はじめに
アメリカの50ドル紙幣の肖像画に採用されているアメリカ第18代大統領ユリシーズ・グラントは、南北戦争の時に北軍を率いて南軍のリー将軍を破った英雄としても知られています。一方で大統領就任後は周囲のスキャンダルや汚職事件に振り回され、ついには史上最悪の大統領とまで呼ばれた人物です。
今回は1869年から1877年までアメリカ第18代大統領を務めたユリシーズ・グラントについて解説します。
「ユリシーズ・グラント」のプロフィール
ユリシーズ・グラントはオハイオ州で生まれ、製革業者だった父親の元で17歳になるまで暮らしました。17歳の時に、父親やオハイオ州の下院議員だったトーマス・ハマーなどの強い推薦を受けて陸軍士官学校に入学しました。
21歳で陸軍士官学校を卒業してからは米墨戦争に参加しますが、その時に軍を率いていた人物たちが第12第大統領を務めたザカリー・テイラーや、ジョージ・ワシントン以降初となる名誉大将の称号を得たウィンフィールド・スコットらでした。ユリシーズ・グラントにとってこの経験こそが後に南北戦争で活躍し、大統領へと進む道の基礎となりました。
米墨戦争終結後はカリフォルニア州での勤務になりましたが、多量飲酒事件を起こしてしまい軍を辞職しました。その後は、農場の経営や不動産仲介業に手を出しますがいずれも失敗し、最終的には父親が経営していた皮革店の経理助手として生計を立てていきました。
1861年に南北戦争が勃発してからユリシーズ・グラントの人生は大きく変わることになります。米墨戦争での軍歴を評価され、北軍からの参戦を決意したユリシーズ・グラントは自ら志願兵を募り、その当時は中立だったミズーリ州に派遣され、北軍が優位になるよう働きかけました。次第に、ユリシーズ・グラントの活躍は時の大統領だったエイブラハム・リンカーンの耳にも届くようになります。
この頃のエイブラハム・リンカーンにとって悩みの種だったのが北軍の首都防衛と南軍への侵略をまとめる司令官の不在でした。そこで、南北戦争開始直後から功績を挙げ続けていたユリシーズ・グラントに白羽の矢が立ち、1864年に北軍総司令官に就任しました。
同年にユリシーズ・グラントは南軍のロバート・エドワード・リー将軍を追い込むことに成功し、実質的に南北戦争に決着をつけたのでした。エイブラハム・リンカーンは政治の面で南北戦争を決着させ、ユリシーズ・グラントは戦地で南北戦争を決着させたことから、南北戦争の英雄として大統領への道を進むことになるのでした。
「ユリシーズ・グラント」の経歴
南北戦争終結まで
1822年、ユリシーズ・グラントはオハイオ州で生まれ、17歳の時に陸軍士官学校へ進学し軍隊としての道を歩み始めました。父親を含む周囲の大人たちからも強く推薦されるような人物だったことから、戦略に通ずる計算力やカリスマ性を持った人物だったとされています。
1843年、陸軍士官学校を決して良好とは言えない成績で卒業したユリシーズ・グラントはすぐに米墨戦争に従軍することになります。また、同じ年にはジュリア・デントと結婚し、後に2人の子どもに恵まれています。
米墨戦争ではメキシコ軍が秘密裏に大砲を製造していた場所で起こった「モリノ・デル・レイの戦い」でウィンフィールド・スコットらと功績を挙げ中尉、そして中佐へと昇進しました。
軍での成功を収めたように見えたユリシーズ・グラントでしたが、1854年に日頃から習慣付いていた飲酒癖が災いし、辞職に追い込まれてしまいます。後の南北戦争では、軍隊の上官から飲酒癖を理由に解任を言い渡される事態を起こしてしまいますが、戦地での能力の高さは捨てがたいものとされ、なんとか留任した逸話も残っています。周囲の人間にとってユリシーズ・グラントの飲酒癖は厄介な問題でした。
自らが築いた軍隊での活躍を飲酒によって失ってしまったユリシーズ・グラントは様々な事業に手を出したものの、弟の誘いを受けてイリノイ州にあった父親の皮革店で働き始めました。
1861年、ユリシーズ・グラントにとって大きな転換期となる南北戦争がサムター要塞陥落によって始まります。ユリシーズ・グラントはイリノイ州のスプリングフィールドで志願兵を募り、リチャード・イェイツ知事に北軍としての参戦を表明します。イリノイ州の歩兵隊、そしてミズーリ州の鉄道を守る任務を任され、軍の統制力や戦略力の高さで昇進を続けていきました。
1862年、ユリシーズ・グラントはミシシッピ川の交通の要所を抑えることに成功し、これにより北軍は南軍を分裂させることが可能になりました。上官だったハレック将軍を超える功績を上げたユリシーズ・グラントはテネシー軍司令官に就任します。
1863年にはミシシッピ川を南下し、ビックスバーグ要塞を包囲して南軍を東西に分裂させ、追い込むことに成功しました。これにより南軍は勢力をあげた反撃は難しくなり、実質的に南軍は無効化したに等しい状態になりました。
