公務員になるための情報サイト

【日本の政策史その9】古代日本の外交「遣隋使・遣唐使」について

日本の政策史シリーズ第9回は、「「遣隋使・遣唐使」です。誰もが学校の歴史の授業で学習したことのある「遣隋使」と「遣唐使」について詳しく解説します。日本の古代の外交政策のねらい、そこから日本は何を手に入れたのか。遣隋使、遣唐使として有名なあの人物に注目です!

2017年07月21日更新

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
目次
遣隋使と遣唐使とは?
遣隋使や遣唐使が誕生した背景とは?
遣隋使・遣唐使について現代と照らし合わせて考察
まとめ
【日本の政策史その9】古代日本の外交「遣隋使・遣唐使」について

日本の近郊にある国々といえば韓国や北朝鮮、そして中国です。特に中国とはかなり昔からの付き合いになります。アメリカとの友好関係よりも遥かに古いのが日本と中国の関係なのです。

中国において三国が競い合っていた「三国志」の時代にも、日本の支配者は使者を中国に送っています。そして大国・中国の属国として認められ、日本における発言力を増し、豪族たちをまとめていったのです。これこそが歴史の教科書でもお馴染みの邪馬台国の卑弥呼です。朝貢した先は三国の中で最も領土が広く強かった魏という国です。卑弥呼はこの外交において「親魏倭王」の称号と印綬を得ています。

当時の日本と中国の関係は現代とは違い、対等なものではなかったというわけです。当時の中国から見ると、日本は海を越えた東の端にある島国で、属領にすぎないものでした。

そこから日本は驚異的な進歩を遂げていくことになります。
日本人の優れている部分は「勤勉であること」と、そして「他国の良い部分をどんどん吸収して自国の文化にしてしまう点」でしょう。これがあったからこそ、この小さな日本列島に住む私たちの祖先たちが世界中に注目されるような活躍ができたのではないでしょうか。日本人は「柔軟な考えができる」いうのがとてつもない強みになっています。

明治維新以降の日本もまた帝国主義の列強諸国から学び、大きく成長を遂げました。第二次世界大戦後もまたアメリカから様々なものを取り入れて先進国の仲間入りを果たしています。

その原点が「遣隋使」と「遣唐使」にあるのです。
それ以前の日本は、官僚制度も定まらず、力のある豪族が権力を握り専制する後進国同然でした。当時の聡明な官吏たちは、このままではどんどん諸外国に後れをとると懸念し、中国の体制や文化を積極的に学び始めます。こうして日本にとってまずはじめの大きな変化が訪れ、改革が行われるのです。

今回は遣隋使、遣唐使とは何のかに触れ、現代と照らし合せて考察していきます。

遣隋使と遣唐使とは?

遣隋使

遣隋使とは7世紀前半における日本と中国の外交のことです。
目的は先進国である中国から朝廷の制度や技術を学ぶことでした。日本を近代化するためには教えを乞う必要があったのです。この間に日本は十七条の憲法を制定し、冠位十二階を導入するなどして天皇を中心にした中央集権国家、律令国家の体制を着実に整えていきます。

日本はまだ倭国という名称で、中国は隋王朝でした。
推古天皇の時代、600年から618年までの18年間で5回以上遣わされています。

1回目は600年になりますが、日本書紀には記載されていません。隋書のほうに記載されています。

有名なのは2回目の遣隋使です。607年のことになります。小野妹子が国書を携えて隋の皇帝である煬帝に拝謁しています。遣隋使といえばやはり小野妹子でしょう。女性だと勘違いしている方もいるかもしれませんので触れておきますが、正真正銘、男性です。
国書にも有名なフレーズが書かれていますのでご紹介いたしましょう。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無しや 云々」

これを読んで煬帝は烈火のごとく怒りました。小野妹子はその煬帝からの返答の書を持ち帰ることになるのですが、紛失してしまいます。恐らく推古天皇には読ませられないような内容だったのではないかと推測されています。小野妹子は百済に奪われたことにして書面を抹消したのです。この件で小野妹子は流刑となりますがすぐに恩赦があり、政界に復帰、冠位十二階の最上位の大徳冠に就き、再び遣隋使として旅立つことになります。

