【頻出歴史問題】室町幕府とは?鎌倉幕府の滅亡から建武の新政、新幕府まで

公務員採用試験の頻出歴史問題「室町幕府」についての解説ページです。鎌倉幕府に次ぐ武家政権の「室町幕府」。足利尊氏や足利義満、勘合貿易や鹿苑寺の金閣などは有名ですが、その誕生の背景はあまり知られてはいません。今回は鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、そして室町幕府の成立をご紹介していきます。

鎌倉幕府が誕生したことで、政治の主導権は、公家でも天皇でも上皇でもなく、鎌倉にいる征夷大将軍ならびに執権に移りました。長期の武家政権となりますが、やがて執権を継ぐ北条氏の得宗の専制政治が行われていき、鎌倉幕府は少しずつ傾いていくのです。

1274年に文永の役、1281年に弘安の役と立て続けに元が日本に攻め寄せました。御家人は実費で戦争への参加を義務付けられています。このときの日本は、気候の悪化による暴風雨、台風に救われ、元を退散させることに成功しました。しかし領地など得るものがなく、御家人たちに満足な褒賞を与えることができませんでしたから、御家人たちは困窮していきます。そこで鎌倉幕府は御家人救済のために1297年、徳政令を打ち出します。所領を元の持ち主に無条件で返すという法令です。これは一時しのぎの政策に過ぎませんでした。御家人の貧困化は、分割相続性や貨幣経済に翻弄されたものであり、根本的な解決にはならなかったのです。

ひっ迫する御家人たちは鎌倉幕府ではなく、守護に頼み込むようになります。守護はそういった御家人を自勢力に取り込み、土地を与えました。こうして幕府への反発とともに守護が大きな力を手に入れていくことになります。

後醍醐天皇とはどんな人物?

度重なる倒幕計画

後醍醐天皇は鎌倉幕府の信頼が低下している今がチャンスと倒幕を計画します。しかし1324年には情報が漏えいし日野資朝が処分されています。これが「正中の変」です。さらに1331年にも倒幕を画策します。「元弘の乱」です。今度は幕府軍に攻められて敗北し、後醍醐天皇は廃位され、隠岐の流刑となりました。

それでも後醍醐天皇の倒幕の思いは消えず、1333年にも挙兵します。ここでは幕府軍の主力である足利高氏も寝返って後醍醐天皇側につき、六波羅探題を落とします。鎌倉幕府の本陣は新田義貞が攻略しました。得宗家の北条高時は自害し、ここに至り鎌倉幕府が滅亡したことになります。

建武の新政

このころの天皇の即位は「大覚寺統」と「持明院統」の両統から交互に輩出する決まりになっていました。後醍醐天皇は大覚寺統傍流であり、退位した後に院政を行うことができません。後醍醐天皇はこの両統と対立していくことになります。鎌倉幕府を滅ぼした後は、幕府の指示で即位した光厳天皇を廃位し、関白・摂政も置かず、親政を進めていきます。

これが「建武の新政」です。独断専行の後醍醐天皇の政治は多くの反発を招きました。恩賞も不公平で、既得権を侵害するために訴訟が増加し、その対応に対しても世間は失望します。後醍醐天皇はそんな中で大内裏建設のための増税、貨幣発行などを実施し、経済も混乱させます。

足利尊氏とはどんな人物?

後醍醐天皇の倒幕に加担

足利氏の本姓は源氏で、鎌倉幕府が成立してからは御家人、さらに一門衆同然の家格である御門葉の一角を担っています。九つある御門葉のほとんどの家が将軍家を脅かす存在になることを恐れて潰されていくなかで、足利氏は執権を務める北条氏と強いつながりを保って生き残りました。

