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江戸時代、寛政の改革と天保の改革の合間にあった化政文化の学問分野

江戸時代は大きく、「元禄文化」と「化政文化」に分けられます。今回は江戸時代後期、江戸の町人中心に発展した化政文化の「学問分野」についてお伝えしていきます。日本全体の教育熱が高まったている点も大きな特徴でしょう。

2018年01月23日更新

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目次
化政文化の学問分野の柱「朱子学」
日本のイデオロギーを大成した「国学」
実用的な学問だった「蘭学」
私塾・寺子屋
まとめ
江戸時代、寛政の改革と天保の改革の合間にあった化政文化の学問分野

化政文化の学問分野の柱「朱子学」

寛政の改革と朱子学

江戸時代を代表する学問といえば「儒学」になります。儒学とは中国の孔子の教えであり、6世紀に朝鮮半島を経て日本に伝来しました。江戸幕府はこの儒学を公認の学問に選んだのです。なぜ江戸幕府は儒学を重んじたのでしょうか。

理由は幕府支配による封権制度を強固にするためです。そのためには軍事力だけでなく、思想的な統制も必要だったのです。儒学の中でも特に「朱子学」は「上下秩序」を奨励していました。江戸幕府のニーズにピッタリだったといえます。

江戸幕府を創設する際に徳川家は、儒学家・藤原惺窩の勧めに従い、その弟子の林羅山を招きます。林羅山は朱子学で「先天的に存在する理」と共に、国を治める秩序維持のために「敬」と「礼」の重要性を説いています。そしてそこから派生する「身分秩序」を江戸幕府の政治の基礎理念としました。

しかし儒学には保守的な朱子学以外にも改新的な「陽明学」や朱子学に否定的な「古文辞学」などがあります。八代目将軍・徳川吉宗が理論的な朱子学を軽視したことや、他派の儒学が流行したことにより朱子学が衰退していきます。

1787年から老中首座として「寛政の改革」を開始した松平定信は、幕府の求心力を高めるべく、朱子学を再興させることを決断しました。林羅山の私邸を改築して孔子廟とした「湯島聖堂」から学問を切り離し、幕府直轄の「昌平坂学問所」を設立しました。

さらに松平定信は朱子学以外の儒学である陽明学や古文辞学、さらに国学などを昌平坂学問所で講義することを禁じました。幕府によるこの学問統制を「寛政異学の禁」と呼ばれています。

ちなみに時代に適応し、権威の従うのではなく自由精神を育む陽明学を学んだ幕末の有名人物には、吉田松陰、西郷隆盛、高杉晋作、佐久間象山などがいます。幕府に対して反乱を起こした大塩平八郎も陽明学を学んでいたそうです。

幕末の思想対立は、儒学の中でも「幕府が奨励する朱子学」VS「新時代の到来を予感している陽明学」という図式があったのです。ここにさらに国学と結びついた尊王攘夷が加わります。

寛政三博士

この時期に昌平坂学問所で教官を務めた「柴野栗山」「古賀精里」「尾藤二州」の三人を「寛政三博士」と呼びます。柴野栗山は寛政異学の禁を提案した人物で、昌平坂学問所の最高責任者を務めました。

佐賀藩出身の古賀精里も昌平坂学問所で朱子学を教えていますが、地元でも藩主の指示のもと「弘道館」を設立しています。弘道館で学んだ幕末の志士には、大隈重信や江藤新平、副島種臣などがおり、明治政府で活躍する人材を育成しています。

日本のイデオロギーを大成した「国学」

平田篤胤と尊王攘夷思想

国学者と有名な本居宣長の後継者が、「平田篤胤」です。古典を研究する「国学」は本居宣長によって体系化され、古代の日本人の精神を継承する「古道」として広まっていきました。平田篤胤は本居宣長の没後に入門しており、弟子入りしたのは夢の中であったと伝わっています。

平田篤胤は古道を学びつつ、さらに宗教色を強めた「復古神道」を大成し、日本人としてのイデオロギーと結びついて「尊王攘夷運動」の原動力となりました。復古神道は、明治維新後も大日本帝国を支える思想としての役割を担っています。