それが608年の3回目の遣隋使です。小野妹子の他、八人の留学生が隋に向いました。
大化の改新前後に名前が広く知られるようになる高向玄理、旻、南淵請安らが留学生として名を連ねています。
618年に隋が滅び、唐が新しい王朝を開くことになり、遣隋使は遣唐使と呼ばれるようになります。

遣唐使

遣唐使は隋が滅び、唐が王朝を建てた後の630年より始まり、894年まで250年間以上に渡り続けられた日本と中国との外交です。
目的は遣隋使の頃と大きな違いはありません。唐から先進技術を学ぶこと、そして仏教の経典を持ち帰ることでした。

1回目の630年には遣隋使の最後の使者でもあった犬上御田鍬が大使に選ばれています。

3回目の654年には高向玄理が再び唐へ向かい、そのまま現地で病没しました。

8回目の702年には歌人として有名な山上憶良も遣唐使に選ばれています。

9回目の717年にはなんと557人も唐に渡りました。阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉などの面々です。高校で学習する日本史には名前が登場してきますね。

12回目の帰国の際、つまり754年には鑑真が来日を果たしました。

18回目の804年には最澄と空海が共に唐へ渡っています。

20回目の大使は菅原道真でしたが、唐の王朝が傾いている状態のため894年に菅原道真が停止を建議しています。

遣唐使が廃止になって後はしばらく表立った外交は日本と中国間では行われてはいません。鎖国のような状態になった日本は、この時期に国風文化が花を咲かせることになるのです。
そして武士の登場と共に日宋貿易が盛り上がっていきます。

遣隋使や遣唐使が誕生した背景とは?

遣隋使が誕生した背景

先進国の仲間入りをしたい日本は必死に隋の制度について学び、導入します。

1回目、600年の遣隋使の際には、使者が外交儀礼に疎く、国書も持っておらず侮られたと伝わっています。当時の朝鮮半島には百済や新羅、高句麗といった日本のライバル国がひしめいており、文化的な側面でもそれらの国に負けるわけにはいきませんでした。

蘇我馬子や聖徳太子らは慌てて、冠位十二階を定め、外交官の官位も正式なものとし堂々と外交に臨みます。

この時、日本としてはあくまでも中国(隋)と対等な外交を望んでいました。
そうはいっても中国側はそれを認めません。中国は古代から「天に二つの太陽がないように、地には二人の君主は並び立たない」という思想があり、他国との外交関係はすべて「冊封朝貢外交」になります。中国皇帝の正統を認めて貢ぎ物を捧げる(朝貢)代わりに中国皇帝がその地の支配権を容認する(冊封)関係です。

しかし国書において推古天皇は自らを天子と表し、隋の皇帝も同等の天子と表しています。隋の煬帝が怒ったのはこの点です。隋からすると東の島国などには従属しか認めなかったからです。

3回目の遣隋使に同行した留学生の高向玄理は、30年間以上中国に滞在した後に帰国し、大化の改新後に国博士に任じられています。旻も同じく国博士となりました。二人は共に渡来氏族です。特に旻は三国志の魏・曹操の息子である曹植の子孫といわれています。南淵請安もやはり渡来氏族です。30年以上滞在し、帰国した後は中大兄皇子や中臣鎌足の師を務めています。
隋との関係がややこじれた日本は、渡来人を遣隋使に送ることで修繕を計ったのではないでしょうか。
遣隋使の活躍で日本に制度や仏教、易学などが輸入され、日本は近代化していくことになるのです。

