陸上自衛隊のノウハウ
陸上自衛隊には、創隊してから今日に至るまで、連綿と練り上げてきた優れたノウハウが幾つもあります。
ただし、自衛隊の仕事の中で培われたノウハウは最終的には戦いに勝つ為に必要な知識・技術・手法が根源にあります。したがって人類の歴史の中で練り上げられて来た人として行動する基本的なノウハウも多く、その為、日常生活や仕事に応用できる物が沢山あります。
ただし戦術的なノウハウは情報保全という観点から明らかにできない部分もありますので、今回は陸上自衛隊の『日常の訓練』や『営内服務』で広く活用されているちょっとしたノウハウをご紹介しましょう。
※「営内服務(えいないふくむ)」とは、陸上自衛隊の駐屯地内における自衛官の勤務及び、居住に関する服務の事です。
短い会話で意志を伝える!
軍隊用語、すなわち自衛隊で常用される自衛隊用語は、通常の会話より短く歯切れのいい言葉が多いです。いざと言う時の作戦行動は1分1秒を争うものです。その為、指揮官は、短時間のうちに多くの隊員に意図を伝えなければ行けません。
また部下が上官に報告する場合も、だらだらと長い報告でいたずらに時間を費やすと勝機を逸してしまいます。その為、短い会話で隊員相互に意志をできるよう自衛隊用語は短い言葉が多いです。
また、自衛官は一般的に大きな声で話すのが特徴です。『大きな声』『明瞭な言葉づかい』は、特に部隊を指揮する場合には絶対的に必要な要素です。小さい声では、広々とした野外や砲弾の飛び交う戦場で指揮官の命令が部下に伝わりません。
その為、大きな声ではっきり意志を伝えるのは必須事項なのです。その時の注意事項として大きな声をあげればそれでいいように勘違いしますが、『明瞭』で無ければ意味がありません。つまり『ハッキリとしゃべる』と言う方が声の大きさよりも重要なのです。
戦場では通常会話では聞こえない
自衛官が入隊して、数年間勤務し、職業軍人と言うべき陸曹になる為には、まず選抜試験に合格しなければ行けません。そして選抜試験に合格すると陸曹教育隊で6か月間の陸曹課程を履修します。
その教育期間中に『潜入体験』という大事な課目があります。これは戦場の状況をリアルに体験させる為に通常訓練では使用しない実弾を使用する珍しい訓練です。1個分隊の編成で数百メートルの距離の戦闘訓練を行いまが頭上を機関銃で射撃されます。
攻撃前進している分隊の隊員に実弾が当たる事はありませんが頭上数メートルの距離を実弾が飛び、戦場に近い状況を体感しながら戦闘訓練を行うのです。その戦闘訓練の途中で、敵の砲弾が着弾した戦況現示として爆破訓練も並行的に行われます。
この潜入体験では1個分隊が横一列になって攻撃します。攻撃する分隊の分隊長は通常、分隊の中央に位置しますが、最右翼あるいは最左翼の隊員まで約10メートル程度しか離れていません。
それでも、実弾の破裂音や、疑似砲弾の爆破音で分隊長の声は、ほとんど聞こえません。その為、分隊長の近くの隊員が逓伝(ていでん)と言う方法で命令を中継しないと命令が全員に伝わりません。
つまり自衛官が声が大きいのは、戦場で指揮をする為に必要であり単に威勢を張っているだけでは無いのです。
明瞭に長く発音すると遠くまで聞こえる
では、とにかく大きな声で叫べばいいのかと言うとそうではありません。実は大きく聞こえるようにする為の『ちょっとしたコツ』があります。それは『大きく明瞭に声を伸ばす』事です。
