京都への遷都、新興仏教の台頭、そして漢詩ブームの弘仁・貞観文化とは

公務員採用試験の試験科目「歴史」シリーズ、今回は「平安時代前期」に盛り上がった文化についてご紹介いたします。「天平文化」と「国風文化」の間にあたるこの文化を「弘仁・貞観文化」とも呼びます。都は奈良から京都に移り、それとともに新しい仏教が誕生した時期のことです。


新興仏教「密教」の台頭

平安京への遷都は何のために行われたのか

奈良を中心に、仏教文化として飛鳥・白鳳・天平文化が花を開かせることになりましたが、一方で朝廷や政治に僧侶が強く干渉するようにもなっていきました。

764年の藤原仲麻呂の乱の後に権力を握った法王・道鏡は、称徳天皇の寵愛を受けて出世します。道鏡は「南都六宗」の一つである「法相宗」の出身であり、仏教理念に基づいた政策を主導していきました。

法相宗は興福寺や薬師寺で学ばれており、東大寺では華厳宗、唐招提寺では律宗などが学ばれています。これらは「奈良仏教」とも呼ばれています。道鏡が僧侶の身で朝廷を牛耳っただけでなく、天皇の座も狙ったことで大きな問題となりました。

道鏡の野望は和気清麻呂の英断によって阻止されましたが、その後、桓武天皇は奈良仏教の政治への干渉を抑えるために「遷都」を決断しました。784年には京都の長岡京へ遷都しましたが、天災などによりさらに794年、京都の「平安京」に移ることになるのです。

そして桓武天皇以降も奈良仏教への警戒は続きます。嵯峨天皇は奈良仏教に替わる新しい仏教として、「天台宗」と「真言宗」を擁護しました。そのため、この二つを「平安仏教」とも呼びます。

天台宗の「最澄」は奈良仏教への対抗意識が強かったようで、法相宗と論争も引き起こしています。真言宗の「空海」は奈良仏教に対して融和的な姿勢であったとされています。

奈良から京都に遷都したことにより、仏教文化も大きな転換期を迎えることになりました。さらに貴族の間には、排仏思想の要素を持った儒学を勉強する文化も新たに誕生していくことになります。

天台宗開祖である最澄(伝教大師)

「最澄」は、19歳で東大寺において正式に僧として認められ、788年には滋賀の比叡山に一乗止観院を建立します。これが最澄の没後、「延暦寺」と名付けられ、京都の鬼門を守護する役目を担うことになるのです。

最澄は法華経を主に研究し、804年には「遣唐使」として天台山で天台教学を学びます。他にも戒律や密教、禅についても教えを受けて帰国。「天台宗」を開いています。最澄は総合仏教の構築を目指しており、密教について知識不足の部分を「空海」に教えを受けています。天台宗の密教は「台密」と呼ばれています。

総合仏教の目指した天台宗からはその後、多くの宗派の開祖を生み出しました。「浄土宗」の「法然」、「浄土真宗」の「親鸞」、「禅宗」では「臨済宗」の「栄西」や「曹洞宗」の「道元」、そして「日蓮宗」の「日蓮」らがこの天台宗から羽ばたいていくことになります。やや不完全であった密教についても最澄の弟子の「円仁」、「円珍」らが補完しました。

当時は正式な僧になるための戒壇は全国に三箇所しかなく、最澄は自身の寺に「大乗戒壇」を設立したいと活動しています。そのため奈良仏教との確執が生まれ、815年には大安寺で直接論争も行いました。著書の「顕戒論」で反論もしています。戒壇設立が認められたのは最澄の没後のことでした。最澄の活動は認められたのです


真言宗開祖である空海(弘法大師

「空海」は31歳ごろに東大寺において正式に僧に認められたといわれています。すでに天皇の護持僧として有名であったエリートの「最澄」とは異なり、無名の状態で804年に遣唐使として唐に渡り、青龍寺で「密教」について学びました。

