はじめに
1929年から1933年までアメリカ第31代大統領を務めた人物がハーバート・フーヴァーです。元鉱山技術者という異色の経歴を持ったハーバート・フーヴァーは1928年の大統領選で圧勝し大統領に就任しますが、1932年の大統領選では歴史的な大敗を喫することになります。
わずか4年の間にアメリカで何が起きて、ハーバート・フーヴァーが何をしたのか。今回はアメリカ経済が大きく揺らいだ1920年代後半に大統領を務めたハーバート・フーヴァーについて解説します。
「ハーバート・フーヴァー」のプロフィール
ハーバート・フーヴァーはアイオワ州で3人兄弟の2番目として生まれましたが、6歳の時に父親を亡くし、2年後には母親も亡くしてしまいます。わずか8歳で両親を亡くしたハーバート・フーヴァーは、しばらくの間は同州でおばに育てられますが、11歳のときにオレゴン州で医師をしていたおじの家に単身で引き取られました。
突然、見知らぬ土地にやってきた11歳のハーバート・フーヴァーは、オレゴン州のおじの家では自分のことは全て自分でするという徹底した教育を受けることになります。後に幼少期を振り返ったハーバート・フーヴァーは、当時から誰の支援も得ずに自分の生計を立てることが希望だったと残しています。
オレゴン州で過ごした6年間は、おじの会社を手伝いながら簿記、タイピング、読書、経営などを学び、1891年には西の名門カリフォルニア州のスタンフォード大学に入学します。学生時代には地質学を専攻し、地形地図を作る仕事に従事するようになります。1895年には同校を卒業し、1899年には同じ研究室だったルイーズと結婚しました。
大学を卒業してからは、オーストラリアや当時の清国などの鉱山で鉱山技師として働き、やがてロンドンの鉱山会社の重役を務めるまでになり経済的な成功を収めます。アメリカが第一次世界大戦に参戦を決めた1917年にはウッドロウ・ウィルソン政権に招集され食糧長官を務めました。後のウォレン・ハーディング政権、カルビン・クーリッジ政権では続けて商務長官を務めています。
当時、人道主義者として名を広めていたハーバート・フーヴァーは、1928年の大統領選で共和党候補に指名され勝利し、アメリカ全国民にとって貧困時代の終わりを宣言します。ハーバート・フーヴァーの勝利で、アメリカ国民が裕福になれると感じ始めた頃、歴史的な経済不況「世界大恐慌(Great Depression)」が起こり、ハーバート・フーヴァーの手腕が問われることになったのです。
「ハーバート・フーヴァー」の経歴
大統領就任まで
1874年ハーバート・フーヴァーはアイオワ州で生まれ、11歳のときにオレゴン州に単身で引越しています。幼い頃から自らの生計を自分で立てる生活を強いられたハーバート・フーヴァーは、おじの会社を手伝いながらビジネススクールに通うなどして実業家としての知識と経験を積んでいきました。
1891年にはスタンフォード大学に進学し、上流階級の仲間に囲まれた生活が始まります。幼い頃から培ってきた簿記や経営の知識を評価され、野球やフットボールチームの運営、自治会の運営などを任されるようになりました。なかでも2,000ドル以上(現在の価値で約56,000ドル)の負債を抱えていた自治会を見事に立て直した功績は高く評価されたと言われています。
大学を卒業してからは専攻していた地質学をいかして鉱山技師として働き始めました。世界中の鉱山を転々として財産を築いた40歳のときに第一次世界大戦が始まり、多くのアメリカ人がフランスやベルギーなどに取り残されてしまいます。それを知ったハーバート・フーヴァーは私財を使ってアメリカ人を救出したとされています。
また、戦争の影響を受けて食糧がなくなったヨーロッパ諸国の罹災者たちに対して積極的に食糧支援をおこないました。鉱山技師としての成功と、国を越えた人道支援の姿勢が高く評価され、1917年にワシントンD.C.に食糧長官として迎え入れられます。ハーバート・フーヴァーの政治家としての人生が始まった瞬間でした。
大統領就任後
1917年からウッドロウ・ウィルソン政権で食糧長官、1921年から1929年までウォレン・ハーディングとカルビン・クーリッジ政権で商務長官を務めたハーバート・フーヴァーですが、1921年にはロシア革命や第一次世界大戦敗戦後のドイツで起きた飢饉に対し、多くの反対を受けながらも食糧支援を実施しました。
アメリカの世論もハーバート・フーヴァーの英雄的な尽力を評価し、1928年の大統領選で勝利します。貧困や弱者に対して救済の手を差し伸べることで知られていたハーバート・フーヴァー大統領の登場によって、1920年代初頭から続いていた空前の好景気はさらに加速すると誰もが信じていました。
ハーバート・フーヴァーが大統領に就任して数ヶ月後の1929年10月24日木曜日、ゼネラルモーターズの株価が下落したことを合図にするかのようにして、次々と株価が暴落していきます。このニュースが報じられた週明けの火曜日にはさらに大暴落が起こり、わずか1週間で300億ドルが消し飛んだ事態が起こります。
