およそ1万2000年間に及ぶ「縄文時代」のミステリー

【公務員試験科目:歴史】未だに多くの謎に満ちた「縄文時代」、「縄文人」ですが、少しずつその謎が解明されてきています。今回は1万2000年間にも及ぶ、そんな縄文時代にスポットを当ててみましょう。また、縄文時代以前の旧石器時代の話も盛り込んでいます。


縄文時代以前の旧石器時代は日本に存在したのか?

旧石器時代の時期

現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の祖先であるホモ・サピエンスが登場するのが今からおよそ180万年前です。さらに、アフリカの地で現生人類が誕生するのが25万年前とされています。

ヒト属には様々な種類の旧人類が存在したようですが、現在まで存続しているのは現生人類だけになります。およそ50万年前に派生したネアンデルタール人も2万年前に絶滅しました。

(諸説あり、ネアンデルタール人とホモ・サピエンス・サピエンスの混血が現代のヒトというDNA研究も発表されました。これによるとネアンデルタール人のDNAを世界で最も強く受け継いでいるのが日本人とされています)

他にも様々な旧人類のヒト属が登場し、絶滅していった時代を「旧石器時代」と呼びます。打製石器を巧みに利用し、石斧などを作り、狩猟をして生活をしていたようです。

旧石器時代の遺跡「岩宿遺跡」

日本の「縄文時代」はおよそ1万5000年前から2300年前までになります。それ以前には日本には人は住んでいなかったと思われていましたが、20世紀に群馬県で「岩宿遺跡」が発掘されたことで定説が覆ります。

岩宿遺跡は今から2万5000年前のものだったからです。つまり日本にも旧石器時代は存在していたことになるのです。

2万5000年前といえば旧人類のネアンデルタール人も健在で、現生人類と並んで厳しい自然環境の中を生き抜いていた時期になります。

日本最古の遺跡である島根県の「砂原遺跡」は旧石器時代の12万年前のもので、旧人類のデニソワ人が使用していたのではないかと考えられています。日本に現生人類が移り住んできたのは今からおよそ4万年前という説が有力です。

縄文時代に起きた大事件

大規模な気候変動

地球上が氷河期のピークだったのが2万年前になり、そこから温暖化が始まります。1万年前までにかけてかなり急激な気候変動があったようです。これまで寒冷地だった地域も温暖地に変化していきます。

日本の沿岸部では100メートルほどの海面上昇があったようです。それだけ温暖化が進んだということでしょう。

それまで日本には針葉樹林が多かったのですが、気候の変動によって、落葉広葉樹が多くなります。その後の現生人類の主食となるクリ属もこの頃から増え始めます。


実はこの時、気候の変動によって現生人が獲物としていたマンモスやオオツノジカなどが絶滅していってしまったのです。他にもナウマンゾウやトナカイなどの大型哺乳類が絶滅しました。

このような厳しい時期が「縄文時代」の幕開け「草創期」とされています。縄文時代の草創期は、今から1万5000年前から1万2000年にかけてとされています。人々が必死に環境に適応し、生き抜く工夫をしたことでしょう。

鹿児島県にはこの時期の遺跡として「掃除山遺跡」があります。竪穴住居などが見つかっています。まだ定住生活はしていなかったようで、越冬用に使用したり、秋に収穫したドングリなどを貯蔵していました。

そもそも日本地図が現代とは違う

現代でも温暖化によって環境問題が叫ばれていますが、この頃は気候だけでなく地殻変動によって日本列島の形自体が違いました。

本州と四国、九州はひとつにまとまっていました。ですから瀬戸内海も存在しません。北海道は陸続きではなかったものの、津軽海峡付近が凍り付き、徒歩で渡ることができたようです。北海道と樺太はひとつにまとまっていました。

縄文時代の草創期・早期に生活していた人々は、現代とはまったく異なる環境だったことになります。日本列島が陸続きだったというのは信じがたい話ですが、もともとは大陸にくっついていたのが地殻変動で離れていったのです。

縄文時代の草創期では、朝鮮半島との距離も近く、わずか15キロメートルしか離れていなかったのです。当然のように日本に住んでいた現生人に日本人という自覚はなかったでしょう。国という概念もなかったからです。

縄文時代の食糧事情と生活

狩猟中心の生活

現代では食事に困るということはほとんどありませんね。野菜が高騰しているとか、漁獲量が減っているといった社会問題はありますが、生存を脅かすほどではありません。

しかしこの時代の最も切実な問題は、飢えて死んでしまうことです。食糧の確保が何よりも優先されました。もちろんコンビニがあるわけでも、スーパーがあるわけでもありません。自分の食べる分は、自分でなんとかするしかないのです。まさにサバイバル生活です。

ポイントは「水田」や「畑」といったものがまだなかった時代だということです。安定して生産できるような農作物がないために、常に食糧を求めて動き回っていたと考えられます。キャンプによる移住生活をしていたわけです。

つまりこの時代の主流は、「狩猟」になります。

狩猟に使う道具は旧石器時代には作られています。石斧や石鏃といった道具です。獲物は大型哺乳類でした。すでに絶滅していますが、「マンモス」を群れで追っていた時代になります。

縄文人のルーツは、このマンモスを追ってロシア地域から北海道に渡ってきた現生人という説もあり、こちらはおよそ2万年前になります。そして北海道からどんどん南下していったというものです。縄文時代の遺跡が北海道や東北地方に多いのはそのためだと考えられています。