密教の法具や「曼荼羅」を譲り受けて帰国、816年には和歌山の高野山に「金剛峰寺」を建立することを嵯峨天皇に認められました。しかし山奥ということもあり工事ははかどらなかったようです。

823年には京都の「東寺」を嵯峨天皇より下賜され、ここを「真言宗」の道場としました。空海の没後には、東寺を真言宗の本寺、金剛峰寺を末寺と定めています。東寺は「教王護国寺」とも呼ばれています。

空海は能書家としても有名で、「弘法も筆の誤り」ということわざが伝わっています。どんなに上手な人でも間違いはあるという意味です。嵯峨天皇、橘逸勢らと共に「三筆」の一人に数えられています。漢詩においても才能を発揮していますが、こちらは後述します。

漢詩ブーム到来

勅撰漢詩集の編纂

唐では李白や杜甫などによって「漢詩」が大成していました。それが遣唐使らによって日本にもたらされ、日本でも漢詩が一大ブームを巻き起こします。漢詩集としては嵯峨天皇や淳和天皇の命によって編纂された「勅撰三集」が有名です。こちらでは、淳和天皇や良岑安世など、三集にまたがって掲載されている例もあります。

まず第1弾として、814年に小野岑守らによって編纂された勅撰漢詩集が「凌雲集」です。平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇などの作品が掲載されています。第2弾は、818年、藤原氏の氏の長者である北家の藤原冬嗣らが「文華秀麗集」を編纂しています。そして第3弾として、827年には淳和天皇の命によって良岑安世らが「経国集」を編纂しています。こちらには天平文化を代表する文人二名、石上宅嗣と淡海三船の詩が掲載されています。

空海と漢詩

経国集に八首掲載されているのが空海です。文人としても名を馳せており、勅撰漢詩集を編纂し、自身の作品も掲載されている小野岑守や良岑安世とも親交があったと伝わっています。

そんな空海の漢詩の文学理論書が「文鏡秘府論」です。創作内容がほとんどないために編纂者という扱いをされることがあります。どちらにせよ空海が漢詩にも精通していたことは間違いありません。

空海の漢詩集として有名なのが「性霊集」になります。良岑安世がこの世を去ったときに贈った詩も掲載されています。こちらは空海自身がまとめたものではなく、弟子である真済が書き留めて編纂したものであるとされています。

書においては「風信帖」が有名で、東寺に保管されている国宝です。空海が最澄に送った達筆の書状です。最澄が空海の弟子に送った書状「久隔帖」もまた国宝に指定されています。実際は空海に向けた書状だったのではないかという説もあります。

教育機関の誕生

仏教以外の学問を貴族が学ぶための寄宿施設も登場し始めます。「大学別曹」と呼ばれる教育機関です。最も重要とされた科目が漢詩や中国史を学ぶ「紀伝道」でした。他にも法律を学ぶ「明法道」、儒学を学ぶ「明経道」、数学を学ぶ「算道」などのカリキュラムが用意されています。

唐の儒学者の排仏思想といった流れを汲んで設置されているために、当初は仏教とは距離を置いていましたが、国風文化の頃になるとその垣根もなくなっています。

有名な大学別曹には、和気氏の「弘文院」があり、和気清麻呂の息子である和気広世が設立しましたが。こちらは謎に包まれている部分も多々あります。和気氏が勢力拡大できなかったこともあり、まもなく断絶しています。

他にも氏の長者・藤原冬嗣の設立した藤原氏の「観学院」や、嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子と橘氏公の設立した橘氏の「学館院」、在原行平が設立した皇族対象の「奨学院」などの大学別曹があり、教育熱が高まったのも平安時代前期の特徴といえるでしょう。

また、貴族対象ではなく、一般庶民を対象とした教育機関も誕生しました。空海の設立した「綜芸種智院」です。こちらでは学問の境なく、仏教や儒教、道教まで学ぶことができたと伝わっています。空海の没後、売却されて断絶しました。


その他の文学や史書

仏教の説話集であり、ファンタジー要素を多分に含んだ116話を漢文で編纂されたのが「日本霊異記」です。正式名は日本国現報善悪霊異記といいます。奈良時代の様子を知る重要な文献です。編者は薬師寺の景戒です。

