公家文化と武家文化の融合・室町文化(北山文化・東山文化)

日本には歴代、いろいろな文化に名称がつけられています。有名なところでは江戸時代の「元禄文化」「化政文化」があげられますが、実は「室町文化」でも素晴らしい作品がたくさん生まれており、新しい価値観が誕生しているのです。今回は室町時代を代表する「北山文化」「東山文化」をご紹介いたします。


日本の歴史を紐解いていくと、その時代の特徴を背景にした文化が誕生し発展していることを知ることができます。古くは天平文化や国風文化、江戸時代の元禄文化や化政文化などに分けられます。

室町幕府が存在していた1336年から1573年にかけて公家や武家を中心に広がっていた文化を「室町文化」と呼びます。中でも14世紀後半に栄えたのが「北山文化」、15世紀後半に栄えたのが「東山文化」です。二つを分けて呼ぶようになったのは昭和の時代になってからといわれています。

文化の定義は様々あるようですが、ある社会組織に共有されている「価値観」や「思考」、「信念」「振る舞い」などを意味しています。時代背景によって価値観は変わってきますし、思考も変化してきます。特に平和な時代と戦乱の時代、潤っている時代と飢えている時代では大きく異なってきます。

室町文化の中心はやはり政治の舵取りをしていた室町幕府でしょう。室町幕府が中心となって新しい価値観を生み出していくのです。室町幕府は鎌倉幕府に続く武家社会です。室町文化で華を開いた武家文化が、やがて安土桃山文化、江戸文化を通じて確立されていくことになるのです。

鎌倉時代末期の混乱は終結し、平穏を迎えた室町時代ですが、北山文化と東山文化の間には、日本全土を戦乱に包み込んだ「応仁の乱」が起こっています。この応仁の乱が北山文化と東山文化に違いをもたらすことになるのです。

今回は室町文化を分ける北山文化と東山文化について、その時代背景と共に考察していきます

北山文化とはどのような文化なの

主役・足利義満とはどのような人物なの

室町幕府第三代将軍が足利義満です。南北に分かれた朝廷の統合を果たし、室町幕府の最盛期を築きました。邸宅が北小路室町にあったことから室町殿と呼ばれ、ここから後に室町幕府と呼ばれるようになったそうです。まさに室町時代を代表する将軍ですね。

足利義満は「明」に対しての憧れが強く、正式な外交を望んでいましたが、天皇の臣下という身分のために拒絶されています。そのために足利義満は太政大臣を辞して出家しました。そして明より日本国王として認められ、朝貢貿易ともいえる勘合貿易が始まったのです。ここで後世の歴史家たちの憶測を呼ぶことになったのが、足利義満による皇位簒奪の画策と、それを阻止するための暗殺説です。足利義満は51歳にして毒殺されたともいわれているのです

北山文化の特

北山文化の特徴はやはり絢爛豪華でしょう。足利義満は公家の文化を受け継ぎつつ、そこに武家の新しい文化を融合していくのですが、鹿苑寺金閣に代表されるようにまさにその規模は御所に匹敵するものになっています。

なんといっても北山文化は足利義満の権威が中心になりました。足利義満のアイディアが活かされ、人選されたものは絶大な出世を勝ち取っています。足利義満に保護された禅宗の臨済宗の相国寺は、開基(創始者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石が務めています。五山文学で有名な義堂周信も絶海中津も夢窓漱石の弟子あり、水墨画で著名な如拙と周分は共に相国寺の出身です・足利義満に認められた猿楽の観阿弥、世阿弥の親子もまた足利義満が見つけ出し。庇護することになりました。その伝手で世阿弥は公家の二条良基から連歌の指南を受けることができたのです。

