アメリカの大統領(初代)ジョージ・ワシントンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第一回目は、初代大統領を務めたジョージ・ワシントンです。ジョージ・ワシントンは、アメリカ紙幣の1ドル札に使われていたり、インディアン絶滅政策を行ったことでも有名です。

公務員試験の歴史などでもおさえておきたい国家のリーダーについての特集です。


はじめに

1789年から1797年までアメリカ合衆国初代大統領を務めたジョージ・ワシントンはアメリカ紙幣の1ドル札にも使われているためご存知の方も多いでしょう。

ジョージ・ワシントンは独立戦争の際にはカリスマ指導者として活躍し、控えめで正直者だったことでも知られています。

今回はアメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンについて解説します。

「ジョージ・ワシントン」のプロフィール

ジョージ・ワシントンは1732年バージニア植民地出身で、黒人奴隷を抱えるプランテーションを営む白人の家庭に生まれます。父の死後、プランテーションなどの遺産を兄と一緒に引き継ぎました。兄が死んでからは軍人としての道が始まります。

民兵隊を任されるようになったジョージ・ワシントンはフランス軍を相手に活躍し、冷静な性格と的確な判断力が評価されるようになります。結婚を機に上流階級の生活を手に入れ、名実ともに地元の権力者になり政治の道へ進むようになりました。

イギリスからの独立を話し合う大陸会議で独立に向けて戦う意思を表明し、アメリカを独立へと導きました。軍人そして上流階級のカリスマ性で支持されアメリカ合衆国初代大統領に就任し、合計8年間に渡り大統領を務めました。

1799年、67歳で死ぬまでプランテーションや蒸留所の経営し余生を過ごしたジョージ・ワシントンは現在でもアメリカ人の尊敬の対象として「ワシントンD.C.」や「ワシントン州」などに名前が使われています。

奴隷を抱える身分でありながら奴隷を開放しようとしていた一方で、インディアンを猛獣と呼んで人間として扱わず、インディアン絶滅政策を命令した一面もあります。アメリカ人にとって英雄ですが、インディアンからは破壊者と呼ばれています。

「ジョージ・ワシントン」の経歴

ジョージ・ワシントンは1732年にアメリカ合衆国の前身である13植民地のひとつバージニア植民地で生まれます。ジョージ・ワシントンの家庭は白人の中流階級に該当し、黒人奴隷プランテーションを経営していました。11歳のときに父親が死に、兄が大半の遺産を引き継ぎ、弟のジョージ・ワシントンも一部のプランテーションを引き継ぎました。

若い頃のジョージ・ワシントンはプランテーション経営の傍らで測量士としても活躍し、後にウェストバージニア州となる一帯を測量した人物でもあります。測量士としての報酬を元手にして新たにプランテーションを購入し資産を拡張していきました。

1752年にフリーメーソンに加入しますが、同じ年に兄が亡くなり、兄が務めていたバージニアの民兵隊長を引き継ぐかたちで少佐になります。翌年には土地の支配を続けていたフランス軍のスパイ役を担当し、フランス軍の動きをまとめた報告書はアメリカとフランスの対立を決定づけるものになりました。


1754年にはバージニア州知事の命令で自身が率いた隊でフランス軍を攻撃しますが、数で圧倒されて降伏を余儀なくされます。フランス軍との交渉の結果、無事に帰還が許されますが、ジョージ・ワシントン隊の敗北をきっかけにして「フレンチ・インディアン戦争」が始まります。

フレンチ・インディアン戦争の際にはジョージ・ワシントンは西ペンシルベニアのモノンガヒーラの戦いに参加しますが敗北します。しかし、戦闘の混乱のなかジョージ・ワシントンの冷静な対応力で多くの兵の命が救われたことから後に続くカリスマ性を見いだされます。

1759年、ジョージ・ワシントンは裕福な夫を亡くし未亡人だったマーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚し、上流階級で政治的な権力を持った貴族としての生活が始まります。この頃には広大な土地と奴隷100人を保有し、地元では大地主でフレンチ・インディアン戦争で活躍した英雄として尊敬されるようになり、バージニア植民地会議のメンバーに選出されます。

