1997年 阪神大震災での消防局の救助活動 現場レポート

今から20数年前、兵庫県の神戸市・淡路島を中心に関西に大きな被害をもたらした「阪神大震災」は、死者・行方不明者6500人、負傷者は4万人にのぼり、多くの消防職員たちが救助活動に奮闘しました。

今回はその中から大阪市消防局の活動について紹介します。


はじめに

1997年 阪神大震災、大阪府在住の20代で、大阪市消防局に勤務されていた消防職員の方に記帳な、当時の現場レポートをいただきました。

平成7年1月17日5時46分、未曽有の大地震「阪神大震災」

平成7年1月17日火曜日、まだほとんどの人が眠っていた早朝5時46分、突然「ドーン!」という下から突き上げるような衝撃で私はベッドから転げ落ちました。

その瞬間は、地震というより「何かの大爆発!?」と思うほどの衝撃で、その直後にグラッと強烈な揺れがやってきました。

家具や食器棚が倒れガラスの割れる音、ゴォーッという不気味な地鳴りの音、そして自分の心臓がバクバク鳴っていたのを今でもはっきりと覚えています。

当時、私は大阪府在住の20代で、大阪市消防局に勤務していました。

地震発生からわずか数分後の5時50分、自宅の電話が鳴りました。神戸市の友人からでした。

友人の第一声は、「大丈夫か!?こっちはすごいことになってる!だから大阪はもっとひどいんじゃないかと思って!」でした。

この友人だけではなく、神戸の人はなぜか震源は大阪だと思ったようです。それくらい、神戸に地震が来るというのは想定外のことでした。

友人との電話は3分会話したのち通じなくなりました。その後、自宅の電話はどこにかけてもつながりませんでした。

当時は携帯電話はまだ普及しておらず、カップルや友人の連絡手段としてはポケベル(ポケットベル)が全盛期で、電話といえば自宅や会社の電話のみでした。皆が安否確認のために一斉に使用したので、電話回線はパンク状態でした。

消防局までの道のり

車は大渋滞でパニックに

地震の揺れがおさまり、当時はインターネットも普及していない中、唯一の情報源であるテレビやラジオでも、まだ詳しい情報が入ってきていませんでした。ですが何か大変なことが起こっているのはわかりました。


私は近くに住む消防職員の家に電話をかけ続け、やっとつながると、電話に出たのは奥さんでした。

「夫はついさっき車で大急ぎで出ていきましたよ!」との返事でした。

それを聞いて私も焦り、自宅を飛び出ると目の前の道路は大渋滞でした。

大渋滞というより、車が列を作ったまま完全に止まってる?というくらい全く進んでいない状態でした。

これはだめだと思い、自転車に乗り、消防局を目指しました。消防局まで普段は電車通勤で自宅から20㎞ほどあったのですが、当然電車はすべて止まっており、もう自力で行くしかないという気持ちでした。

割れたビールびんが散乱

自転車で進んでいくうちに、次々とひどい状況が目に飛び込んできました。

通りの住宅の壁がボロボロと崩れ落ち、そのがれきが道をふさいでいる所があちこちにあり、そのたびに自転車を押してがれきの山を乗り越えながら進みました。

町のあちこちにガスの臭いがただよっていて、いつ爆発するかとドキドキしながら自転車を走らせました。

また、急にむせるようなアルコール臭がしてきて、見ると地面に割れたガラスびんがあたり一面散乱していました。

酒屋の建物が倒壊し、無数の酒やビールのびんが割れて道いっぱいに散乱し、私もそのガラス片を踏みながら自転車を押して進み、消防局に到着した時には足の裏にガラス片が刺さり血が出ていました。

身をもって知った災害時の移動の難しさ

当時の消防局は7階建てで、各消防署も合わせると職員は3,500名以上おり、通常どのフロアにも多くの職員が勤務していますが、私が到着した時はもともと勤務中の960名の職員以外は、消防局に到着するのに苦労しており、フロアは騒然となっていました。