足利義満を中心にした華やかな文化といったイメージが北山文化にはあります。また朝廷も含め公家たちも足利義満に圧倒されている雰囲気も感じます


北山文化の代表

北山文化の象徴・鹿苑寺金

北山文化の象徴ともいえるのは、足利義満の邸宅であり、政治中枢が集約されていた北山山荘でしょう。金箔が張り巡らされている時点で世間を唖然とさせる趣向ですが、一層は公家風の寝殿造、二層は住宅風で三層は禅宗與様です。まさに公家と武家と明と禅宗の融合建築物です。足利義満の権力がどれほど絶大だったのかを物語っています。

応仁の際には西軍の陣とされて多くが消失していますが、江戸時代になると本格的に復興されています。1950年にも放火により焼失しており、1955年に再建されて、1994年にはユニスコの世界遺産に選ばれています。消失前と跡では二層の屋根がちがっていますね

能と狂

踊りで流行だったのは「田楽」でしょう。平安期から農民中心に脈々と受け継がれており、能楽の源流ともよばれています。これと競い合ったのが「猿楽」です。猿楽は能楽の母体とも呼ばれています。寺社の保護を受け、座としてイベント時に活躍しています。大和猿楽結崎屋の猿楽氏は興福寺の保護を受けていましたが、足利義満は今熊野で催された猿楽能を観て痛く感動しました。それ以降、足利義満はこのときの猿楽師である「観阿弥」「世阿弥」を庇護することになり、猿楽が世間に広く認められていくことになるのです。このときの世阿弥は12歳でした。

「狂言」もまた猿楽より発展したものです。猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇になります。能楽や狂言が公家社会にも認められ、武家社会にも受け入れられたことで、この後の安土桃山文化、江戸文化の中で発展していくことになります

水墨画と五山文

日本風の「水墨画」も少しずつ完成に近づいていきます。東福寺の明兆をはじめ、室町幕府に保護された臨済宗から如拙、周文と登場してきます。相国寺の如拙は国宝に指定されている「瓢鮎図」の作品で有名です。同じく相国寺の周文は室町幕府の御用絵師として活躍し、雪舟などを育成しています。

先ほどもお伝えしたように臨済宗相国寺は開基が足利義満、開山が夢窓疎石です。京都五山の第二位で、鹿苑寺も臨済宗相国寺派になります。臨済宗は禅宗であり、悟りを開くことを目的にしています。いろいろな手段で悟りの境地を表現することができ、座禅や公案の他、建築や絵画、詩でも悟りを表現しようと工夫されるようになります。臨済宗が北山文化に強い影響力を与えたのです。

この時期に注目を集めた「五山文学」とは漢文学です。夢窓疎石の弟子たちが有名で、相国寺建立を足利義満に進言した義堂周信や、五山文学の頂点を極めたとされる絶海中津が有名です。

軍記物語と連歌

軍記物語では、40巻に及ぶ長編「太平記」が最も広く知られています。南北朝の戦乱の中、楠木正成を中心とした武士としての儒教的価値観をテーマにした作品になっています。

連歌も公家中心に最盛期を迎えています。邸宅などでは連歌会が開かれるのがブームとなりました。中でも摂政・関白・太政大臣を歴任している二条良基が有名で、1356年には「菟玖波集」の撰を行っています。二条良基は世阿弥に連歌を教えていたともいわれています。

東山文化とはどのような文化なのか

主役・足利義政とはどのような人物なのか

室町幕府第八代将軍が足利義政です。あまり治政に関心を示さず、建築や猿楽に執着していた面があります。1461年には京都も大飢饉に見舞われ、賀茂川が餓死者で流れが止まったほどでしたが、足利義政は意に介さずに花の御所の改築などを行っています。

男子に恵まれず弟の足利義視を後継者にしましたが、その後に正妻の日野富子が足利義尚を生み、後継者争いが勃発。足利義視は守護大名の細川勝元に協力を仰ぎ、日野富子は山名宗全に協力を仰ぎました。この政争劇が全国に広まり1467年から応仁の乱が起きます。

