はじめに
1953年から1961年までの8年間(2期)にわたってアメリカ第34代大統領を務めた人物がドワイト・デビッド・アイゼンハワー(以下、ドワイト・アイゼンハワー)です。
第二次世界大戦が終わり、冷戦の最中に大統領に就任したドワイト・アイゼンハワーは、先代の大統領だったハリー・S・トルーマンの支持率低下や、20年間続いた民主党政権に対する世論の不満を追い風にして勝利しました。「非政治家」と称されたドワイト・アイゼンハワーとはどのような人物だったのか解説します。
「ドワイト・アイゼンハワー」のプロフィール
ドワイト・アイゼンハワーはテキサス州の北東部にある街で7人兄弟の3番目として生まれました。もともとの家系は、ドイツ系移民としてアメリカにやってきており、ニューヨークやペンシルベニアを拠点にしていたと言われています。そのため、ドワイト・アイゼンハワーのルーツはドイツです。
牛乳工場を営んでいた家系は決して裕福とは言えず、ドワイト・アイゼンハワーは大学に進学することは経済的に難しいと告げられてしまいます。そこで、兄と協議して、どちらかが大学に通う際はどちらかが働いて互いの学費を捻出する約束をしました。
兄がミシガン大学に通っている間、弟はバター工場で働くという生活を続け、後に兄は弁護士資格を取得し、ワシントン州で弁護士事務所を開設して成功を収めています。一方で、弟のドワイト・アイゼンハワーは授業料が無料になるという誘い文句を受けて陸軍士官学校に入学し、軍人としての道を進むことにしました。
ドワイト・アイゼンハワーは後に大統領になる訳ですが、大統領職だった8年間以外はすべて軍人としてのキャリアだったことが特徴的です。軍人としては、陸軍参謀総長だったマッカーサーの片腕として活躍し、第二次世界大戦では連合国軍指揮官としてヨーロッパで指揮を執りました。
当時の大統領だったフランクリン・ルーズベルトや、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルらからの信頼を得て、連合国遠征軍最高司令官に任命されます。異例の大出世を遂げたドワイト・アイゼンハワーは、イタリアの降伏やドイツ軍制圧、ソ連のスターリンとの交渉役などの多くの功績を挙げました。
第二次世界大戦後には多くの人からの説得を受け、本人の意向とは対称的に1952年の大統領選に共和党候補として選出されて勝利しています。軍人での英雄的な活躍が認められ、本人の意思とは無関係に大統領に就任したという点では、第12代大統領のザカリー・テイラーと共通しています。
事実、ザカリー・テイラーは選挙で投票すらしたことがなかったにもかかわらず選挙に出馬して大統領に就任しており、ドワイト・アイゼンハワーも投票経験がなく、支持政党がどちらかも分からないほど政治に無頓着だったと言われています。このことがドワイト・アイゼンハワーが「非政治家」として支持された背景にあるのです。
「ドワイト・アイゼンハワー」の経歴
大統領就任まで
1890年、ドワイト・アイゼンハワーはテキサス州デニソンで生まれました。牛乳工場を経営していた家系は貧しく、高校卒業後はそのまま工場で働くつもりでいたと言われています。弁護士を目指す兄の学費を工面するために働いている間、友人からの誘いを受けて海軍兵学校と陸軍士官学校を受験することになりました。
1911年、カンザス州の上院議員を務めていたジョゼフ・リストウ議員からの推薦を受けて陸軍士官学校に進学することを決め、1915年に卒業しています。卒業後は司令官養成学校や陸軍実戦学校にも通い指揮官の基礎を学びました。1916年にはコロラド州出身のマミーと結婚し、後のベルギー大使を務めることになる息子のジョンをもうけています。
1922年まではメリーランド州で戦車隊として活躍したものの、1926年までは陸軍参謀学校に勤務するだけで、少佐として一切の昇級がない不遇の時代を過ごしました。しかし、1929年に国防副長官に任命されて以降はマッカーサーの主任補佐官を務めるなど最前線で活躍することになります。
