「東ティモール」の人々と歴史

本記事では、21世紀最初の独立国となった、「東ティモール」の人々の歩みと歴史についてご紹介します。

はじめに – 「東ティモール」とは?

「東ティモール」は、オーストラリアとインドネシアを隣国に持つ人口約130万人(2018年現在)の小国です。16世紀前半から他国の統治下に置かれていましたが、3年に渡る紛争の末、2002年5月に念願の独立を果たしました。

「東ティモール」という国

「東ティモール」は、沖縄県から南に約5,000㎞に位置する島国です。小スンダ列島にあるティモール島の東半分とアタウロ島、ジャコ島、飛地オエクシで構成されています。

国土面積は、東京、千葉、埼玉、神奈川の首都4都県の合計とほぼ同じ約15,000k㎡。首都ディリは、「東ティモール」島の北岸に位置し、1769年にポルトガル領ティモールの首都として制定されて以降、変わらずこの国の変遷を見守り続けています。

2002年の独立以後は共和制を敷き、一院制を採用しています。農業が主要な産業となっており、特に輸出用作物としてコーヒーの栽培に力を注いでいます。また、貴重な国家財源として石油・天然ガス(ティモール・ギャップ)の開発を進めています。

「東ティモール」人とは

「東ティモール」は敬虔なキリスト教国で、人口の99%を超える人々がキリスト教(大半はカトリック)を信仰しています。マレー系言語であるテトゥン語とポルトガル語を公用語とし、さらには実用語としてインドネシア語と英語も併用しています。また多数の部族が共存しているため、それぞれの部族語も現在に至るまで継承されています。

民族的にはテトゥン族等のメラネシア系が大半を占め、その他マレー系、中華系、ポルトガル系を主体とするヨーロッパ人などが生活しています。

「東ティモール」は国民の約7割が30歳以下という若い力あふれる国です。2013年に導入された新しい教育制度では6歳から15歳まで、9年間の小中一貫を義務教育とする定められました。義務教育終了後は、3年間の高等学校を経て多くの青年たちは大学への進学を希望するようですが、独立から17年の月日が流れた現在でも、生徒数に対する学校の絶対数が足りておらず、特に地方では中等、高等教育まで受けられる子供達は限られているといいます。

「東ティモール」の歴史

紺碧の海に囲まれた美しい国、「東ティモール」は長い間他国の支配を受けてきました。首都ディリのあるティモール島は、もともとは「リウライ」と呼ばれる王たちが割拠し、王国が乱立していました。

しかし16世紀前半にポルトガル人が、甘い強烈な芳香を放つ樹木「白檀」を求めてこの地に来航したのを機に、ティモール島はポルトガルの植民地となりました。このティモール産白檀の貿易により、ポルトガルは莫大な富を得たと言われています。

17世紀半ばになると、当時インドネシアを植民地支配していたオランダが、ティモール島の西半分を占領。1859年には、地元住民の意思は顧慮されることはないまま、リスボン条約によってポルトガル領とオランダ領の境界が正式に決定されました。

現在インドネシアと「東ティモール」を隔てる国境線は、1916年に境界画定が行われた時のものです。第二次世界大戦中は、ティモール全島は日本軍が占領しましたが、終戦後はかつてオランダ領だった西ティモールはインドネシアの一部として独立し、「東ティモール」は再びポルトガルの支配下に置かれました。

しかし1974年になると、自国で起きたクーデターの後に発足したポルトガル新政権は、「東ティモール」の植民地支配を放棄することを決定。ここに400年に及んだポルトガル支配が終焉を迎え、「東ティモール」では独立の機運が高まりました。

待ち望んだ独立

ようやく手にした独立のチャンスでしたが、住民たちの考えはなかなか一つにまとまりませんでした。

翌年には内戦が勃発し、即時独立を訴えた「東ティモール独立革命戦線」が内戦を制し、「東ティモール民主共和国」として独立を宣言しました。ところがこの独立宣言から間もなくインドネシアが「東ティモール」に侵攻を開始し、1976年にはティモール島全体を自国の領土して併合しました。