そうする事によって、遠くまで声が通り、結果的に相手に聞こえやすくなるのです。例えば、大声で『おい!』と怒鳴るよりは『おお~お~おお~お~』と長く発声した方が遠くにまで声は聞こえます。
これは隊員の基本的な動作を習得する『基本教練』という課目で定められた号令の出し方に、正しい号令の掛け方が明記されています。号令には予令と動令があります。例えば『右向け右』と言う号令は『右向け』が予令で『右』が動令です。
最初の予令で、どういう動作をするべきかを隊員は理解します。その為に予令は『明瞭に長く』発音しなければ行けません。そして、動令は実際に行動を起こすので『端切に強く』発音します。したがって『右向け~』という号令はハッキリと聞こえなければ隊員は間違った動きをしてしまいます。
逆に言えば『右向け』という予令が伝われば、動令である『右』は、正確に聞き取れなくても動作は間違いません。極端に言えば「あっ」と言っても『ぎゃあ』と言っても隊員は右向け右の動作をします。
大きく声を出そうとするあまり慌てて最初の予令を『右向け!』を強く発音すると聞き取りにくい場合があるのです。部隊の隊員の数が多い場合は、特に予令と動令の違いがハッキリと解っていないと、解りにくい号令を発して部隊を混乱させてしまいます。
これは自衛隊の部隊を動かす場合の鉄則ですが、号令を掛けるのが下手な指揮官は、予令と動令の意味を正しく理解できていません。正しい号令を掛けるコツは簡単です。予令を大きく長めにはっきりと発生します。
予令がとても大事という訳です。動令は、ピストルの音のようなもので合図でしかありません。動令の意味が伝わる必要はありません。動令は行動を起こすスタートの合図なので鋭く発音すると部隊が行動しやすいのです。
大量伝達を可能にする『復唱』
復唱も陸上自衛隊で多用されているノウハウです。ただし、復唱は一般の社会でも営業で良く使われていますが正しく理解してが使った方が有効に活用できます。
復唱とは相手が言った言葉を再度繰り返して、情報が間違いかどうか相互にチェックする方法です。例えば電話番号をやり取りする時など相手から聞いた番号を復唱して電話番号が間違っていないかどうかを相互に確認します。
でも復唱には、もっと有効な利用方法があります。それは、『同時放送機能』です。速やかに全員に徹底する必要があるような事は電話が掛かってきた相手に対して行うよりも電話の周囲にいる他の隊員に聞かせる為に行う場合があります。
この場合の復唱は、急いでいる時に大変便利です。例えば本部勤務をしている自衛官に電話が掛かって来ます。その場合、掛かって来た電話を全て復唱して同じ部屋の自衛官全員に自分も聞きながら放送形式で会話の中身を同時に他の隊員に伝えるのです。
緊急を要する場合の方がもっと解りやすいです。例えば、戦闘行動中に、中隊本部に電話が掛かって来たとします。
「連隊本部ですか。こちら第1中隊本部です。中隊防御陣地正面に、歩兵を伴わない戦車3両出現!了解しました。中隊は直ちに迎撃態勢をとれ!了解しました。」
一度、電話を切って、中隊長に同じ事を報告する必要はありません。電話を受けながら、報告するべき項目を大声で復唱すればいいのです。電話をしてきた相手も復唱の意味は解っているので変な会話にはなりません。そうすれば、電話を切った時点で全員が次の行動に移れるのです。
総員が直ぐに解る『番号』
戦争映画で良く見かける『番号、はじめ!』という号令があります。この号令で先頭から1、2、3と、順次番号を呼称していきます。では、この番号は一体何の為に掛けるのでしょうか?
