アメリカ第32代大統領フランクリン・ルーズベルトについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第31回目は、第32代大統領を務めたフランクリン・ルーズベルトです。フランクリン・ルーズベルトは両足が不自由であり、アメリカ史上唯一、重い身体障害を持った大統領として知られています。 公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。

はじめに

現代のアメリカにおいても尊敬の対象とされているフランクリン・ルーズベルトは、1933年から1945年までの12年間にわたってアメリカ第32代大統領を務めた人物です。現在でこそ大統領の任期は最大8年という憲法がありますが、世界恐慌や第二次世界大戦などの有事を理由に4,422日も大統領であり続けました。

今回は、アメリカ国内ではエイブラハム・リンカーンと並んで最も偉大な大統領のひとりとして絶大な人気を誇る一方で、諸外国からは戦争犯罪人とまで揶揄されたフランクリン・ルーズベルトについて解説します。

「フランクリン・ルーズベルト」のプロフィール

フランクリン・ルーズベルトはニューヨーク州の北部にあるハイドパークで生まれました。父親は弁護士や鉄道会社の副社長を務めていたことから非常に裕福な家庭で、曾祖父にあたるアイザック・ルーズベルトはアメリカ合衆国憲法制定会議の一員だったこともあり、幼い頃から政治色が強かったと言われています。

1700年代、オランダやユダヤ系にルーツを持っていたルーズベルトの家系は、政治的な理由で民主党支持派と共和党支持派に大きく二分されています。その時に民主党派にいたのが、第26代大統領を務めたセオドア・ルーズベルトです。(フランクリン・ルーズベルトは民主党派)政治的な背景の違いはあったものの、セオドア・ルーズベルトは遠縁の従兄という関係でした。

裕福だったフランクリン・ルーズベルトは幼い頃から家庭教師によって学問を学び、一般社会とは疎遠な生活を送ります。1904年にはハーバード大学、1908年にはコロンビア大学の法律学校に入学しました。同年にはニューヨークのウォール・ストリート法律事務所で仕事を始めています。

1911年には州議会上院議員として活動を始め、党内派閥争いに勝ち、ニューヨークの民主党で名前をあげました。1913年にはウッドロウ・ウィルソン大統領から海軍次官に任命され、後に大きな影響を与えることになる「海軍びいき」が顕著になります。

1920年の大統領選では民主党から副大統領候補として選出されますが、ウォレン・ハーディングに大敗を喫するかたちで、政界から引退することを決意します。しかし、ニューヨークで弁護士業を再開した後、ニューヨーク州知事に当選し政界へ復帰。1932年の大統領選では州知事での改革実績が評価されるかたちで選出され、世界恐慌に打つ手なしだったハーバート・フーヴァーを大差で破って大統領に就任します。

歴史的な大差で勝利したフランクリン・ルーズベルトですが、世界恐慌から抜け出せずにいたアメリカ経済の修復や第二次世界大戦など、アメリカが過去に直面したことがないような大きな課題が待ち受けていたのでした。

「フランクリン・ルーズベルト」の経歴

大統領就任まで

1882年にニューヨークで生まれたフランクリン・ルーズベルトは、典型的な裕福な家庭で生まれ育ちました。一般階級の人たちとの接点がほとんどなかったため、中学生時代に初めて経験した寄宿舎生活では馴染めずに苦労したと言われています。

1904年にはハーバード大学に進学し、学内新聞の編集長を務めています。父親もそうであったように弁護士を目指すため、1908年にはコロンビア大学の法律学校に進学し、ニューヨーク市内の弁護士事務所で働き始めました。

1910年には裕福な家庭の出身ということもあり、州議会議員選に民主党から出馬し当選します。1911年から1913年までニューヨーク州の上院議員を務めた後、海軍次官に抜擢されました。この時期には、カリブ諸国や中米への海軍派遣、潜水艦の導入、第一次世界大戦で敵国のドイツに対する戦力導入などを指揮しています。

フランクリン・ルーズベルトは海軍の熱烈的な支持者としても知られており、次官当時から海軍への予算取得のため議会や各国への働きかけをしたり、第一次世界大戦後に解体する予定だった海軍をそのまま維持することに尽力しています。また、ノルウェー近くの北海に機雷を用意すべきと主張するなど過激な側面も持ち合わせていました。

1919年、海軍兵と一般市民との間で起きた同性愛スキャンダルが問題視され、その責任を取るかたちで海軍次官を辞職。1920年の大統領選に副大統領候補としてオハイオ州知事のジェームズ・コックスと一緒に出馬しますが、共和党候補に大敗にし、政界から身を引いて弁護士に戻ることにしました。

1921年にはカナダの別荘でポリオを発症し、下半身麻痺の後遺症を負います。車椅子生活を余儀なくされたフランクリン・ルーズベルトですが、車椅子姿を見られることを極度に嫌い、メディアの前では徹底して自身の障害を隠したとされています。