インドネシアの侵略に対して国連は即時撤退を求めましたが、インドネシアが国連の求めに応じることはありませんでした。これに対して「東ティモール」の人々は激しく抵抗し、当時長期政権でインドネシアを支配していたスハルト大統領がぢ独立を訴える「東ティモール」の人々を徹底的に弾圧し、「東ティモール」の人口の約3分の1にも及ぶ国民を虐殺したと言われています。

1998年に民主化を求める学生運動をきっかけにスハルト大統領が退陣すると、後任となったハビビ大統領は「東ティモール」の独立を容認すると発表。1999年には独立を巡る住民投票が国連監視のもとに実施され、「東ティモール」住民の80%が独立を支持しました。

ところがインドネシアからの移住者など、独立に反対する少数勢力と独立支持者との間に武力闘争が勃発し、多数の犠牲者が出る事態に発展しました。混乱を沈静化させるために国連安全保障理事会が平和維持活動(PKO)の派遣を実施して少しずつ独立の準備を進めることを決議し、2002年には待望の独立を果たしました。

日本と「東ティモール」の関係

日本と「東ティモール」の関係は、第二次世界大戦の日本軍によるティモール島の占領に始まります。

戦後のインドネシアによる「東ティモール」併合の折には、日本は当時インドネシアの最大の援助国という立場だったにも関わらず、スハルト政権に対して国連の要請に従って即時撤退をするよう求めることもせず、この併合を容認していました。これは「東ティモール」の共産化を恐れたアメリカが、反共政策を掲げるスハルト政権を支持していたことに同調したものだとされています。

1999年に「東ティモール」独立投票が実施されると日本との外交関係は活発化。国連による暫定統治期間には、日本政府は「東ティモール」での平和維持活動に自衛隊を派遣し、また2002年に独立してからは、政治家による交流や日本からの経済支援などを通じて良好な関係が築かれています。

日本の軍事占領

第二次世界大戦中、日本軍は対オーストラリアの最前線としてティモール島を占領しました。「東ティモール」の人々は日本軍と連合軍との間の戦闘に巻き込まれると同時に、日本軍への協力を余儀なくされました。

この島を戦略的に重要な地域であると位置づけた日本軍は、現地の道路構築や水田開拓といったインフラ事業を積極的に行いました。日本軍の占領下にあった「東ティモール」では、人々は十分な食事が与えられないまま重労働を強いられ、深刻な飢餓と過酷な労働条件に耐える日々が続いたとされています。

敗戦を迎えると、日本軍は連合国側の意向を尊重して速やかに武装解除を済ませ、「東ティモール」の行政権をポルトガルに移譲しました。日本の軍事占領期間において多大な損害を被ったのは「東ティモール」の国民でしたが、「東ティモール」の人々のためにポルトガルが日本に賠償請求をすることはありませんでした。

日本の「東ティモール」支援

1999年に国連「東ティモール」暫定行政機構(UNTAET)が設立され、独立に向けた国づくりが進められると、日本はこの努力に対する支援を積極的に行いました。日本の支援は、復興開発や人道支援の他にも無償資金協力や技術資金協力など、現在に至るまで継続的に行なわれています。

「東ティモール」が独立を宣言した2002年5月20日、日本政府は「東ティモール」を国家として承認すると同時に、外交関係を樹立しました。外交樹立10周年を迎えた2012年には、「東ティモール」の経済活動活性化のための基盤づくりとして、対「東ティモール」国別援助方針を策定しました。

2013年度までに日本政府がこの取り組みの一環として行った諸々の活動に対する資金支援は、累計で約365億円に上ります。また、日本政府は国連の要請を受けて自衛隊や文民警察、さらには選挙監視団を派遣するなどして、「東ティモール」の平和の定着に貢献しています。

「東ティモール」人の日本人観

1999年以降、日本が継続的に「東ティモール」の平和の定着を目指した支援活動を行なっていることで、「東ティモール」の人々は全般的に日本、そして日本人に対してポジティブなイメージを抱いているそうです。当然日本軍が占領していた時代を生き抜いた人々の中には反日感情を持っている人たちもいることでしょう。またインドネシアの侵略を傍観した日本に対して、未だ強い不信感を抱いている「東ティモール」市民もいるという事実は否めません。