歴史書としては892年に完成したと伝わっている「類聚国史」があります。こちらで平安時代前期の様子を知ることができます。編者は菅原道真とされており、唐の類書を参考にして編纂されましたが、その後の戦乱でほとんどが消失してしまっています。

また日本最古の勅撰儀式としては「内裏式」があります。こちらは嵯峨天皇の命により、藤原冬嗣と良岑安世らによって編纂されました。朝廷の儀式について記されています。

新しい仏像の造り方と密教系絵画

一木造の木造仏像

飛鳥・白鳳・天平文化を通じて発展してきた仏像造りも盛んに行われました。ただし天平文化にブームとなった「乾漆造」「塑造」は衰退し、木造が主流となっています。カヤ材を用いた「一木造」の作品が多く見られるようになりました。大木を使用することになるこの技法もまた、平安時代後期には「寄木造」へと変わっていきます。

一木造の国宝が様々造られており、有名なところでは京都の「神護寺」に安置されている本尊の「薬師如来立像」や一部に乾漆造の技法も見られる「五大虚空蔵菩薩坐像」があります。大阪の「観心寺」の本尊である秘仏「如意輪観音坐像」にも一部、乾漆造の技術が用いられています。他にも奈良の「室生寺」にある本尊「釈迦如来坐像」や「法華寺」の「十一面観音立像」などが有名です。

弘仁・貞観文化では、寺院内に神を祀り、神社内に神宮寺を建立するといった「神仏習合」も行われていました。奈良の「薬師寺」に伝わった日本最古の神像とされる「八幡三神像」は奈良国立博物館に保管されています

その他、奈良国立博物館には、蘇我氏の氏寺を起源とした華厳宗「元興寺」に伝わった一木造の「薬師如来立像」も保管されています。

密教系絵画

密教では奥義は言葉では伝えきれないとし、その真理と悟りの境地を視覚的に表現し、伝承しています。その象徴ともいえる作品が「胎蔵界曼荼羅」「金剛界曼荼羅」からなる「両界曼荼羅」です。

両界曼荼羅で最も知名度の高いものが京都の「東寺」にある「両界曼荼羅」になります。ちなみに胎蔵界曼荼羅は「大日経」より誕生したもので、金剛界曼荼羅は「金剛頂経」より誕生したものであり、インドで別々に誕生した曼荼羅が唐の時代にまとめられ、それが空海により日本に伝来したと考えられています。

東寺の両界曼荼羅と同じく国宝に指定されているのが、京都の「神護寺」の両界曼荼羅になります。別名「高雄曼荼羅」です。

密教系の絵画として有名なものに滋賀の「園城寺」にある「不動明王像」があります。こちらも国宝に指定されており、「黄不動」の別名で知られています。園城寺は天台宗で、大友氏の氏寺を起源としており「三井寺」の名前でも有名です。

まとめ

このように一般的には「奈良時代」と「平安時代前期」に分けられる「飛鳥・白鳳・天平文化」と「弘仁・貞観文化」の境は、仏教文化の大きな転換期にあたるのです。

朝廷が奈良仏教と距離を取ることで、京都には新しい仏教として「密教」が台頭し信仰を集めていき、密教文化が浸透していきました。この時期にも世界遺産や国宝に指定される寺院が多く建立され、飛鳥・白鳳・天平文化に匹敵する完成度の高い仏像や絵画が誕生しています。

また、文学や教育が盛んになったことも日本の文化水準を高めるうえでは重要だったのではないでしょうか。こうして中国大陸から様々な文化を吸収した日本は、オリジナルの文化を生み出すべく「国風文化」へと進んでいきます。

「奈良を中心として発展した文化」、「京都を中心として発展した文化」、現代に生きる私たちとしては、二つを比較してその違いを充分に堪能したいものですね。

著者・ろひもと理穂

本記事は、2017年11月28日時点調査または公開された情報です。
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