マンモスの他にもオオツノジカやヘラジカ、ヤギュウなどの大型哺乳類を獲物としていましたが、1万年前に大型哺乳類は絶滅してしまいました。縄文時代の「早期」は1万2000年前から7000年前にかけてですから、ちょうどこの時期にあたります。

狩猟は中型の哺乳類であるイノシシやノウサギ、ニホンジカなどにも及んでいたようです。食糧源が減ったこともあり、クリやクルミなどの植物採集や漁労活動が盛んになっていきます。


狩猟中心の移住生活は限界をむかえていたわけです。新しい文化を形成する必要性を迫られることになります。

定住生活(竪穴住居・貝塚)

獲物を追って移住していた生活が変化していくのがこの縄文早期からになります。少しずつ「定住化」が進んでいくのです。鹿児島県の「上野原遺跡」からは46棟の「竪穴住居」が発掘されました。

竪穴住居とは地面を掘って、そこに柱を建てて骨組みを作り、土や葦などで屋根を葺いた建築物です。この建築方法は地域によっては室町時代まで続いていたとされています。

付近の森が開拓され、そこでクリやクルミなどの植物採集が盛んになったと考えらえています。この頃の遺跡からは磨り潰すための道具や石皿などが採掘されています。

漁労などで食糧を確保すると、貝殻などのゴミを捨てる場所を設定するようになります。これが「貝塚」です。千葉県に最も多く貝塚が確認されています。湾岸付近が多く、東京湾付近だけでなく大阪にも多く発見されています。その数はなんと2500にものぼります。

貝塚は炭酸カルシウム成分の影響で、酸性の強い日本の土壌から有機物を保護してくれたため、この時代の文化を確認できるものが多数出土しています。貝殻の主流はヤマトシジミで、他にもマガキなどを食していました。他にも様々な魚を食べていたようで、そのたの釣りの道具や突き漁の道具も見つかりました。丸木舟を作り沖合にも出ていたようです。

貝塚として有名なのが縄文時代後期(4500万年前から3300年前)とされる東京の「大森貝塚」です。1877年にモースが採掘したことらモース貝塚とも呼ばれています。こちらから土器が発掘され、それが「縄文土器」と呼ばれています。他にも石斧や石鏃、鹿の骨などが見つかっています。

そんな中で、食糧事情は縄文時代が進むにつれて厳しくなっていきました。縄文後期には寒冷化が進み、さらに噴火などの災害も重なって人口が大きく減少したようです。狩猟するための獲物も激減、さらに植物採集も厳しくなったからです。海産物だけは安定して確保することができたために命をつなぐことができたのです。

縄文晩期(3300年前から2800年前)には熱帯ジャポニカによる稲作も行われていたことが確認されています。岡山県の「津島江道遺跡」からは水田の区割りの跡が発掘されたのです。稲だけではなく、他にもソバやオオムギ、アワやアズキなども栽培されていたようです。

こうして大規模な集落が形成されるようになり、時代は稲作が盛んになる「弥生時代」に突入することになります。

縄文時代の文化

縄文土器の特徴

縄文土器の特徴は低温(600度から800度)で酸化焼成したもので、厚手ですが軟質で、赤褐色です。縄目が特徴とされていますが、デザインや大きさは地域によって大きく異なるため、この時期に作られた土器をまとめて縄文土器と呼んでいます。

以前は縄文式土器という表記もありましたが、1975年以降からは縄文土器と呼ぶのが定着しています。用途は主に食糧の貯蔵です。煮るといった調理にも使用されました。それとは別に祭祀用に作られた物もあったようです。

壺状の土器は弥生土器の特徴とされていましたが、最近では壺状の縄文土器も発掘されています。5000年前に作られたとされる壺状の縄文土器が鹿児島県の「上野原遺跡」で見つかっています。

土偶と勾玉

土偶については縄文前期の関東東部で集中的に採掘されています。祭祀用に作られていたと考えられています。シャーマニズム的な儀式もあったのでしょう。おそらく定住化とも関係が深く、秋のクリやドングリの収穫を集落で祈ったのではないかと考えられています。

一時期はまったく作られなくなりましたが、縄文後期になるとまた盛んになり、関東だけでなく、九州などにも広がりをみせています。

ヒスイ製の勾玉は、縄文中期(5500年前から4500年前)から見られるようになっています。新潟県の「長者ヶ原遺跡」や青森県の「三内丸山遺跡」などから発掘されています。北海道にも交易が広がっていたことをうかがわせる発見です。

まとめ

文献などの記録が残っていませんので、未だにその多くが謎に包まれています。最大のミステリーは縄文時代の人々のルーツです。ロシアから樺太、北海道を通過して広がったという説や、朝鮮半島から渡ってきたという説、南方から鹿児島県に移ってきたという説もあります。

さらにそれ以前の旧人類の存在も確認されており、この先住民とホモ・サピエンスがどのような関わり合いをしていたのかも謎となっています。

なんといっても1万2000年に及ぶ長期間です。地殻変動や気候変動を含め世界は大きく変化していったことでしょう。それに比べたら、400年前の関ヶ原の戦いがつい先日のような気持ちになってしまいますね。


遺跡の発掘と同時にDNA鑑定の技術もどんどん高まっており、それと共に新しい事実がどんどん判明していっています。今後も驚くべき真実が登場するかもしれません。

実に興味深いミステリーとロマンに満ち溢れている時代、それが縄文時代なのです。もしかすると日本の歴史で最も面白いのは縄文時代なのではないでしょうか。

著者・ろひもと理穂

本記事は、2018年3月23日時点調査または公開された情報です。
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