足利尊氏は、得宗である北条高時の偏諱を受けて足利高氏と名乗っていました。1331年には家督を引き継ぎ、鎌倉幕府の命令で、倒幕に立ち上がった後醍醐天皇を撃破しています。1333年に三度立ち上がった後醍醐天皇に今度は味方することを決断し、鎌倉幕府に対して反旗を翻して六波羅探題を攻略します。このとき鎌倉幕府は新田義貞の反乱によって滅んでいます。勲功第一は足利高氏となり30箇所の所領を得、名前も後醍醐天皇から偏諱を受けて「尊氏」に改名しました。

南北朝への分裂

鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が主導する建武の新政が始まります。足利尊氏は要職には就いていません。1335年に信濃国で北条氏の反乱が発生すると、足利尊氏は「征夷大将軍」の官職を望みましたが叶いませんでした。反乱を起こした北条氏を鎮圧すると、足利尊氏は鎌倉で勝手に恩賞を与え始めます。後醍醐天皇は足利尊氏追討の命令を下しました。一端は隠居を決めた足利尊氏でしたが、弟・足利直義が劣勢になるとこれを救うために出陣。一時は京都を落とすものの、新田義貞や楠木正成らに大敗し、九州に落ち延びます。

1336年に勢いを盛り返し、湊川の戦いにおいて新田義貞と楠木正成を破って京都を制圧しました。ここで後醍醐天皇とは和議を結び、光厳上皇の弟の光明天皇が新たに即位します。さらに「建武式目」という政治指針を打ち出し、足利尊氏は源頼朝と同様に大納言に任じられました。

しかし後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野に逃れて南朝を樹立しました。北朝では1338年に足利尊氏は光明天皇のもと征夷大将軍に任じられています。1349年には政務や裁判を取り仕切る足利直義と足利尊氏の補佐役である高師直が対立。足利直義が出家し、政務を退くことになりました。これらの内部抗争を「観応の擾乱」と呼びますが、足利尊氏は優柔不断でどちらにもいい顔をしていたといいます。

1350年には足利直義が京都を脱出し、南朝に降伏します。中国地方に遠征していた足利尊氏は帰京しますが、足利直義派に大敗します。足利尊氏は高師直の出家・流罪を条件にして和議を結びました。このように足利尊氏は敵と味方がはっきりしません。これまで敵だった勢力の味方をしたり、味方が敵になったりしているのです。戦いでも何度も敗戦しています。敗戦するとすぐに切腹しようとしていたという記録も残っていますし、どんな危機的状況でも微笑みが絶えなかったとも伝わっています。カリスマ性はあり、戦にもそれなりに強かったようですが、政治センスはまったくなかったというのが後世の評価です。

こうして日本史上では類を見ない「京都の北朝と吉野の南朝」の二朝が並立する時代を迎えることになります。明治時代には南朝を正統とする史観が定着し、それに背いた足利尊氏は逆賊の扱いとなりました。この考え方は江戸時代に始まり、徳川光圀を創始者とする水戸学から発しています。1392年三代目将軍・足利義満の斡旋により、南北朝は和解し合体しました。

室町幕府が誕生した背景とは?

支配力の不足を守護大名によって補う

室町幕府は武士の圧倒的な支持や人気を得て誕生した政権ではありません。腐敗した鎌倉幕府の得宗政治や混乱を招いた建武の新政を嫌悪した結果、樹立された武家政権です。ですから将軍と各地の武士の間に御恩と奉公の関係が成立していません。つまり鎌倉幕府よりも土台がしっかり固まっていない政権といえるでしょう。

そこで権力を増すことになったのが各地の守護です。守護は鎌倉幕府の時代には大番催促(警護)、謀反人などの検断が役目であり、国司の行政に関与できないことになっていました。室町幕府になってからは、大犯三ヶ条の検断権の他に刈田狼藉の検断権も加えられます。さらに使節遵行権、半済給付権を得て、守護は領国の行政に介入するようになり、国司を被官化していきます。守護は、監督するだけの立場から領国を支配する力を手に入れたのです。そのため室町時代の守護は、鎌倉時代の守護と区別するために「守護大名」と呼ばれます。室町幕府はこの守護大名に支えられて成り立っています。守護大名の連合政権ともいえるのです。

