【日本の政策史その7】日本の古代政治史上の一大改革「大化の改新」

日本の政策史シリーズ第7回は、「大化の改新」です。ちなみに645年で習ったかもしれませんが、現在は646年という説が有力です。改新の詔についても真実が記されているのかどうかという疑惑ももちあがっています。そんな日本の古代政治史上の一大改革「大化の改新」について考察していきます。


「大化の改新」は日本の何を変えたのか?

学校で日本の歴史を勉強するときに使用する教科書には、必ず登場するのが「大化の改新」です。定期試験にもよく出題されました。「大化の改新」「中大兄皇子」「中臣鎌足」「蘇我入鹿」はほぼセットで覚えたのではないでしょうか。さらに「公地公民」「班田収授の法」という言葉まで同時に思い出せるようだとかなり一生懸命勉強した証拠ですね。

語呂合わせでは「蒸し米で祝おう」とか「無事故で終わった」とかで「645年」の大化の改新を覚えた方も多いかもしれませんね。

でもどちらかというと年号よりも登場人物の方が試験では問われました。ちなみに現代では大化の改新は645年ではなく「646年」となっています。1年の違いなので大差がないと感じられるでしょうが、正しくは645年が「乙巳の変」で、646年からが大化の改新となっています。つまり権力者の蘇我入鹿が暗殺された事件自体は政変であり、大化の改新には含まれないということですね。

しかし、なぜ大化の改新はここまでメジャーな歴史なのでしょうか。日本にとってそこまで重要なイベントだったのでしょうか。そもそも大化の改新で何が変わったのでしょうか。

今回は改めて大化の改新を振り返り、現代と照らし合わせて考察していきます。

「大化の改新」は「政治的な改革」

「大化の改新」とは、簡単に説明すると「政治的な改革」です。新しくこのようなシステムで国を運営していきますと、大きな変革をしたのが「大化の改新」なのです。

なぜ大化の改新が生まれたのか、それをしなければならなかった理由は後で説明させていただくことにして、まずは大化の改新の中身について紹介していきましょう。

「大化の改新」の中身について

646年1月に「改新の詔」が新たに即位した「孝徳天皇」から発せられます。こちらは四か条から構成されており、内容は「日本書紀」に掲載されています。各条文を要約して紹介します。

ーーーーー

第1条 これまでは天皇や王族の所有地は「屯倉」、そこに住む支配民を「名代」「子代」と呼んでいました。一方で豪族の所有地は「田壮」、そこに住む支配民を「部曲」と呼んでいます。日本の領地は二種類に分けられていたわけです。それをすべて天皇のものにしようというのがこの第1条の内容になります。公地公民の考え方です。

第2条 政治の中心となる首都の設置、畿内・国・郡といった地方行政組織や区画区分についてです。当時は地方豪族が「国造」としてそれぞれ独自に領地と領民を統治していました。これを国と郡に分け、地方豪族を「郡司」として「律令体制」に取り込む仕組みです。さらに国や郡を首都と繋ぐ交通路も整備されることになりました。「伝馬制」という言葉も用いられます。


第3条 全国の「戸籍」や「計帳」を作成して民衆を統治し、公地を公民に「口分田」として貸し与える土地の統治システムについてです。特に公地を貸し与えることを班田収授の法と呼びます。

第4条 全国の民衆に統一した税や労役を負担させるシステムです。「租」「庸」「調」の三種類に分けられます。

ーーーーー

租は、田の収穫の3~10%程度を納税義務として設定しています。田1段につき2束2把と記されています。庸は、首都での労役です21~60歳を「正丁」と呼び、61歳以上を「次丁」と呼び、両者が対象となっています。代納物も認められており、米でも布でもよかったようです。この場合の米を「庸米」と呼び、1戸につき5斗と定められています。布の場合は「庸布」と呼び、1戸につき1丈2尺と定められています。調は、正丁、次丁だけでなく中男(17~20歳)にも課せられました。繊維製品を納入するものです。こちらも代納物が認めており、地方の特産物や貨幣でもよかったようです。

新しい政治システム

さらに大化の改新では改新の詔の内容以外にも新システムを導入しています。

一つは陵墓の規定です。これをもって古墳時代は終わりを告げました。同時に殉葬を禁止しています。他にも男女の法についても整備されました。

一番大きなものは氏姓制度の官僚化でしょう。伴造や品部を廃止しています。世襲制の役職を廃止したわけです。特定の氏族が特定の役職を世襲することもなくなりました。これまでは臣の姓の代表が大臣となり、連の姓の代表が大連となっていましたが、こちらも廃止し、左大臣や右大臣、内臣などが置かれました。有力氏族は冠位十二階に該当しないことになっていましたが、こちらを組み込みように制度を変えています。冠位が十三階、十九階と複雑化していくことになります。

外交面でも朝鮮三国との国交を回復し、遣唐使を継続して制度や文化の輸入を目指しています。高向玄理を新羅に派遣し、人質をとることで緊張を緩和するよう働きかけています。

以上が一般的に知られている大化の改新の内容になります。

情報ソースは日本書紀

ただし時代とともに内容も変化しており、藤原宮から発掘された木簡から、改新の詔の内容が奈良時代に書き換えられている可能性が浮上しました。つまり日本書紀に記されているものは、大化の改新の際に実施されたものではないということです。