1928年のニューヨーク州知事選において、フランクリン・ルーズベルトが選出され政界に戻ることになります。後の1934年から1945年までニューヨーク市長を務めることになる、カリスマ市長と呼ばれたフィオレロ・ラガーディアらと改革を進めました。この頃にニューヨーク市は高層ビルが立ち並ぶようになり、人類史上初のメガシティになっています。

1932年の大統領選では、ニューヨーク州知事としての功績や、現職のハーバート・フーヴァーに失望した世論からの支持を追い風に、40州以上で勝利するという歴史的な圧勝で大統領に就任することになるのでした。

大統領就任後

1932年の大統領選で大勝したフランクリン・ルーズベルトは、経済がどん底にまで落ちていたアメリカ経済の立て直しを迫られます。一向に回復の兆しが見えなかった世界恐慌に対してフランクリン・ルーズベルトは、アメリカ政府が積極的に経済介入する「ニューディール政策(New Deal)」を実行しました。

ニューディール政策では主に、テネシー渓谷開発公社や民間資源保存局、社会保障局などの公共事業や大規模雇用主となる組織を設立しました。大統領就任後わずか100日で政府が経済に介入しない自由主義経済から大きな方向転換を実施したのでした。

1936年の大統領選でも再選を果たしたフランクリン・ルーズベルトは、第二次ニューディール政策として失業者への手当給付、生活保護よりも雇用をすることで失業者を減らす取り組みを実施します。また、諸外国に対し関税を大幅に引き下げるなどして保護貿易から自由貿易へと舵を切りました。

フランクリン・ルーズベルトによるニューディール政策によって、1929年に始まった世界恐慌は徐々に回復し始め、GDPが1936年に1929年を上回り、失業率は1943年に1929年を下回りました。時を同じくしてフランクリン・ルーズベルトが取り組むことになったのが第二次世界大戦です。

1939年、ヨーロッパで始まった第二次世界大戦ですが、当初のアメリカは参戦しない姿勢を取っていました。その理由に、1935年に成立した中立法(すべての交戦国に武器の輸出を禁止したもの)、第一次世界大戦の反省的な国民感情、そしてフランクリン・ルーズベルトが先の大統領選の際に戦争はしないと宣言したことが挙げられます。

1940年9月にはドイツ、イタリア、日本の三国同盟が結成されます。先にフランスを降伏させることに成功していたドイツはイギリスにも侵攻を始めました。一方で、アメリカは勢いづくドイツがイギリスまでも制圧してしまうと、イギリスが戦争負債をアメリカに返済できなくなることを懸念しました。

負債が焦げ付くことは、世界恐慌から立ち直りつつあったアメリカ経済への影響も大きいため、フランクリン・ルーズベルトは選択を迫られていました。自身の3期目がかかった1940年の大統領選では、日独伊を民主主義と人権の敵とみなし必要なら戦うという姿勢を表明します。結果、国民はフランクリン・ルーズベルトを支持し、再々選を果たしました。

1941年3月には中立法を改正し、イギリスへの武器輸出を解禁します。8月にはイギリスのチャーチル首相と大西洋上で会談を実施し(大西洋憲章)、事実上アメリカはイギリスと共に参戦することになりました。しかし、イギリスとの間で大西洋憲章が締結されたことだけではアメリカが「実質的な」参戦をする理由には足りませんでした。

1941年12月7日、日本軍はアメリカの真珠湾を攻撃し、多数のアメリカ軍兵や民間人が犠牲になります。フランクリン・ルーズベルトにとって真珠湾攻撃は国民感情の扇動や、参戦の大義名分となり、アメリカは実質的にも第二次世界大戦に参戦することになったのでした。

ちなみに、日本軍が真珠湾を攻撃した背景として、アメリカ頼みだったエネルギー資源の調達を停止されてしまったことや、同時期に日本が戦っていた中国に対する利権を巡るフランクリン・ルーズベルトの「中国びいき」の姿勢があったことも知っておくといいでしょう。

こうしてフランクリン・ルーズベルトは1941年12月8日、日頃から政治活動の際に巧みに活用していたラジオ演説を通じて、真珠湾攻撃はアメリカにとって最も屈辱の日と表現し、日本に対して宣戦布告を表明しました。このラジオ演説は6,000万人以上が聴き、ラジオ史上最も聴かれた放送だったと言われています。

無条約、対戦国という関係になった日米において、フランクリン・ルーズベルトは隠すことなく差別主義者(レイシスト)として振る舞い、日本を敵対視しました。その最たる例が「強制収容所」です。妻のエレノアが反対したにもかかわらず、ユダヤ人強制収容所と同様の制度を作り、日系人を収容して財産を差し止めました。また、原子爆弾開発の「マンハッタン計画」を支持し、国家プロジェクトとして承認しました。