塙保己一の「群書類従」

国学の中でも宗教色が薄く、古書を収集し編纂する一派もありました。その代表が「塙保己一」です。塙保己一は農民の家に生まれ、幼い頃に両目を失明しましたが、聞いた話は一言一句間違えることなく反復できたといいます。ヘレンケラーは母親から塙保己一を手本にするよう指導を受けたそうです。

塙保己一は1779年から古書の一大編纂を始めました。40年間という期間を要し、666冊に渡るこれらの書物を「群書類従」と呼びます。塙保己一の没後も編纂は弟子に引き継がれ、「続群書類従」が完成したのは昭和の時代に入ってからのことです。

このように国学は、イデオロギーと結びつく古道と純粋に古典考証を行う二つに分かれていくことになるのです。

実用的な学問だった「蘭学」

シーボルトの「鳴滝塾」

ドイツ人の医師であり、植物学者でもあった「シーボルト」ですが、鎖国中の日本になぜ入国でき、留まることができたのでしょうか。それは、鎖国中でも欧州の中でオランダとだけ江戸幕府が貿易を続けてきていたからです。

もちろんオランダ人が自由に日本中を移動できるわけではありません。あくまでも長崎の「出島」内という制限がありました。シーボルトは自らをオランダ人と偽り、この長崎出島にあるオランダ商館の医者として日本に住み続けたわけです。

現代であっても一目でドイツ人とオランダ人を見分けることはできないでしょうし、片言でもオランダ語を話されたらオランダ人だと信じてしまいます。鎖国中の江戸時代であればなおさらのことです。

さらにシーボルトの医学の知識や技術は評判となり、出島の外に西洋の最新医学を学ぶことのできる私塾「鳴滝塾」を開設することを許されます。日本各地から志のある若者たちが集まってきました。その代表格が高野長英です。

シーボルトは1824年に鳴滝塾を開設しましたが、1828年には日本地図を国外に持ち出そうとして発覚し、国外退去を命じられています。これを「シーボルト事件」と呼びます。天文方であった高橋景保がシーボルトに、伊能忠敬が作成した大日本沿海輿地全図の縮図を渡していたのです。高橋景保は捕らえられ、そのまま牢屋で生涯を閉じました。

高野長英と渡辺崋山

シーボルトが開設した私塾・鳴滝塾で西洋医学を学んだ一人に「高野長英」がいます。生まれは陸奥国仙台藩ですから、長崎の出島とはずいぶんと離れています。周囲の反対を押し切って家を出て、鳴滝塾で医学や蘭学を勉強しました。

シーボルト事件後は豊後国に移り、儒学者・広瀬淡窓のもと私塾・咸宜園でも学んだといわれています。1830年以降は江戸に移り、蘭学者の第一人者として活躍します。しかし、1837年の異国船打払令やモリソン号事件などの幕府の対外政策を批判する「戊戌夢物語」を著し、1839年の「蛮社の獄」で捕らえられました。

高野長英が江戸に移り住んだときに知り合ったのが、三河国田原藩家老の「渡辺崋山」です。蘭学者だった渡辺崋山は、画家としても一流であり、肖像画である「鷹見泉石像」は国宝に指定され、東京国立博物館に展示されています。

渡辺崋山は蘭学者たちが集まる会(尚歯会、蛮社)で、高野長英と飢饉対策について話し合い、ジャガイモ(馬鈴薯)やソバなどを提案しています。また、高野長英同様に1838年に起きたモリソン号事件への幕府の対応を批判し、「慎機論」を執筆しましたが、発表するには至らず、蛮社の獄で家宅捜索の際に原稿を発見されて処罰され、切腹しています。

伊能忠敬と間宮林蔵

1800年から1816年にかけて日本各地を測量し、「大日本沿海輿地全図」を作成したのが「伊能忠敬」です。伊能忠敬は50歳を過ぎてから5年ほど暦法や天文学を学び、1800年に幕府の命を受けて蝦夷地の測量から開始しています。これはロシアの南下に備えて蝦夷地を詳しく調査しておく必要があったからです。