後に「暗黒の木曜日」と「悲劇の火曜日」と呼ばれることになる2日間をハーバート・フーヴァーは「すぐに回復する」とし、アメリカ政府の経済介入は最小限に抑えるとしました。
一方で、アメリカ国内農産物保護のために諸外国に対し40%程度の記録的な高い関税を課した「1930年関税法・Smoot-Hawley Tariff Act・Tariff Act of 1930」を成立させますが、結果的に報復関税を誘発しアメリカの輸出入は半分以下にまで低下しました。多くの歴史家は「1930年関税法」こそが大恐慌を誘発あるいは深刻化させたと見ています。
アメリカの歴史上最悪だったとされる1929年に始まった大恐慌は、ハーバート・フーヴァーが楽観視したこと、対外的な政策を見誤ったことで大きな問題になったとされています。1929年に起こった大恐慌は1939年頃まで続くことになり、繁栄に湧いた1920年代のアメリカとは対照的に1930年代のアメリカは暗黒の時代だったと言われています。
大恐慌を解決する有効な政策をとれなかったハーバート・フーヴァーは多くの国民から反感を買い、1932年の大統領選では民主党候補のフランクリン・ルーズベルトに40州以上で敗北し、アメリカ大統領選史上稀に見る歴史的な敗北を喫し、政界から退くことになりました。
ハーバート・フーヴァーは、大統領を辞してから90歳で死去するまでの31年間、各国首脳陣と積極的な面談を実施し、第二次世界大戦後には日本やドイツに食糧事情の調査で訪れています。大統領を退いてからの平和的な功績は大きく、多くの政治家から尊敬される対象でした。事実、大統領の後継者となったフランクリン・ルーズベルトはハーバート・フーヴァーの元で働きたいという言葉を残しています。
ポイント1:偉大なる人道主義者
ハーバート・フーヴァーは鉱山技術者として成功を収めた時代から第一次世界大戦によって戦災を受けたヨーロッパ諸国の人たちに食糧支援を実施しており、ロシア革命後のロシアにも援助をおこなっています。
また、1929年に起きた大恐慌の際には、アメリカ国内の鉄道公社の救済、失業者への無償資金提供などを実施しており、不況の解決には結びつかなかったものの、弱者救済に努めていたことは事実です。第一次世界大戦後、ハーバート・フーヴァーによって支援を受けたヨーロッパ諸国の100万人の子どもたちから感謝の署名が贈られています。
ポイント2:フーヴァーモラトリアム
ハーバート・フーヴァーが大統領在任中におこなった政策のひとつとして最も有名なのがフーヴァーモラトリアムでしょう。1931年に第一次世界大戦や世界大恐慌の煽りを受けて財政難に陥ったドイツを救済する(同時に世界大恐慌を食い止める)ための財政措置で、ドイツが抱えていた賠償金や戦争負債などの支払いを1年間猶予するものです。
第一次世界大戦では敵国だったドイツを救済しようとすることはイギリスやフランスなどから反感を買いましたが、日本を始め多くの国からの支持を得て承認させました。人道的な観点では評価されたものの、猶予期間中に世界恐慌は好転することなく、結果的に効果はなかった政策に終わりました。
ポイント3:大統領職後の働き
ハーバート・フーヴァーは歴代アメリカ大統領のなかで最も大統領職後に長生きした人物としても知られています。大統領に就任してすぐに大恐慌が起こり、有効な手が打てずにそのまま失脚したため無能な大統領と評価されがちですが、死去するまでに多くの人道的活動によって不名誉な称号を払拭できたことも確かです。(大統領職の以前から人道支援には積極的だった)
第二次世界大戦後の1946年に日本を訪れたハーバート・フーヴァーは、日本の危機的な食糧事情を憂慮し、マッカーサー総帥に対して食糧支援を進言しています。また、日本への原爆投下を激しく非難しており、ポツダム会議の以前から日本が和平を打診していることをアメリカ国内で主張していました。
ハーバート・フーヴァーの数々の人道支援活動に尽力した姿は現代でも高く評価されており、世界大恐慌が起こらなければ史上最高の大統領になっていたかもしれないと言われています。
まとめ
アメリカ第31代大統領を務めたハーバート・フーヴァーは、大統領としての目立った功績はほとんど残すことなく終わりますが、優れた人道主義者としての功績が多かったことは忘れてはいけません。アメリカも例外ではなかった世界大恐慌の影響を大きく受けた人物こそハーバート・フーヴァーと言えるかもしれません。
ハーバート・フーヴァーに関する豆知識
・エジソンと並んで「アメリカ史上最も偉大な技術者」としてコロンビア大学から表彰されています。
・大恐慌によって住む家を失った人たちが築いたバラック小屋の集落は皮肉を込めて「フーヴァー村(HooverVille)」と呼ばれアメリカ国内各地に存在していました。
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