フランクリン・ルーズベルトの行き過ぎたまでの敵対視は一部で問題扱いされましたが、ラジオを通じて「真珠湾を忘れるな!」というスローガンを繰り返し、アメリカ国民の感情を扇動して支持を受け続けました。ラジオを通じて国民に語りかけるように演説する様子は「炉辺談話(fireside chats)」と呼ばれ、戦争中も活用されました。

1944年の大統領においても共和党候補を破り、前例がない4選を果たしたフランクリン・ルーズベルトですが、1945年4月12日に脳卒中で倒れ、そのまま命を落としました。ドイツが降伏する1ヶ月前、日本が降伏する4ヶ月前の出来事でした。

ポイント1:世界恐慌からの脱却

フランクリン・ルーズベルトは世界恐慌の真っ最中に大統領に就任しました。1932年の大統領選では「1年以内にアメリカ経済を1929年以前の水準に戻す」ことを公約にします。就任後すぐにニューディール政策と呼ばれる公共事業の創出に着手して、1933年頃から景気(GDPや失業率)は回復傾向に向かいました。

一方で、アメリカが世界恐慌から完全に脱却できた直接的な理由はニューディール政策よりも、第二次世界大戦による「軍事特需」が大きかったと見る声もあります。いずれにせよ、1929年に始まり長く続いた世界恐慌から回復したのはフランクリン・ルーズベルトの功績が大きかったとされています。

ポイント2:第二次世界大戦

フランクリン・ルーズベルトはアメリカを第二次世界大戦に参戦させた人物です。当初は中立を貫くはずの立場でしたが、アメリカにとって重要な債務国だったイギリスが劣勢になったことから事態は大きく変わり始めました。イギリスが負けることは避けたかったアメリカは急遽、秘密裏にイギリス首相のチャーチルと大西洋上で接触して武器輸出の支援を約束しました。

さらに、日本からの真珠湾攻撃を受けて世論の支持を得やすい感情的な口実も手に入れたことから、参戦しない理由はなくなりました。フランクリン・ルーズベルトは1937年の時点で、日本が中国に侵略していることや、ドイツがフランスを敵視していることをたとえ話にして、疫病から健康体を守るために「疫病の原因を隔離」するという演説をおこなっています。意味深なこの演説は後に「隔離演説」と名付けられて波紋を呼びました。

フランクリン・ルーズベルトが第二次世界大戦に参戦することを決断した背景には、アメリカ経済への影響、真珠湾攻撃による国民感情の扇動、そして根強かった日本への排他意識があったと言われています。

ポイント3:日本への宣戦布告

フランクリン・ルーズベルトは1941年の真珠湾攻撃の翌日、ラジオを通じて日本に対して宣戦布告をしました。大統領職に就く前に海軍次官を務め「海軍びいき」だったフランクリン・ルーズベルトは、個人的にも船が大好きで、世界でも有数の船舶模型コレクターでした。アメリカ海軍に対する愛情は誰よりも深かったとされています。

そんなアメリカ海軍が真珠湾攻撃によって大きな被害を受けたことはフランクリン・ルーズベルトの個人的な怒りを買い、宣戦布告に繋がったと言われています。同時に日本に対する差別的な感情も増し(元々、差別主義者の傾向があった)日系人強制収容所や原子爆弾開発に弾みをもらたしました。

かつて、フランクリン・ルーズベルトが「この人の下で働きたい」と言った、先代の大統領であるハーバート・フーヴァーは、第二次世界大戦後に日本を訪れた際にGHQのマッカーサーに対して「戦争は狂人の欲望だった」とフランクリン・ルーズベルトのことを痛烈に批判しています。

まとめ

フランクリン・ルーズベルトは前代未聞の4期連続で大統領を務めた人物です。初期は世界恐慌からの回復に尽力し、後期ではアメリカの第二次世界大戦参戦を決定付けました。第二次世界大戦の終末を知ることなくこの世を去りますが、現代でもアメリカでは偉大な大統領として高く評価されています。

一方で、第一次世界大戦の時と同様に「例外的」理由で戦争に参加したことは、1823年以降続いたモンロー主義(ヨーロッパ諸国との相互不干渉)の存在意義をないがしろにしたという見解もあります。さらに、ドイツ、イタリア、日本の移民を差別する政策や、民間人の無差別虐殺を命じたことなどを理由に、フランクリン・ルーズベルトこそ戦争犯罪人とする声もあります。

アメリカ国内と諸外国では大きく評価が分かれる人物ですが、アメリカの国内問題に限らず国外問題においてもアメリカの大統領が主導的な役割を果たす、近代的な大統領の礎になった人物と言われています。

フランクリン・ルーズベルトに関する豆知識

・フランクリン・ルーズベルトはセオドア・ルーズベルトの姪と結婚し、結婚式にはセオドア・ルーズベルトが花嫁の父親代わりとして参加しています。
・12年間も大統領を務めたにもかかわらず、車椅子姿の写真は2枚だけしか残されていません。

本記事は、2019年12月19日時点調査または公開された情報です。
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32代大統領フランクリン・ルーズベルト
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