鎌倉幕府の機構を踏襲

1336年に足利尊氏は基本施政方針として「建武式目」を制定し、足利氏が鎌倉幕府の正統な後継者であるということと共に、鎌倉幕府の北条義時・泰時の政治を目標とするとして記しています。ですから職制は鎌倉幕府の組織形態をそのまま踏襲しているのです。そもそも具体的な法令はあくまでも鎌倉幕府時に制定された「御成敗式目」だったそうです。これに追加法令があるときは「建武以来追加」と呼びますが、実際は御成敗式目の項目に追加、修正していたとされています。

当初は将軍・足利尊氏のもと、政務・裁判を取り仕切る足利直義、将軍を補佐する執事・高師直の「二頭政治」を行っていましたが、確執が生まれて観応の擾乱を引き起こしています。その後も執事の座を巡る対立が発生したため、将軍の一元政治となっていますが、二代目将軍・足利義詮が亡くなる際に幼い三代目将軍・足利義満の後見役として細川頼之が正式に「管領」に任じられています。ここから管領は絶大な力を有するようになります。鎌倉幕府の執権と同じような役割です。

鎌倉幕府と室町幕府の大きな違いは拠点が鎌倉なのか京都なのかという点にもあります。室町幕府は関東を支配するために、「鎌倉公方」を設置しています。こちらは足利尊氏の子、足利基氏が代々世襲していくことになります。さらに鎌倉公方を補佐するのが「関東管領」です。戦国時代には上杉謙信が関東管領に任じられていますね。やがて鎌倉公方は京都の室町幕府と対立していくことになり、それが関東騒乱に発展していくのです。

室町幕府について現代と照らし合わせて考察してみよう

室町幕府の財源は税収ということになります。商人には特権を認め保護し、営業税を徴収しています。江戸時代には株仲間などが問題となり、改革によって廃止されたりしていますが、こちらの税収がなくなると財政がより厳しくなっていますね。貴重な財源だったわけです。港には「津料」、関所には「関銭」といったように税金を課しています。さらに直轄地である御料所からの収入がありますが、こちらは守護大名などの台頭や応仁の乱などの荒廃によって減少していったようです。

三代目将軍・足利義満は「日明貿易」を積極的に進めています。こちらの貿易交渉には「勘合符」というものを用いていたことから「勘合貿易」とも呼ばれています。足利義満は「抽分銭」と称して貿易での売り上げ相場の1割を税金として納めさせています。足利義満の時期が室町幕府の最盛期であり、邸宅が北小路室町にあったことから「室町殿」とも呼ばれていますが、これが「室町幕府」の名称になったそうです。足利義満将軍期の「北山文化」の象徴である「鹿苑寺(金閣)」は有名ですね。

しかし、地方の守護大名の領国支配が強まるにつれて将軍の権威は失墜し、統治力は下がっていきました。そして管領の家督争い、将軍の後継者を巡る問題から全国を騒乱に巻き込む「応仁の乱」に発展していくことになるのです。ここでさらに力を得た守護大名や、それを追放した守護代などが「戦国大名」として独立していきます。そして室町幕府は、そんな戦国大名の一人である「織田信長」に滅ぼされることになるのです。

政治のリーダーシップは大きく変化していきました。「公家が中心」となる「摂関政治」から、「上皇・法皇が中心」となる「院政」に変わり、さらに「平氏・源氏が中心」の「武家政権」が誕生し、そして「能力のある武士が中心」となる「戦国時代」に突入していくことになります。

世相を反映し、ニーズに合った者が政治の主導権を握る。これはいつの時代でも同じなのかもしれません。前者の失政を次の成功に繋げていくのが時代のリーダーの役目なのでしょうが、現実はそう簡単にはいかないようですね。新しい問題も次々と生まれてきます。そんな政治の難しさを室町幕府は物語っているようにも思えてきます。

(文:ろひもと 理穂)

本記事は、2017年7月21日時点調査または公開された情報です。
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