遣唐使が誕生した背景

相手が唐に代わっても日本のスタイルは大きく変わってはいません。日本はあくまでも対等な外交を望んでいます。しかしこちらは隋の頃以上に関係がこじれることになるのです。
それが663年の「白村江の戦い」です。唐は新羅と組み、百済を滅ぼしました。そして百済の援軍に向った日本とも戦うことになるのです。日本は敗れました。
戦後しばらく、唐の侵略に対して緩和を狙う使者が遣わされています。両国の関係修繕を目指したのです。やがて唐は新羅と争うようになり、日本は危機を脱することができました。

落ち着いた外交が再開されたのは702年の8回目くらいからでしょうか。
717年に唐に向った吉備真備は「経書」「史書」「天文学」「音楽「兵学」など多岐に渡る分野について学び、「経書」「日時計」「楽器」「音楽書」「弓矢」などを帰国してから天皇に献上しています。その功績があって、吉備真備は僻地の豪族出ながら右大臣にまで出世しています。同じ船に乗っていた玄昉もまた一切経5000巻の経典を持ち帰ってきています。
遣唐使は、唐の皇帝から授かった宝物を売ってまで書物を買い集めていたといいます。日本の近代化に貢献したいという志が高い人物ばかりだったのでしょう。
天台宗の開祖で比叡山延暦寺を建立した最澄や、真言宗の開祖で高野山金剛峰寺を建立した空海もまた同じように志をもって唐に渡った二人です。

当時はまだ羅針盤が発明されておらず、遣唐使らもどこに到着するのかわからないような状態です。渡航技術もまだまだ未熟な段階ですから命がけです。鑑真は日本に来るのに何度も難破していますし、そのために両目を失明しています。
阿部仲麻呂のように唐の皇帝・玄宗に気に入られて帰国することが叶わなかった者もいます。
このような遣隋使、遣唐使の貢献があってこそ、グローバル化に対応できる制度や文化が日本に根付いていったのです。

遣隋使・遣唐使について現代と照らし合わせて考察

明治維新の際には、アメリカで文化や産業、制度、武器を学ぶため、岩倉具視を特命全権大使に任じた岩倉使節団が送られています。彼らはアメリカの地でカルチャーショックを受けると同時に、新しい目標を見つけて燃え上がったことでしょう。そこには初代内閣総理大臣の伊藤博文の姿もありました。

どういうものを取り入れれば日本はもっと良くなるのか。何が日本には足りないのか。

遣隋使にしても遣唐使にしても岩倉使節団にしても、新しい視点や技術と共に熱意を高めて日本に戻ってきたのではないでしょうか。そしてそれを国に還元することで日本はさらなる成長を遂げてきたのです。これは現代で活躍する「海外のマーケットに進出する企業やビジネスマン」にも当てはまるのかもしれません。
その苦労、努力、パワーに敬意を表したいですね。

はたしてこれからの日本をさらに良くするためにはどこの国に遣いを出すべきなのでしょうか。
アメリカでしょうか。ロシアでしょうか。それとも昔のように中国なのでしょうか。
もしかするとこれからは逆なのかもしれません。今度は日本の志や平和を求める信念などを他国に輸出し広めていく番なのではないでしょうか。

「世界をもっとよりよくするために」という視野と行動が、今後の日本に求められているのかもしれません。

まとめ

日本の国土は広くはありません。産出できる資源も他国に比べると乏しいのは事実です。
そんな環境の中でなぜ日本はここまで立派な国に成長したのでしょうか。

それはきっと「人の力」です。新しいものにチャレンジする勇気、それを自分のものにするまで学習する勤勉さ、そして何よりこの国をよくしたいという人の想いが、日本をここまで発展させたのだと思います。

これから先の日本を考えてもやはり柱になるのは人の力ではないでしょうか。志を持った優秀な人材を育てることが日本の将来を支え、さらに発展させていくのです。そして世界をよりよく進歩させていくことでしょう。

遣隋使や遣唐使について改めて学ぶことで、今後の日本の「将来への取り組み」に対し、さらに熱意を込める機会になってくれれば幸いです。

(文:ろひもと 理穂)

公務員試験対策(教養・専門)に関するおすすめ記事

公務員カレッジに関する新着記事

ページトップ