この目的は大きくは2つあります。一つは指揮官が自分の指揮下にある部隊の『現在員』を把握する為に行います。現在員という言い方は、自衛隊独自の言い方で、現在この場に集合している隊員という意味になります。
これに比べて所属人員の事を点呼の時は『総員』と言います。普通の指揮官は自分の部隊の所属人員は解っています。解らないのは欠員がいるかどうかです。その為に番号を掛けて現在員を確認するのです。
部隊の整列には、横隊の場合と縦隊があります。横隊の時でも縦隊の時でも一列だけなら最後の隊員が番号を発声した時点で現在員が解ります。ところが、複数列の隊員がいる場合は、番号の呼称だけでは現在員が解りません。
特に列が長くて大人数の場合は、部隊の先頭でいる指揮官には後ろの隊員が見えないのでなおさら解りません。この場合の手順は決まっています。
端数を数えるのは『最後尾』の隊員です。例えば4列縦隊で整列している場合、右列の隊員だけが番号を数えるので最後の隊員が発声した番号×4列が現在員になります。
ところが、ピッタリ4列縦隊で並んでいる場合は番号×4でいいのですが、そうとは限りません。
仮に最後の列だけ3人の場合があります。そういう場合、後ろから『部隊全体を見渡せる位置にある最後列の隊員』が、欠員がいるかどうかを指揮官に聞こえるように発唱することになっています。
ピッタリなら『満(まん)』と呼称し、一人足りなければ『1欠(いちけつ)』二人足らなければ『二欠(にけつ)』以下同様に列に対して欠けている欠員を報告します。これを大声で呼称すれば、先頭の指揮官は番号が10で終わって『まん』と聞こえれば40名集合していると解ります。一欠という声が聞こえたら、番号×列数―1が現在員です。
点呼報告もルールがある
現在員を報告する場合は、『総員』『事故』『現在員』『事故の内訳』の4つの項目を報告します。所属人員であるのに集合していない場合は、理由の如何に関わらず点呼報告では『事故』と言う扱いになります。
例えば小隊長が、中隊長に報告する場合の例は、以下の通りです。
『第2小隊、総員40名、事故5名、現在員35名』『事故の内訳、休暇2、入院2、集合終わり』という風に報告します。
番号を付与する2つ目の理由は『固有番号を指定する』為に使います。固有番号を付与する場合は複数の列の隊員が整列している場合は固有番号を付与できないので行いません。
固有番号の付与は一列横隊で行うのが普通です。まず番号を呼称させ、指揮官が『ただ今の番号が各人の固有番号』と指示をすると任務が解除されるまで番号と個人名は同じ事になります。
これは基本教練や戦闘訓練で用います。名前を呼ぶよりは「1番」「3番」と言った方が、指示も早くできるし効率よく訓練を行う事が出来ます。特に戦闘訓練の場合、氏階級を呼ぶよりも番号で呼んだ方が早いので訓練時は番号、あるいは職名で呼ぶ事もあります。
ただし、氏階級で呼ぶか番号で呼ぶかは訓練の状況により指揮官が判断します。
陸上自衛隊の手信号は解りやすい
陸上自衛隊で使用している手信号は、全国的に統一された基準はありません。統一した基準にすると、逆に相手(敵)に悪用されるというデメリットがあるからです。
ただし経緯に野外で隊員相互に使う手信号は、陸上自衛隊のどこの部隊でも、ほぼ共通しています。例えば相手の動きを止める場合や車両を停止させる場合は、両手を前方に伸ばして、両方の手のひらを相手に向けて手を静止します。
これは『とまれ』と言う意味になります。また、人や車両を前進させる場合、手のひらを自分の方に向けて両手を自分の顔に近づけたり離したりして、こちらに向かってくるように手を数回動かします。
ちなみに交差点で交通整理をしている警察官の体や手の動きと自衛官の手信号はほとんど同じです。ところが道路工事をしている作業員の旗の動きは、必ずしもそうではありません。
道路工事の誘導では白旗を振ったり赤旗を振ったりするので、自衛隊の手信号の意味とは少し違います。工事現場で交通統制をする場合の赤旗は『とまれ』『来るな』と言う意味になります。
それなのに交通統制では、赤旗を振りながら『来るな』と言う合図をしている場合があるので勘違いしやすいのです。
自衛隊の場合は、野外で実員指揮の長年の経験から人間の心理を考察した手信号になっているので洗練されています。例えば人及び車両を停止させる場合は、陸上自衛隊では旗を動かしません。なぜなら『とまれ』をいう意思を伝えるのですから、旗も止めた方がいいからです。
警察官も同じ行動をします。警棒を真横にして静止して「とまれ」です。相手を動かず場合は自分も腕を動かします。つまり自衛隊と警察の手信号は実践的なノウハウに裏付けされた手信号なので人間の心理にマッチしているのです。
ちなみに意味が解らないという手信号は、耳に手を当てて聞こえない!と言う動作をするか体の全面で横向きに8の字を描くと『不明』『解らない』と言う意味になる部隊が多いようです。
これらの細かいノウハウは他にもたくさんあります。部隊勤務ではこの隊員相互のノウハウを早期に把握すると自衛隊の教育訓練がよりスムーズに行えるようになります。
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