元禄文化の背景
元禄文化の時期の将軍は誰なのか
「江戸時代」とは徳川家を将軍として265年間もの長きに渡り続いた最後の武家政権です。戦国時代は終焉し、戦乱による被害は大きく減ったものの、災害や飢饉などによって庶民の苦しみは継続していました。
「江戸幕府」はこの265年間の中で大きな改革を何度も試みています。原因は財政の立て直しのためです。そのため「質素倹約」という言葉が幾度となく登場し、様々な場面で贅沢を排除しようという動きが見られるようになります。
いうなれば華やかな貴族文化とは対称的な時代です。ですから、以前に栄えたような「天平文化」「国風文化」と比べるとやや暗いイメージがあるのが江戸時代の文化になります。そんな中で、暮らしにも余裕のあった江戸時代の前半期が「元禄文化」としてピックアップされることになるのです。
5代将軍徳川綱吉が将軍に就任した頃からのおよそ20年間が元禄文化とされます。とても短期間です。1685年以降に徳川綱吉が何度も「生類憐みの令」を改正して発令していったことは以前にお伝えしていますが、ちょうどその時期が元禄文化ということになります。
この時期には農村での生産性も向上し、これを扱う町人が活性化しています。経済の中心にあたる「天下の台所」と呼ばれる大阪などの「上方」が活気づいた時期でもあるわけです。つまり大阪・京都などの上方の町人に遊興娯楽の余裕ができてきたことになります。
江戸時代といえば元禄文化の後に「化政文化」も登場することになりますが、大きく異なる点は、元禄文化の主役が「上方の町人」だということでしょう。対して化政文化の主役は「江戸の庶民」ということになります。
元禄文化が終了する際の将軍は誰なのか
なぜ元禄文化がおよそ20年間で終止符を打たれることになるのかというと、財政改革が始まったからという理由が一つに挙げられます。1716年には8代目徳川吉宗が将軍となり、有名な「享保の改革」を推し進めいくことになります。もちろん町人をはじめとした庶民にも質素倹約が強制されることになるのです。
この時期にはかなり厳しい増税も行われおり、庶民に遊興娯楽に興じる余裕がなくなったわけですが、実際には元禄文化は1707年には終焉を迎えていたという説もあります。つまり徳川吉宗の将軍就任以前であり、徳川綱吉が亡くなる前になります。
この時期に何があったのでしょうか。それは大地震です。1703年には関東で元禄地震がありおよそ20万人が亡くなりました。1707年には東海地方中心に宝永地震があり2万人以上が亡くなっています。さらに宝永の大噴火があり、被災地は大きな被害を受け、農作物にも影響が及び、飢饉が起こります。幕政が傾く原因の一つでもあり、元禄文化の終焉のきっかけにもなったわけです。
1707年を元禄文化が終焉を迎えたということになると、まさに元禄文化は徳川綱吉の将軍在位時期のみということになります。仮に徳川吉宗の将軍就任までとすると、元禄文化の時期の将軍は5代目の徳川綱吉、6代目の徳川家宣、7代目の徳川家継の三人ということになりますね。
元禄文化を代表する文学的作品
浮世草子の井原西鶴
元禄文化の代表格といえばやはり「浮世草子」を誕生させた「井原西鶴」でしょう。江戸時代には様々な物語の仮名草子が書かれてきましたが、井原西鶴の登場によって大きく変化します。
浮世草子というのは大まかに説明すると「色事」です。官能文学作品ともいえるでしょう。甘酸っぱい恋愛の心情ではなく、より肉体的でアダルトな内容です。井原西鶴は40歳を過ぎたタイミングで処女作となる「好色一代男」を発表します。後に江戸で出版される際には挿絵を菱川師宣が担当しています。
庶民の姿や生活を、色事を通じてざっくばらんに描いたこの作品は大流行することになります。色事を含む物語はこのときから仮名草子ではなく、浮世草子と呼ぶことになるのです。4年後には「好色五人女」という作品も出版しますが、こちらは一途な女性の恋の行方の物語になっています。
好色系の作品は内容がなかなか過激なために、井原西鶴の作品として試験などに出題される傾向が強いのは「日本永代蔵」や「世間胸算用」といった町人の生活を描いた作品でしょう。
これまでの日本の文化では、皇族・貴族・武士らが中心でしたが、ついに「庶民が主役」となる文化が訪れたのです。さらに井原西鶴の作品は後世の作家、太宰治などに絶大な影響を与えることになります。
俳諧の松尾芭蕉
井原西鶴と並ぶ元禄文化の顔といったら、俳諧師の「松尾芭蕉」でしょう。日本史上最高の俳諧師とされ、「俳聖」と呼ばれています。盛唐の頃の漢詩で有名な李白や杜甫のようですね。李白は「詩仙」と呼ばれ、杜甫は「詩聖」と呼ばれていました。
ちなみに井原西鶴も俳諧師としての一面がありました。松尾芭蕉と井原西鶴は没年がほぼ同じですが、生まれは松尾芭蕉の方が20年ほど後になります。井原西鶴は大阪、松尾芭蕉は三重の出身です。まさに上方文化の代表です。
松尾芭蕉は江戸に下り生活していましたが、1689年に江戸を立ち、東北・北陸各地を旅して「おくのほそ道」という紀行文を完成させています。
おくのほそ道で紹介されている代表的な俳諧として、岩手県の平泉で詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」、山形県では「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」や「五月雨をあつめて早し最上川」などが有名です。
元禄文化を代表する絵画作品
大和絵の尾形光琳