しかし青年海外協力隊などを通じて「東ティモール」を訪れる日本の青年たちの誠実な貢献活動は、地元の人たちに高く評価され、また車やバイク、農機などの日本製品の品質の良さに感心して日本 に好印象を持つという人も多いといいます。

これからの「東ティモール」

政治的には独立を果たしたものの、独立から17年が経った今なお、「東ティモール」では劣悪な経済状況が続いています。

政治情勢を安定させ、経済を立て直すことができるのか、政治・経済・軍事の3つの観点から、「東ティモール」の現在の姿と未来を検証してみましょう。

「東ティモール」の政治

「東ティモール」の国家元首である大統領は直接投票により選出されます。任期5年の大統領の権限は、国家と独立の象徴的な役割を果たすにすぎません。

大統領の実権は軍事に関しては宣戦布告・非常事態宣言の発出等、そして外交については安全保障に関するもののみに限られています。また行政府の長である首相は,議会での選出後に大統領によって任命されます。

立法府は一院制の国民議会で現在は65の議席から成ります。2018年の国民議会選挙で「発展のための革新連合(AMP)」が過半数を獲得し、タウル・マタン・ルアク前大統領を新首相とする第8次立憲政府が発足しました。ルアク首相は首相就任の挨拶の中で、国家の団結と軍事力強化の重要性を訴えました。

また外交においては、ASEAN正式加盟を目指して取組を続けています。

「東ティモール」の経済

「東ティモール」では天然ガスと石油開発が2004年以降本格化し、今では例年国家歳入の約 9 割を資源収入に依存しています。

しかしながら2014 年 9 月に石油価格が低迷したことを受けて歳入は減少し、今後さらに減少することが予測されています。「東ティモール」政府はこの事態を重く受け止めて、2030年までに石油とガスに依存する経済構造から脱却して経済の多角化を図ることを、持続可能な経済構築の最大目標の一つとして掲げています。

また天然資源以外の輸出ではコーヒーが国の輸出品の約9割を占めていることから、この点においても更なる輸出商品の開発や農産加工産業を育成するなどして、多方面から国内歳入を増やしていくよう努力することが急務とされています。

そして新しい産業を生むことにより、若者の失業率が現在60%以上とも言われる「東ティモール」の雇用拡大に繋がるのではと期待されています。

「東ティモール」の軍事

「東ティモール」防衛軍は外部の脅威から自国を守るために2001年に設立されました。防衛軍は国家警察と同様に国内保安の任務も担っており、現在陸軍新兵の雇用や海軍装備・兵員の増強、そして将来の空軍創設に向けた要員育成等を中心に国軍の発展を目指しています。

日本政府は防衛省・自衛隊による能力構築支援の一環として、「東ティモール」への自衛官派遣や、防衛大学への「東ティモール」人留学生の受け入れなどを通じて、二国間の関係強化に努めています。

またこの取り組みによってアメリカやオーストラリアなど、他の「東ティモール」支援国との関係を強化することで、国際安全保障環境の安定を図るものだとしています。

「東ティモール」の魅力

「東ティモール」の魅力は、なんと言っても手つかずの大自然に触れられることです。

「東ティモール」の最東部に位置する「ジャコアイランド」は、青い海と白い砂浜が印象的な美しい島。この島を囲む海は透明度が高くサンゴ礁が生息していることでも知られています。さらに「東ティモール」ではのどかな山岳地や丘陵地の美しい景色を随所で目にします。

最近では国として観光に力を入れていることもあり、オーストラリアや日本からの観光客が訪れるようになりましたが、まだまだ観光地としての知名度は低く、都会の喧騒を忘れてたっぷり自然の美しさに浸ることができる魅力溢れる国です。

まとめ

以上、「「東ティモール」の人々と歴史」でした。

アジアで最も若い国である「東ティモール」には、インフラ整備、国家体制・制度の整備、そして国づくりを担う人材の育成と、重要な課題が山積みです。これらの課題にどのように向き合っていくのか、そしてこれからこの国がどのような発展の道を歩んでいくのか、暖かく見守っていきたいものです。

本記事は、2020年7月6日時点調査または公開された情報です。
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