こうなってしまうと大化の改新の詳細は謎になってしまいます。ですから現代では、改新の詔の内容に近いことが行われたという感じで認識されています。

例えば、大化の改新の当時は郡ではなく「評」であったという説もあります。郡司が登場するのも完全に律令制になってからだと考えられています。

公地公民も徹底されたわけではなく、一部の豪族には引き続き田壮や部曲が認められていたようです。

「大化の改新」が生まれた背景

それでは何のために大化の改新を行ったのでしょうか。

律令国家への推進

大化の改新の内容をご覧になって予想がついたかもしれませんが、キーワードは「天皇中心の中央集権を強めること」と「豪族の力を弱めること」になります。ただし天皇中心の中央集権・律令国家の形成は、大化の改新以前の聖徳太子や蘇我馬子の頃から始まっていますので、大化の改新からリニューアルした話ではありません。


より理想に近づくために徹底したというのが大化の改新です。

大化の改新に至るまでの経緯 「乙巳の変」と「大化の改新」

ここで大化の改新に至る経緯について紹介していきましょう。

当時の天皇は女帝である皇極天皇です。現在の奈良市に飛鳥と呼ばれる地域があり、ここが政治の中心地です。飛鳥板蓋宮が都でした。飛鳥は蘇我氏の地盤です。絶大な権力を誇った蘇我氏本宗家は代替わりしており、蘇我馬子の跡を継いだ蘇我蝦夷とさらにその子の蘇我入鹿が政治の中心にいました。大臣として権勢をふるっています。こうした政権闘争の中で聖徳太子の子である山背大兄王が蘇我入鹿の指示で暗殺されています。

蘇我入鹿の専制に対抗したのが皇極天皇の子である中大兄皇子です。中大兄皇子は中臣鎌足と結束、さらに蘇我氏一門である蘇我倉山田石川麻呂の娘を妻に迎えて勢力を伸ばします。

そして645年6月12日、飛鳥板蓋宮において皇極天皇の前で蘇我入鹿は中大兄皇子らに暗殺されます。息子の死を知った蘇我蝦夷は自害しました。これが「乙巳の変」です。

皇極天皇は退位し、弟の孝徳天皇が即位しています。中大兄皇子がすぐに即位することも可能でしたが、乙巳の変を起こした理由が、中大兄皇子本人が天皇になるためだったとなると大義がなくなるために辞退したとも伝わっています。

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子にし、左大臣に阿部内麻呂臣、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、内臣に中臣鎌足を任命しています。646年の改新の詔から、都が現在の大阪市にあたる摂津の難波長柄豊碕宮に遷都されることになりましたが、実際に都が完成したのは650年とも652年とも伝わっています。

天皇中心の中央集権国家へ

こうして巨大権力であった蘇我氏本宗家を滅ぼし、天皇中心の中央集権国家に近づいたのです。蘇我氏一門の蘇我倉山田石川麻呂も後年、謀反の疑いをかけられ自害しています。

その後、皇極天皇が重祚し斉明天皇として即位し、さらに中大兄皇子が天智天皇として即位します。こうして670年に庚午年籍を作成されるのです。こちらが全国的な戸籍としては最古のものとされており、改新の詔に記載されている戸籍や公地公民はこうしてようやく実現に近づいたと考えられています。

「大化の改新」からみる現代の日本

「乙巳の変」は武力による軍事クーデターであり、そのクーデターによって天皇による中央集権国家ならびに律令国家が誕生することに繋がっていきます。

「大化の改新」は大きな反響を呼び、これまでの豪族専制スタイルを一変させることに成功しました。しかし理想と現実には異なる点も多いものです。次第に藤原氏をはじめとする貴族が権力を握り、墾田永年私財法などの施行によって公地公民の制度は崩れ去り、新たに荘園が生まれます。荘園は私領化し、やがて領地争いの戦争へと発展していきます。

日本の領地の支配者は、「大化の改新」によって豪族から天皇に集約されましたが、長くは続かず、やがて貴族が全国の荘園を掌握するようになります。その荘園を守るべき武士たちが力をつけ始めると、領地の支配権は武士に移ります。そしてその状況が江戸時代末期まで続くのです。これは人類の領地支配の難しさ、困難さを物語っています。

明治維新の際の版籍奉還によってようやく天皇のもとに集権されるようになり、大化の改新の志でもあった「天皇中心の政治」「天皇中心の国家体制」が完成したのです。実に1200年間もの月日を要しています。

既存の勢力や制度がある中で、それらをぶち壊し革新的な取り組みを行い、さらに結果を出すためには、長い月日と様々な障害を乗り越えていく努力や工夫が必要になるということでしょう。

革新の詔を掲げて以降、その理想に向かって官吏が協力し合って少し少しずつ歩んできた結果が、現代の日本の国家を築いているのでしょう。

まとめ これから先、私たちに必要な政治とはなんでしょうか。

これから先、私たちに必要な政治とはなんでしょうか。

「大化の改新」、それは、当時の一部の人間の勇気と志のある行動が日本を律令国家にし、法治国家にしました。

現在、日本とそれをとりまく世界は、終わらない戦争、テロ、危惧される高齢化社会、環境問題、食料問題、人権問題。これらは国際機関、日本の政府機関、大企業だけで解決の見通しはたっていない状況です。

そんな今、国の枠を超えて世界、人類の将来のために政治に携わるような人材やシステム、それがこれからの平和のリーダーシップをはかる日本の「政治」かもしれません。


(文:ろひもと理穂)

本記事は、2017年6月16日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

気に入ったら是非フォローお願いします!
NO IMAGE

第一回 公務員川柳 2019

公務員総研が主催の、日本で働く「公務員」をテーマにした「川柳」を募集し、世に発信する企画です。

CTR IMG