武士の台頭「地方への文化の拡大」

鎌倉時代の特徴の一つが地方の活性化です。鎌倉幕府が関東で開かれたことが重要な要素を占めています。このことで、京都を離れ地方に移り住む公家や僧侶なども現れることになります。彼らは地方に受け入れられ、都の文化を伝えていったわけです。

武士も武芸ばかりでなく学問にも興味を持ちはじめました。「北条実時」は港として栄えていた六浦の金沢(神奈川県・横浜市)に、和漢の書籍を集めた「金沢文庫」を設営しています。日本最古の武家文庫として有名です。

さらに地方武士も都で働く機会が増えました。鎌倉幕府は、京都の内裏警護のために「京都大番役」という役目を御家人に課しています。当初は半年の期間、京都に住むことになっていました。地方武士がここで都の文化を知り、そして学び、これを地元に持ち帰って地域に広めたこともポイントです。


こうして京都や公家が文化の中心だったのが、地方に伝播し、武士や庶民の文化と融合されて新しい気風の鎌倉文化を誕生させました。鎌倉文化を表すキーワードは「素朴」「質実」「力強さ」になります。

朝廷への対抗心「日宋貿易」

関東に幕府を開いた鎌倉幕府は、新しい文化を導入することで京都や朝廷に対抗しようと試みます。そのためには当時の中国を支配していた「宋」との文化交流が重要でした。

「日宋貿易」といえば精力的にその振興に辣腕を振るった平清盛をイメージしますが、鎌倉幕府も民間の日宋貿易を認めていましたし、幕府の指示を受けた商船が建長寺再建費用調達のために宋を訪れています。

やがて「元」によって宋は勢力を縮小していくことになります。元の支配から逃れるために南宋からは多くの人が日本に移り住んだといわれています。その中には僧侶も含まれており、仏教の経典の輸入や留学僧と共に鎌倉新仏教誕生に貢献しています。

こうして日本には「宋銭」が大量に輸入されることになり、日本の貨幣経済は発展していくことになるのです。貨幣経済の普及に伴い物価の変動という新しい問題も生まれています。

戦乱と飢饉による荒廃「新しい仏教への期待」

天皇の後継者争いから端を発した政争劇は藤原氏をはじめとする公家だけでなく、武士を巻き込み大きな戦争へと発展していきます。1156年の保元の乱や、1160年の平治の乱、さらにここから先は平氏と源氏が全国の武士を二分する勢力争いを繰り広げています。相次ぐ戦乱や飢饉により各地は荒廃していきました。

地方武士や庶民を救う新しい仏教が必要とされたのです。厳しい戒律や知識を必要とする旧仏教よりも、「わかりやすく」「シンプルで」「誰でも実践できる」新仏教に期待が集まりました。

鎌倉幕府としても、朝廷と公家と繋がりの強い旧仏教に対抗できる新しい仏教を探していたことでしょう。もちろん旧仏教も黙って見ていたわけではありません。1207年の承元の法難のような新仏教を弾圧する動きも出現してきます。

新興仏教(鎌倉新仏教6宗)とはどのようなものだったのか

浄土宗「法然」

比叡山の天台宗の僧だった「法然」は、1175年に「南無阿弥陀仏」という「念仏」をひたすら唱えることで往生できるという「専修念仏」を説きました。京都だけでなく地方にも広がりをみせましたが、比叡山が専修念仏の停止を訴え、後鳥羽上皇がそれを認めたことで法然は土佐に流罪となっています。これが1207年の承元の法難です。

弟子には浄土真宗の開祖となる親鸞がおり、承久の法難の際には共に流罪となっています。法然は讃岐に流罪地が変更となり、10ヶ月後に赦免されました。しかし入洛は許されず、帰京できたのは1211年のことになります。本山は京都の知恩院です。

浄土真宗「親鸞」

「親鸞」は法然同様に比叡山の天台宗の僧でしたが、1201年の29歳のときに下山し、法然に弟子入りしました。専修念仏の布教に努めましたが、1207年の承元の法難で越後に流罪となっています。1211年に赦免されていますが、その後は関東で布教活動に努めたといわれています。

主著に「教行信証」があり、こちらが「浄土真宗」の教典とされています。ここで説かれる「他力本願」の他力とは阿弥陀仏の力のことです。「悪人正機説」とは、悪人こそが阿弥陀仏が救おうとしている対象であり、己を悪人と自覚することで他力本願が叶うというものです。法然から受け継いだ思想だといわれています。親鸞の没後は「西本願寺」「東本願寺」に分かれて対立しています。

時宗「一遍」

伊予の豪族の子息で天台宗において出家し、1251年以降は大宰府に移り住み浄土宗の教えを学びました。阿弥陀仏によって救われる念仏を唱えるのは共通しますが、一遍はその喜びを踊りで表現しています。そのため「踊念仏」と呼ばれました。

