はじめに
1993年から2001年まで2期8年間にわたってアメリカ第42代大統領を務めたのがビル・クリントンです。妻であるヒラリー・クリントンは2016年の大統領選でトランプ候補と最後まで争った人物で、実現すればアメリカ史上初となる女性および夫婦による大統領が誕生するところでした。この敗戦の原因となったのがビル・クリントン張本人とも言われており、大統領時代からスキャンダルにまみれた人物として有名でした。今回はビル・クリントンについて生い立ちから大統領としての活躍を深く掘り下げてみたいと思います。
「ビル・クリントン」のプロフィール
ビル・クリントンは第二次世界大戦後の1946年8月19日にアーカンソー州で生まれました。父親はビル・クリントンが出生する3ヶ月前に交通事故で亡くなり、母親が再婚するまで祖父母の元で母親と別れて生活していました。母親の再婚を機に家族3人で生活を始めますが、アルコール中毒者だった継父による家庭内暴力に遭うなど厳しい環境下で育ちます。
ワシントンD.C.の名門ジョージタウン大学に進学してからは外交学や法務を専攻し、イギリスのオックスフォード大学へ2年間の留学を経験しています。この留学を理由に徴兵から免れており、後に軍人としての経験がない大統領になるのでした。また、留学中に大麻を吸引したことが明るみになり、大統領選の際に弁明する事態になりました。
イギリスから帰国してからはイェール大学のロースクールに進み、法務博士号を取得。その後は地元のアーカンソー大学のロースクールで教鞭を取りました。この頃に後の妻となるヒラリーと出会っています。
1974年、政治家としての活動を本格的に始めます。同年、アーカンソー州の連邦下院議員選挙で勝利、1977年にはアーカンソー州司法長官選挙で勝利、そしてジミー・カーター大統領の選挙活動を献身的に支え、ホワイトハウスとの繋がりを築きました。1975年にヒラリーと結婚して、1980年に長女を授かっています。
1978年には32歳という若さでアーカンソー州知事選挙で勝利し、アメリカ全土で話題になります。しかし、ジミー・カーター大統領からキューバ人難民の受け入れを頼まれ承諾した結果、難民が暴動を起こしたため知事選で再選できず失職してしまいました。ほとぼりが冷めた1982年に再選して以降は、1990年まで連続4回の当選を果たしています。
1992年の大統領選ではアル・ゴア副大統領候補とタッグを組んで、46歳という若さで大統領に選出されました。大統領選時から一貫して経済最優先の政策を主張しましたが、外交問題では不安視されていたため厳しい目を向けられるなか大統領1年目を迎えることになるのでした。
「ビル・クリントン」の経歴
大統領就任まで
ビル・クリントンは1946年にアーカンソー州で生まれ、大学進学まで同州のホープという街で暮らしました。決して恵まれた家庭環境だったとは言えず、ある日酒に酔った父親が発砲した銃弾が耳のすぐ横を通ったというほど荒れた環境だったとされています。
1964年、成績優秀だったことから名門ジョージタウン大学に進学し、奨学生としてイギリス留学も経験したほどでした。とくに法務や法律を学び、後に弁護士を目指すことになります。この頃ホワイトハウスに招待され、その時の大統領だったジョン・F・ケネディと握手する映像が残されています。(この映像は1992年の大統領選の際に度々使用されることになる)
1968年、大学を卒業してからはホワイトハウス実習生として、フルブライト上院議員のもとで働くようになります。22歳でアメリカ政府の中枢で働き始めたことがビル・クリントンの「若い政治家」として活躍するベースになったことは違いありません。
1973年、法務博士号を取得してからは地元のアーカンソー大学ロースクールで教師として活躍し、アーカンソー州の政治に関わるようになります。1974年には同州の下院議員選で当選し、1978年には州知事に就任しています。ビル・クリントンは同州知事を合計で5期も務めました。また、全米知事協会会長や全州教育委員会委員長なども歴任したことから中央政治とも強い繋がりを保持していました。
そして迎えた1992年の大統領選では、経済政策で思うような成果を挙げられなかったジョージ・H・W・ブッシュに対抗し、経済最優先の政策を掲げて勝利します。46歳での大統領就任はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディに次ぐ若さでした。
大統領就任後
ビル・クリントンは先代の大統領だったジョージ・H・W・ブッシュとは対照的に外交や安全保障よりも国内経済の立て直しに取りかかりました。とくにITやハイテク産業の発展に力を入れて、後に「ITバブル」と呼ばれる時代を作りました。これまでのアメリカ経済の中心だった重化学工業からインターネット市場へシフトしたことはビル・クリントンの大きな功績とされています。事実、この頃のアメリカは1991年3月から2001年3月まで120ヶ月続いた史上最長の好景気を迎えていました。