1769年にはイギリスからの独立を望む声が高まり、ジョージ・ワシントンは指導者としての役割を務めるようになります。イギリス本国からの不当な圧力を受け続けるものの耐え忍ぶことを続けました。しかし、Thomas Paine(トマス・ペイン)の書であるアメリカの独立の必要性を説いた「Common sense(コモン・センス)」を読んだジョージ・ワシントンは独立に向けて行動を起こします。この書こそ、アメリカが独立を目指すきっかけになったとされています。

1775年、イギリスからの独立を話し合う大陸会議の場に軍服姿で登場したジョージ・ワシントンはイギリスと戦う覚悟を決めていました。大陸軍の総司令官は務まらないと辞退するものの、カリスマ性や愛国心で敵う者はおらず、ジョージ・ワシントンは大陸軍総司令官として独立戦争を戦いました。

1783年、独立戦争の終了と同時に大陸軍の総司令官を辞任します。ジョージ・ワシントンはそのままの地位を維持すれば絶大な権力者になれるはずっだたにもかかわらず、権力にすがらない理念を通しました。

1787年には周囲からの説得を受けてフィラデルフィアの憲法制定会議に参加し、満場一致で議長に就任します。1789年にはアメリカ合衆国初の大統領選が実施され、投票率100パーセントで初代大統領に就任します。

大統領就任後、当時としては破格の報酬を約束されますが、すでに農園経営や裕福な家庭を築いていたことからそれを辞退する意向を見せたことは有名な話です。あまり乗り気ではなかったものの大統領職を2期務め、周囲からは3期目も期待されましたが辞退します。現在でも続く、大統領職は最大で2期(8年)という制度はジョージ・ワシントンのこの行動に由来します。

ポイント1:アメリカ合衆国の初代大統領

ジョージ・ワシントンの最大の特徴はアメリカ合衆国初代大統領であることです。1776年にイギリスから独立を果たした13植民地はリーダーとなる人物を選定することが不可欠でした。独立戦争の際に強い愛国心と忠誠心を見せたジョージ・ワシントンが必然的に選出されたのです。

また、中流階級だったジョージ・ワシントンは結婚した相手が上流階級の人物だったことで政治の世界に進めるようになりました。性格と生活環境が時代にマッチしたことで誕生した大統領と言えるでしょう。

ポイント2:控えめな政治家だった

ジョージ・ワシントンは初代大統領だったため就任後の目立った功績こそありませんが、国家分裂を恐れて政党を築くことをしませんでした。結果的に側近のアレクサンダー・ハミルトンが連邦党、後に第3代大統領になるトーマス・ジェファーソンが民主共和党を設立しますが、均衡がとれた政治を求めていた人物として知られています。

ポイント3:インディアン絶滅の政策を実行

ジョージ・ワシントンは政治では中立を望み、控えめな性格だったとされていますが、インディアンに対しては冷酷なまでに殺戮を繰り返しました。1779年には土地を巡って抵抗するインディアンのイロコイ族を根絶やしにする命令を下したほどです。

ジョージ・ワシントンによって多くのインディアンは殺害され、絶滅した部族もいますが、必ず双方で和平案を協議したうえで掃討作戦を実行するように命じていたのも事実です。

まとめ

アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンは奴隷プランテーションの家庭で生まれ、測量士、民兵、軍人そして結婚を機に政治の世界へ進みました。

大統領職は望んだものではなく、周囲からの支持や期待に押されるかたちで就いたことも特徴です。


アメリカ合衆国大統領の歴史はこのようなかたちで始まったことを知っておくといいでしょう。

ジョージ・ワシントンに関する豆知識

・桜の木を切ってしまったことを父親に正直に申し出たところ、逆に褒められた逸話が有名ですが、ジョージ・ワシントンが子どもの頃にはアメリカ大陸には桜の木はなかったそうです。

・ジョージ・ワシントンは生涯にわたり歯の問題を抱えていたそうです。1ドル札や多くの肖像画で膨れっ面をしているのは歯痛を我慢したり、入れ歯が外れないようにしているためでした。

本記事は、2018年10月26日時点調査または公開された情報です。
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