1942年、フィリピンでマッカーサーの片腕として働いた経験を買われ、対ドイツ作戦計画を任されます。この計画が陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルに認められ、ヨーロッパにおける連合国軍の作戦部部長に就任しました。
ドワイト・アイゼンハワーは兵士に対する教育に注力し、あくまでも戦争は制圧ではなく民主主義のためと説き、拠点を置いたイギリスを敬うことを教えました。この結果、アメリカ兵やイギリス兵からも信頼を得ることになり、450万人の兵を調整できたとされています。
1944年、フランクリン・ルーズベルト大統領はドワイト・アイゼンハワーを連合国遠征軍最高司令官に任命しました。第二次世界大戦が始まった1939年時点では少佐だった階級が1945年には大将になり、アメリカ陸軍史上異例の昇級を成し遂げました。
第二次世界大戦における出世を伴う活躍は多くの支持者を生み、イギリスから帰国してからもその人気は衰えることはありませんでした。そしてついに大統領選への出馬を奨められ、根からの軍人が別世界だった政治の世界に進むことになる時を迎えます。
大統領就任後
1952年の大統領選で後の大統領になるリチャード・ニクソン副大統領と一緒に勝利したドワイト・アイゼンハワーは、他の大統領と同様に国内政策よりも外交を重視せざるを得ない状況にありました。
対ソ連においては冷戦の時期において最も冷え込んでいた時期であり、両国で核兵器開発競争を続けていました。アジアでは朝鮮戦争の泥仕合化、中東ではスエズ運河を巡ってイスラエル、イギリス、フランスがエジプトに軍事介入をしたスエズ危機(スエズ戦争または第二次中東戦争)など多くの問題が起こっていました。
先代の大統領だったハリー・S・トルーマンが示したように、この頃のアメリカ大統領は一国のリーダーであると同時に世界のリーダーという立場になっていたため、ドワイト・アイゼンハワーも例外ではありませんでした。
外交に専念せざるを得ず、国内政策が追いつかなかったドワイト・アイゼンハワー政権は、1954年の中間選挙の結果において民主党に主導権を奪われたものの、1,000万人以上に社会保障、400万人に失業補償を与えたことを始め、国内全域に6万キロ以上の高速道路を整備する連邦補助高速道路法、一般家庭の所得を平均20パーセント上昇させることなどに成功しています。
ドワイト・アイゼンハワーが世界中で知られることになったひとつのきっかけが、1953年にニューヨークで開催された国際連合総会における「平和のための原子力演説」です。第二次世界大戦以降、緊張関係に陥ったソ連とアメリカは互いに牽制する意味で核兵器の開発を進めた結果、核戦争や第三次世界大戦の勃発が懸念されました。
人類初の核兵器使用国の代表となったドワイト・アイゼンハワーは、最悪の事態を回避するため、原子力は兵器ではなく電力供給などの平和的な利用に限った使用を世界に訴えました。この演説後、ソ連との会談の場を設けることや、国際原子力機関(IAEA)設立が実現しています。
一方で、アメリカは原子力開発においても主体であることを世界に広めようとしただけという声もあります。演説のなかで、仮にソ連がアメリカを攻撃することがあれば、アメリカは核兵器を使って報復すると牽制しています。
1954年の大統領選ではリチャード・ニクソン副大統領と共に再選を果たし、日本の岸信介が訪米した際にゴルフを一緒にするなど親しい関係を築いています。1957年には黒人の入学を拒否し続けたアーカンソー州のリトルロック高校に対して、軍の第101空挺師団を派遣し、黒人の生徒たちを兵による護衛付きで登校させました。
外交、国内政策、加速し始めた差別問題などに取り組んだドワイト・アイゼンハワーは、概ね好評を得て任期の8年を迎えました。政治家としての経験がなく、軍の出身だったにもかかわらず好意的な評価を受けたのには、軍人を尊敬するアメリカ国民の気質も大きく影響していると言えるでしょう。