さらにロナルド・レーガン政権がもたらした「双子の赤字(貿易赤字と財政赤字の並存)」を解消するべく均衡財政に取り組み、2期目の2000年には2,300億ドルの財政黒字を達成しています。クリントン政権時代の好景気は「クリントノミクス」と呼ばれ、ビル・クリントン大統領の功績として広く知られています。
一方で、ビル・クリントンは外交を不得意としていました。これまでの政治活動は地元のアーカンソー州知事のみだったことから、任期中はとくに外交に苦労し続けることになります。なかでも、日本との関係よりも中国を優先する対応が多くみられたため任期後半では日本との関係改善(日米の安全保障問題)に翻弄する姿もありました。
1998年にはジョージ・H・W・ブッシュ政権から続いていた中東問題にも手を焼き、イラクのサダム・フセイン政権掃討のため国連安保理の承認なく空爆を仕掛けるなどしています。また、同年にケニアとタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件の報復としてアフガニスタンとスーダンをミサイル攻撃し、事件に関与したとされるアルカイダやタリバンと敵対することになりました。このことが2001年の同時多発テロを誘発したと見る声もあります。
ビル・クリントンが大統領を務めた2期8年はアメリカ経済の回復という明るい兆候があった反面で、多くの外交問題が発生したことは事実です。とくに中東問題の泥沼化が一層ひどくなったことはアメリカにとって「テロへの脅威」を招くことになりました。
任期一杯まで大統領を務めたビル・クリントンは2001年に大統領職から退きますが、引退後も自身と妻のヒラリーによるスキャンダル対応に追われ続けます。一方で、アメリカ国民の半数以上はビル・クリントンに対して好意的な印象を持っているとされており、経済政策で成功したことが高評価に繋がっています。
ポイント1:モニカ・ルインスキー事件
ビル・クリントンを語るうえで最も有名なスキャンダルがホワイトハウス内でスタッフと不倫関係になったことが明らかになった「モニカ・ルインスキー事件」です。当初は不倫関係を否定していたにも関わらず、調査が進むにつれて自ら不倫関係を認めたことは「大統領にあるまじき不適切な行為」として厳しい批判にあいました。
アメリカ大統領として品格を欠いた一連の事件は弾劾裁判にまで発展し、大統領罷免こそ免れたものの、アメリカ史上2人目の弾劾裁判を経験した大統領という不名誉な記録が残りました。信頼が失墜したビル・クリントンでしたが、妻のヒラリーと民主党からの援護によって乗り切ることに成功しました。
ポイント2:数々のスキャンダル
ビル・クリントンは不倫以外にも数多くのスキャンダルに関与していました。なかでも知られているものが「トラベルゲート」や「ファイルゲート」です。トラベルゲート事件はヒラリー夫人が知人をホワイトハウスの旅行事務所の責任者にするために、不正経理をでっちあげて当時の旅行事務所スタッフを全員解雇した事件です。ファイルゲート事件は、FBIにある共和党要人たちの個人情報を不正に手に入れて政治的な攻撃に利用したとされるものです。
実はこれらのスキャンダルの首謀者はいずれもヒラリー夫人であり、ビル・クリントンは妻がとった行動によって対応に追われてしまいました。2016年の大統領選でヒラリー夫人は最終候補まで残りましたが、これらのスキャンダルによる悪い印象は拭えず、トランプ候補に敗北しています。同時にビル・クリントン自身も印象を悪くする結果になりました。
ポイント3:医療保険制度改革
結果的に実現しなかったもののビル・クリントンは医療保険制度改革に取り組みました。1993年9月に発表されたこの法案は、ヒラリー夫人が中心になって国民皆保険制度を実現しようとしたものです。しかし、民間保険会社や負担を被ることになる中小企業からの反対を受けて翌年には頓挫してしまいます。
実現すれば1935年にフランクリン・ルーズベルト政権で成立した社会保障法(失業保険・退職金制度・年金制度などの法制化)以来、最も重要な福祉政策になるはずでした。法制化を期待したリベラル派はビル・クリントンに落胆し、アメリカの社会保証制度の欠陥として今日まで続くことになるのでした。
まとめ
アメリカ第42代大統領を務めたビル・クリントンは経済政策で成功しました。対照的に、外交では目立った功績を挙げることなく中東諸国との敵対関係を深めてしまいます。ビル・クリントン政権で明確になった中東問題は次のジョージ・W・ブッシュ政権で爆発することになるのでした。また、自身よりも夫人であるヒラリーの方が注目されることが多かったこともビル・クリントンの特徴と言えるかもしれません。
ビル・クリントンに関する豆知識
・大統領退任後の2009年に北朝鮮を訪れて、当時拘束されていたアメリカ人女性2名の解放に成功しています。
・モニカ・ルインスキー事件の際に発言した「不適切な関係」は流行語になっています。
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