フェノロサから高い評価を受けたことでも知られる画家の「尾形光琳」は、多くの優れた作品を残しています。大和絵が主体で、江戸に生まれながら、上方の裕福な町人をスポンサーにつけて活躍しました。しかし尾形光琳自身はかなりの浪費家だったようで、経済状況はひっ迫していたと伝わっています。
作品は海外にも流出しており、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館には「八橋図」、ボストン美術館には明治時代に輸出された「松島図屏風」があります。日本にあれば国宝に指定されていたかもしれません。
国内に残っている有名な作品としては、双屏風の国宝「燕子花図」があります。他にもMOA美術館には国宝「紅白梅図」が展示されています。尾形光琳は他にも工芸品を残しており、東京国立博物館には国宝の「八橋蒔絵螺鈿硯箱」が有名です。
大和絵の俵屋宗達
尾形光琳と共に評価が高い画家が「俵屋宗達」です。尾形光琳に比べると不明な点が多く、近年になるまで尾形光琳よりも格下と考えられてきました。そのために簡単に海外に流出してしまった作品もあります。
尾形光琳の松島図屏風は、俵屋宗達の作品を模したものだとされています。俵屋宗達の「松島図屏風」は、アメリカ・ワシントンD.C.のフリーア美術館に展示されています。
国内には京都国立博物館に国宝の「風神雷神図」が展示されています。こちらも尾形光琳が模した作品が東京国立博物館にあります。他にも水墨画の国宝「蓮池水禽図」が京都国立博物館に展示されています。
尾形光琳と俵屋宗達の二人が「琳派」の祖とされており、横山大観やオーストリアのクリムトら後世の画家たちに大きな影響を与えていくことになります。
浮世絵の菱川師宣
「浮世絵」で有名なのが「菱川師宣」です。浮世絵とは大和絵によって描かれた風俗画になります。そのため対象が歌舞伎や遊女であることが多いのです。話で当時の風俗を伝えるのが「浮世草子」であり、絵で表現したものが「浮世絵」になります。
実際に菱川師宣は浮世草子の挿絵を何度も手掛けています。井原西鶴の好色一代男の挿絵も担当しています。かなり濃厚な官能的作品でしたが、当時は大流行したようです。
そんな中でも比較的おとなしめの作品である「見返り美人図」が最も有名な作品となっています。また「歌舞伎図屏風」は重要文化財に指定されています。どちらの作品も東京国立博物館に展示されています。
浮世絵や浮世草子に代表されるように、元禄文化はやや開放的な雰囲気があった時代でもありました。そう考えると現代に近いのかもしれませんね。
元禄文化を代表する芸能・建築・教育
人形浄瑠璃の近松門左衛門
当時の町人の様子や心情を表現したのは浮世草子や浮世絵だけではありません。人形を使い、ミュージカル仕立てで公演した「人形浄瑠璃」も大ブームになっています。音を奏でるのには「三味線」が使われています。
人形浄瑠璃といえばやはり「近松門左衛門」でしょう。福井県の出身の武士階級でしたが、父親が脱藩したし、京都に移り住んだといわれています。浄瑠璃では「時代物」と呼ばれる時代劇が好まれており、近松門左衛門は1685年に「出世景清」という時代物の作品を発表しています。平家滅亡後の物語です。
そして1703年に有名な「曽根崎心中」を発表しました。こちらは時代物ではなく、当時の町人の物語になっています。時代物に対して「世話物」と呼ばれることになります。近松門左衛門の所属する大阪の竹本座は大いに賑わい、人形浄瑠璃が歌舞伎をしのぐ人気を誇ったこともあったようです。
歌舞伎、狂言、能
元禄文化時期の将軍・徳川綱吉は、論語とともに、猿楽から発展した「能」「狂言」をこよなく愛したといわれています。江戸城では能楽を催し、自分自身が舞うこともあったそうです。
能や狂言の要素も吸収しつつ発展していったのが「歌舞伎」になります。歌や舞いだけでなく、演劇としてストーリー仕立てにしたことも庶民に受け入れられた要因でした。庶民の絶大な支持のもと、上方だけでなく江戸でも歌舞伎は大流行していきます。
その他の建築や教育について
当時の高級住宅は、書院造と茶室が混じりあった「数寄屋造」の屋敷になります。有名なところでは皇室所有財産である京都の「桂離宮」があります。他にも京都の「修学院離宮」が有名です。こちらも皇室の所有財産です。
教育の世界では数学が進歩しています。算聖と呼ばれる「関孝和」の登場です。関孝和は円周率を求めたり、微分法や積分法なども自ら編み出しました。世界的に見ても関孝和の数学は最先端であったと考えられています。
町人の教育水準も上がっていったのがこの時代からになります。農村地域においても「寺子屋」が設置され、庶民に詩や書、算盤などを教えています。日本全体に教育が浸透していきました。
まとめ
このようにこれまでの文化と大きく異なるところは、「元禄文化」が「町人」を中心にして活性化し、発展していったということです。皇族でも貴族でも武士でもなく、庶民が文化の中心にいたことは日本の歴史上では初めてのことでした。
江戸時代の中では華やかな時期として注目される元禄文化は、飢饉や災害などの影響で衰退していくことになります。そして「上方」中心の元禄文化から、「江戸」中心の化政文化に移行していくことになるのです。
町人主役の文化が芽生えた背景には、戦国乱世の終焉があります。そのことで平和で落ち着いた生活を庶民が過ごせるようになったのです。江戸幕府の誕生と、その安定した統治があったからこそ成り立った文化でもあったのかもしれませんね。
著者・ろひもと理穂
コメント