大統領職を離れてからは公の場に出てくることはなく、ペンシルベニア州の農家で静かに暮らし、1969年3月28日、ワシントンD.C.にある陸軍病院で心不全により78歳でこの世を去りました。
ポイント1:ノルマンディー上陸作戦
ドワイト・アイゼンハワーの名を世界中に広めた出来事のひとつが、第二次世界大戦の終盤にドイツ占領下にあった現在のフランス・ノルマンディー海岸に200万人近い兵が上陸した史上最大規模の上陸作戦「ノルマンディー上陸作戦」です。この作戦が成功したことにより、ドイツはパリを解放し、アメリカを含む連合軍の勝利が確定的になりました。
ノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦における象徴的な戦いのひとつで、それをトップとして率いたのがドワイト・アイゼンハワーでした。この時は連合軍の最高司令官だったことから、大統領としての功績よりも軍人としての功績の方が大きいと見られる所以になっています。
ポイント2:外交問題
ドワイト・アイゼンハワーは大統領職の8年間、常に外交問題に尽力した人物と言えます。1953年には3年間続いた朝鮮戦争を終結(停戦)させ、韓国や中国、そして日本などのアジア諸国と同盟国関係を築きました。同年の第一次インドシナ戦争においてはフランス軍に対して4億ドルの金銭支援、航空機などの軍備援助をしています。
1956年にはイスラエル、イギリス、フランスの3カ国がスエズ運河を国有化しようとしたエジプトに対し武力攻撃を実施します。これを受けてアメリカは、ソ連に加えて国連とも連携し、即時停戦を取り付けました。スエズ危機をきっかけにしてアメリカは中東問題にも介入するようになり、後の湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争などに拡大していきます。
1960年には後の日米同盟の基礎となる「日米安全保障条約」を締結するなど、終始平和的な外交を実践してきましたが、キューバに対しては国交断絶および経済制裁を決定し、両国の断絶状態は2015年まで続くことになるのでした。
ポイント3:平和のための原子力
ドワイト・アイゼンハワーは核兵器の使用には断固として反対した人物です。1953年の国連総会でおこなった核の平和利用演説に象徴されるように、一貫して核兵器には否定的な立場をとっています。また、1953年のインドシナ戦争では、ニクソン副大統領から中型の原子爆弾を使用することを奨められていますが拒否しています。
一方で、その背景にはソ連との核兵器開発競争による財政負担や、近代的な兵器開発においてソ連やイギリスに先行されている状態を食い止めたかったという狙いがあったとされています。実際に、ドワイト・アイゼンハワー政権では国家予算の半分が軍事支出という前代未聞の事態に陥っていました。
まとめ
ドワイト・アイゼンハワーは後任となるジョン・F・ケネディと比較されやすく「目立たない大統領」や「何もしていない大統領」と評価されがちです。対称的に、軍人として第二次世界大戦で活躍したことには非常に高い評価が寄せられており、ドワイト・アイゼンハワーは大統領と言うよりも、偉大な軍人としてアメリカ史に名を残す人物と言えるでしょう。
また、賛否両論あるものの「平和のための原子力演説」以降、現在まで核兵器が実戦で使用されていないことは、核兵器使用の抑制という点で一定の功績が認められます。ただし、アメリカがヨーロッパやアジア、そして中東などの問題に軍事力を持って介入することになる前例を作った人物でもあります。
ドワイト・アイゼンハワーに関する豆知識
・アメリカ大統領史上初めてカラー映像で記録された大統領です。
・無類のゴルフ好きで知られており、世界ゴルフ殿堂の特別功労部門に名前を連ねています。
・第二次世界大戦中、大好きなコカコーラをイギリスまで300万本送るように本国の陸軍参謀総長に依頼したと言われています。
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