中立を貫いていた足利義政でしたが、細川勝元に将軍旗を託したり、細川勝元と山名宗全が没した後は足利義尚を後継者に定めるなど二転三転しています。将軍職を譲った後は隠居し、1482年より東山に山荘を建築し始めます。これが後の慈照寺銀閣です。足利義政は銀閣の完成を見ることなくこの世を去ります。

東山文化の特徴

足利義満が取り入れた公家文化と武家文化、そして禅宗を融合した文化が定着したのがこの時代です。そして全国に急速に拡大していくことになります。原因は応仁の乱でした。こちらの戦乱を避けるために文化人の多くが地方の有力守護大名の庇護を受けるべく京都を離れたのです。そのために文化が地方に伝播していくことになります。

絢爛豪華な北山文化とは対照的に、東山文化で重んじられたのは「わび」「さび」そして「幽玄」です。豪勢な見た目ではなくても、物事の趣はその奥深さにあるという美意識です。禅宗の影響がさらに色濃く出ていると思われます。美的感覚が変化したのがこの東山文化の特徴といえるでしょう。

東山文化の代表

東山文化の象徴・慈照寺銀閣

鹿苑寺が足利義満の山荘だったように、慈照寺も足利義政の山荘です。相国寺派であり、開基は足利義政、開山は夢窓疎石です。当然故人なのですがこのような開山を勧請開山と呼びます。


一層は書院造です。二層は禅宗様になっています。慈照寺の東求堂は、足利義政の書斎であり、茶室の起源ともいわれています。こちらもまた書院造りです。共に国宝に指定されており、世界遺産にも登録されています。

庭園と絵画

悟りやわび・さびを表現するものとして庭園があげられます。龍安寺の方丈庭園が有名です。細川勝元が創建した禅寺です。「枯山水」の石庭の代表格になります。15の大小の石が置かれていますが、どの方向から見ても必ずどこか一つの石が見えないように設計されています。他にも大徳寺の大仙院庭園があります。こちらも枯山水庭園の代表で、滝と河、橋や舟を石で表現しています。まさに絢爛豪華とは対極です。

絵画では狩野派の祖である狩野正信が御用絵師となっています。国宝「周茂叔愛蓮図」が有名です。九州国立博物館にはその他、重要文化財の「山水図」も展示しています。また、大和絵で注目を集めた土佐光信も宮廷絵所預として活躍しています。肖像画も高い評価を受けています。さらに水墨画では国宝「秋冬山水図」「天橋立図」といった数々の作品で神格化されている雪舟も登場しています。雪舟は相国寺で修業した後は周防国に移り、大内氏の庇護を受けています。室町文化を代表する人物といえるでしょう。

茶道と華道

臨済宗の一休宗純を師事していたとされる村田珠光はわび茶の祖とされています。茶禅一味を体得し、足利義政の茶道の指南役だったとも伝わっています。ここから安土桃山時代、江戸時代と茶道は確立されていくことになるのです。

華道では京都六角堂の池坊と呼ばれる僧侶たちが確立したといわれています。巧みな立花で有名になったのが池坊専慶です。江戸時代にかけて大成されていきます。

まとめ

こうして室町時代に誕生した文化は、そのほとんどが現代にも通じています。また、室町文化には国宝級、世界遺産級の作品、建築物が多数登場しました。日本の文化を語るうえで室町文化は重要な要素を占めているといえるでしょう。

また日本全土を戦乱に巻き込んだ応仁の乱ですが、そのために中央で栄えていた文化が地方に散っていた点も見過ごすわけにはいきません。こうして地方の文化も興隆していったのです。

鎌倉時代や安土桃山時代に比べ、あまりスポットを浴びることの少ない室町時代ですが、文化の面に注目すると飛躍的に向上し、洗練されていることに驚きます。ぜひこの目でこれらの実物を確かめておきたいですね。

(文:ろひもと 理穂)

本記事は、2017年11月5日時点調査または公開された情報です。
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