1864年、これらの功績が総司令官不在に悩んでいたエイブラハム・リンカーンの耳に留まり、飛び級のかたちでユリシーズ・グラントが北軍総司令官に任命されました。ユリシーズ・グラントは南部連合の首都だったリッチモンドを包囲することに成功し、最終的に南軍のリー将軍を追い込んで降伏させました。南北戦争の事実上の終結を意味したこの降伏はユリシーズ・グラントを一躍英雄にしました。
大統領職
1868年、ユリシーズ・グラントは共和党候補として満場一致で選出され、民主党候補だったホレイショ・シーモアを破って大統領選に勝利しました。南北戦争での活躍や英雄としての名声は大きな人気を生み、ユリシーズ・グラントは絶大な人気のもとで誕生した大統領になりました。
しかし、大統領就任後は戦地での活躍とは対照的に、まったくと言っていいほど政治的な能力は発揮できないまま時だけが過ぎていきました。前大統領のアンドリュー・ジョンソンの時代に大統領の権力は弱体化したことも影響し、ユリシーズ・グラントは上院の思うままに操られる状態になります。
事実、ユリシーズ・グラント政権では制定された法や決議の数が過去10年と比較しておおよそ3倍に膨らみました。これを受けてユリシーズ・グラントは大統領による拒否権を復活させ、アンドリュー・ジョンソンのように拒否権を攻撃的に使うのではなく、正当に使用できる権利を取り戻すことに尽力しました。
ユリシーズ・グラントが大統領職で最も苦心したのは南部再建でもなく、民族問題でもなくスキャンダルや汚職事件でした。1869年には金相場を吊り上げようとした金融業者が協力を求めてユリシーズ・グラントの妹の夫に賄賂を送った問題や、1872年には鉄道建設会社ユニオン・パシフィック社の関連会社に副大統領だったスカイラー・コルファクスらが関与し、株式売買で便宜を図っていたことが発覚しました。
なかでも有名な事件が「ウイスキー汚職事件」です。当時、酒類税は酒代の8倍にまで上がっていました。そのため、多くの酒造メーカーは国税庁や共和党員に賄賂を贈って税金の支払いを免れていました。これを知ったユリシーズ・グラントは全員を逮捕する命令を出したものの、事件に関わった人物のなかには自身の秘書や長男、そして弟までも含まれていました。
ユリシーズ・グラント自身がスキャンダルに関与した明確な事実はないものの、世間は汚職事件に対する身内に甘い寛大な処置を問題視して、南北戦争の英雄は次第に人気を落としていきました。2期目には大統領として功績をあげることよりも、共和党が第一党として政権を握ることだけに尽力した日々が続きました。
大統領就任後のユリシーズ・グラントは南北戦争での活躍よりも、スキャンダルが続く人物として知られるようになり、ついには史上最悪の大統領と呼ばれるまで凋落してしまうのでした。
ポイント1:火消しに追われた大統領
南北戦争ではエイブラハム・リンカーンに次いで北軍の英雄とされたユリシーズ・グラントでしたが、政治の世界では活躍できずに議会に操られるままになりました。在任中は終始本人の周辺で起きたスキャンダルに振り回され、政策どころではなかったのです。
在任中の8年間で南北戦争の英雄は「最も腐敗した政権」や「史上最悪の政権」などと言われる様になりました。
ポイント2:インディアンからも不人気だった大統領
ユリシーズ・グラントは先住民族のインディアンを現在のオクラホマ州に強制移動させることに積極的でしたが、長引く白人とインディアンの衝突を避けるために、インディアンの代表者をインディアン問題の管轄トップに配置するなど平和政策を打ち立てました。
しかし、ユリシーズ・グラントが計画した和平案は白人が無視するかたちでないがしろにされていきました。形だけの和平案となったことからインディアンからは大きな反感を買うことになりました。
ポイント3:岩倉使節団と接見した大統領
ユリシーズ・グラントは1872年に日本からやってきた岩倉使節団一行と接見した大統領としても知られています。当時、キリスト教を禁止していた日本政府のやり方を非難した一方で、岩倉使節団をもてなすための5万ドルの特別予算を計上し、議会を説得した一面も持っています。
大統領職を辞してからは、アメリカ大統領経験者で初めての日本を訪れた人物としても知られています。ユリシーズ・グラントは、日本が本格的な外交を始める時代に友好関係を作ったアメリカ人でもあるのです。
まとめ
ユリシーズ・グラントは大統領としての功績よりも、軍人としての功績の方が圧倒的に高く、南北戦争の際にはエイブラハム・リンカーンを救った人物としても知られていました。しかし、戦地でのような活躍はワシントンD.C.では出来ぬまま、不名誉な称号を与えられてしまいました。
ユリシーズ・グラントに関する豆知識
・1879年に国賓として日本に2ヶ月間滞在し、明治天皇と面会しています。日光東照宮にある天皇しか渡れない橋を渡ることを許されたものの、それを辞退したことから周囲からの評判をあげたとされています。
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