蝦夷地の地図が完成すると伊能忠敬は幕府から信頼されるようになります。そして東日本、西日本と測量を命じられていくのです。伊能忠敬が歩測した距離は35,000km以上といわれています。

大日本沿海輿地全図は緯度に関しては現在の地図と比べてもほぼ誤差がないほどに正確なものでした。ただし、経度に関しては誤差が大きかったようです。測量に使用された器具は国宝として保管されています。

大日本沿海輿地全図が完成したのは、伊能忠敬の没後であり、最終的には伊能忠敬の師の子である天文方の高橋景保が1821年に仕上げています。伊能忠敬が測量しきれなかった蝦夷地の北部に関しては弟子の「間宮林蔵」が測量しています。

間宮林蔵は北海道よりさらに北に位置する「樺太」(サハリン)を調査したことで有名です。当時は樺太が半島なのか島なのかがはっきりしていなかったようです。間宮林蔵の調査により島であることが判明し、樺太とユーラシア大陸の間にある海峡を間宮海峡と呼ぶようになりました。

ちなみにシーボルト事件は、シーボルトが間宮林蔵に手紙を出したところから発覚しています。間宮林蔵はシーボルトとの私的な交流は違法であると考え、手紙を開封せずに幕府に報告したといわれています。

その他の蘭学者

化政文化時期の蘭学者として他には、杉田玄白から医学を学び、前野良沢からオランダ語を学んだ「大槻玄沢」がいます。大槻玄沢は蘭学の入門書である「蘭学階梯」を著し、さらに江戸に私塾「芝蘭堂」を開設しました。

私塾・芝蘭堂で蘭学を学んだ一人に「稲村三伯」がいます。稲村三伯は同門の宇田川玄真の協力を得て蘭和辞典「ハルマ和解」を完成させました。フランス人ハルマが編纂した蘭仏辞典を参考にしています。

私塾・寺子屋

私塾「咸宜園」

1805年、豊後国白田郡に設立された私塾が「咸宜園」です。設立したのは儒学者「広瀬淡窓」で、その後の80年間でのべ4,800人が咸宜園で学んでいます。塾生には蘭学者として名をはせた高野長英や、長州藩士で日本陸軍の基礎を築いた大村益次郎などがいました。

咸宜園では、江戸時代の封権制度にとらわれることなく、身分に関係なく平等に扱われ、四書五経の他、医学や天文学などを学ぶことができ、毎月の試験によって成績が評価されています。個性を重視する教育スタイルは現代にも通じるのではないでしょうか。

寺子屋による民間教育

当時の日本は諸外国と比べても識字率が最高水準であったといわれています。庶民の教育に大きな影響を与えたのが「寺子屋」の存在です。江戸時代末期には、15,000を超える数の寺子屋が日本の各地にありました。

寺子屋では「読み・書き・算盤」を学ぶことができ、国学の基礎的な内容である古典を教えていたところもあったようです。一般常識を勉強するための教科書には手紙形式である「庭訓往来」が使用されました。漢字の学習には「千字文」が教材として扱われています。

戦乱のなかった平穏な江戸時代には、寺子屋や私塾、藩校といった様々な教育機関を通じて、日本全体に教育が浸透していきました。

まとめ

反体制の思想が目立ち始めたのが、「化政文化」の学問分野の特徴ではないでしょうか。それはただ単に西洋文化・蘭学が広まっていったということだけでなく、幕府主導の政治に異を唱える国学、新しく台頭し始めた儒学の陽明学の影響が大きな要因だと思われます。

こうして旧来の幕府を頂点にした身分制度は衰退していき、「尊王攘夷」を掲げる大きな流れが時代を飲み込んでいきます。そして新しい政治の形、「明治政府」が誕生するのです。

化政文化の芸能分野でも「皮肉」や「風刺」などが盛んでしたが、学問分野もまた新しい価値観を創造すべく、既存の権力や制度に批判的だったといえるでしょう。江戸幕府が滅ぶのはまさに時間の問題だったのかもしれません。

こうして日本は列強諸国に対抗できる国力をつけるべく「明治維新」を迎えることになります。

著者・ろひもと理穂

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