一遍は布教のため、諸国に時衆を率いて遊行しています。寺院に依存しないのが、一遍の「時宗」の特徴といえるでしょう。ちなみに1282年、鎌倉入りは拒否されています。京都での踊念仏は許されています。

法華宗「日蓮」

比叡山や高野山で学び、1253年より「題目」とされる「南無妙法蓮華経」を唱えるようになって「日蓮」と改名しました。1260年には「立正安国論」を北条時頼に送っています。


立正安国論では浄土宗を邪法と論じており、このままでは内乱と外国からの侵略によって国がたいへんな危機に陥るために「法華経」を中心にして国を再建する必要があると主張しています。そのために浄土宗から迫害に遭い、臨済宗を信仰していた北条時頼からも睨まれることになり、伊豆に流罪となっています。本山は身延山久遠寺です。

臨済宗「栄西」

比叡山で出家し、南宋へ留学し、「禅」の教えに出会います。1198年には「興禅護国論」を執筆し、他宗との融和を図りつつ、禅の重要性を説きました。そのため、鎌倉幕府だけでなく、朝廷の庇護も受けています。

1202年には鎌倉幕府二代目将軍の源頼家より寄進され、京都に建仁寺を建立しています。歴代の執権・北条氏も「臨済宗」を保護しています。室町時代になるとさらに強く保護を受けるようになりました。京都五山、鎌倉五山すべて臨済宗によって占められています。やがて室町文化の鹿苑寺金閣や慈照寺銀閣へと繋がっていくことになります。

曹洞宗「道元」

「道元」は公家の出自で、比叡山で出家しています。その後、栄西の弟子から禅宗を学び、南宋に留学しました。南宋で「曹洞宗」の教えを受けました。帰国後は京都で迫害され、越前へ移り住みます。

曹洞宗は、坐禅中心の厳しい修行の中に仏と悟りを見出すというのが特徴です。臨済宗が中央の権力と結びついて勢力を拡大していったのに対し、同じ禅宗でありながら曹洞宗は地方で広がりをみせています。

建築・彫刻・絵画・文学

建築「東大寺南大門の再建」彫刻「金剛力士像」

東大寺と興福寺が1180年の平重衡の戦闘によって焼失してしまいます。興福寺は藤原氏により再建され、東大寺は後白河法皇の指示のもとで再建されます。このとき宋から伝わった「大仏様」という建築様式を採用して重源が「南大門」を再建しました。

またその南大門には奈良仏師の「運慶」と「快慶」が「金剛力士像」を像造して安置しています。8.5mの大きさの像を運慶や快慶らはわずか2ヶ月で完成させたとされています。南大門、金剛力士像共に国宝です。

絵画「似絵」文学「軍記物」「歌集」「随筆」

「似絵」は大和絵系の肖像画で、藤原信実が有名です。「後鳥羽天皇像」は国宝に指定されています。国宝「随身庭騎絵巻」も藤原信実の作品だと伝わっています。他にも国宝に指定されている作品としては、作者は別になりますが、「親鸞聖人像」や「花園天皇像」などがあります。

「軍記物」では、「琵琶法師」によって弾き語りで伝承された「平家物語」が有名です。無常観は「随筆」にも影響を与え、「鴨長明」が著した「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の冒頭で有名な「方丈記」も鎌倉文化を代表する作品です。随筆には、他にも人間批判や政治批判など毒舌さが面白い吉田兼好が著した「徒然草」があります。「史論書」としては天台宗の座主「慈円」の著した「愚管抄」から貴族社会を垣間見ることができます。

「歌集」では「後鳥羽上皇」の指示で「藤原定家」らが選定した2000首ほどを収めた「新古今和歌集」が最も有名であり、他に「小倉百人一首」や「西行」の1500首を収めた「山家集」などがあります。西行の作品は新古今和歌集にも多く採用されており、鎌倉文化を代表する歌人になります。

まとめ

鎌倉時代は末法の世の到来を多くの人が実感した転換期であり、その環境に適した新しい仏教が芽吹いた時代でもあります。戦乱や荒廃によって平家物語や方丈記に代表される無常観も注目を集めるようになり、日本人の新しい美的観として日本文化に定着していくことになります。

中央の文化が地方に広がっていくことで、武士の文化水準が高まっていったことも重要です。当時は文字を読めない武士が大半を占めていたといわれています。その後、室町文化(北山文化・東山文化)、安土桃山文化を通じて武家文化は公家文化に匹敵するものに発展していくことになるのです。

武士の気風が文化に反映されるきっかけになったのがこの鎌倉時代なのです。しかし、まだまだ文化の担い手としてのイニシアチブは公家にあったといえるでしょう。

著者・ろひもと理穂

本記事は、2017年10月28日時点調査または公開された情報です。
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この記事を書いた人

公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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