私より先に車で家を出たはずのあの職員も到着していませんでした。

聞くと、車で出たのはいいが、すぐに大渋滞に巻き込まれ、その場に車を乗り捨てるわけにもいかず、大急ぎで車を置きに自宅に引き返したそうです。

自宅から10分の距離を車で引き返す作業だけでも渋滞で2時間近くかかり、このような人が皆パニックになっていました。

今でこそ阪神大震災の教訓により、災害時の車移動がタブーなのは常識ですが、この震災が起こるまで、都市の大地震の経験はほぼ誰にもなく、すべてがこの震災ではじめてわかることばかりだったのです。


皆が痛感したことですが、震災時に役に立つのは自転車とバイクです。

震災時、車では皆の向かいたい方角が完全にバラバラになりパニックを引き起こし、数センチすら進みません。

消防局には職員たちからひっきりなしに連絡が入り、「自宅から60㎞の距離を今から自転車で向かいます!急ぎます!」というような電話が鳴りやみませんでした。電話回線の不具合のせいで、その電話すらなかなかつながらず皆苦労していました。

非番でしたが徒歩で20~30㎞を走って消防局までやってきた職員も多数いました。

また職員の中には神戸市在住の者もおり、自身の家族の安否も不明のまま職務のため大阪市に向かい、そのまま何日も消防局に泊まり込み救助に従事した職員もいました。

消防局での様子

119番の通報表示ランプが真っ赤に染まる

大阪市消防局の指令室には、119番通報を受ける回線が238本あるのですが、この回線は地震の揺れがおさまったと同時に一気に満杯となり、119番の表示ランプは真っ赤に染まりました。

指令室の職員は皆、鳴りやまない電話に必死で対応し、次々と出動指示を出しました。

その後も119番通報は殺到し、1月17日だけで3,000件以上の通報を受けました。

マスコミからの電話も殺到

この時、119番通報だけではなく、消防局の一般電話にマスコミからの問い合わせが殺到し、職員はその対応に追われ続けました。

マスコミには、もちろん命の危険が及ぶような情報は提供するべきだと思うのですが、このように救助すべき人口の多い都市の大地震では、見直すべきところがいろいろとあるのではないかと感じました。

現場へ次々と出動

119番通報によって職員は次々と現場に出動していきました。1月の寒い冬の朝、地震発生時に暖房器具を使っていた家が多く、あちこちで火災が発生し、大阪市では800㎡近く燃えた現場もありました。

またエレベーターに閉じ込められた人も多く、その件だけで400名以上の職員が出動し、懸命に市民の救助にあたりました。

ガス漏れでも300名以上が出動しました。大阪市だけでこれだけ多くの被害が出たわけですから、震災での全被害地域を合わせると、どれくらいの数にのぼるか想像できるかと思います。

そしてガス漏れによるこれ以上の被害を予防するため、大勢の消防署員が注意を呼び掛けて大阪市内をまわりました。

空からも緊急の呼びかけ

また、大阪空港からは航空隊が飛び立ち、空から火災への注意を呼び掛けると同時に、上空から被害状況の調査も行いました。

神戸市へ出発

真っ黒な煙の柱

職員が大阪市内の救助活動に追われている中、当初、神戸市の正確な情報はまったく入ってきていませんでした。また応援要請も入っていませんでした。

しかし報道で徐々に神戸市の惨状が明らかになり、大阪市消防局長は大阪市長に対し、神戸市へ応援部隊を派遣する許可を取りつけました。

神戸市に連絡すると、「消火部隊に来てほしい」と返答があったので、すぐさまその準備に入りました。

その後、当時の自治省消防庁から正式に大阪市への応援要請が入り、大阪市から応援部隊が次々と出発しました。


けたたましくサイレンを鳴らしながら何台もの消防車が向かっていく先には、真っ黒な煙の巨大な柱が空に向かい何本も上がっていて、その光景は戦争の映画でしか見たことのない恐ろしいものでした。

横倒しになった阪神高速道路

地震の被害は甚大で、信じたくないような光景ばかりでした。

線路が破壊され電車は脱線、大きなショッピングモールも丸ごと倒壊、神戸市にある有名な生田神社は建物がぺしゃんこになり巨大な屋根だけが地面に直接乗っている状態でした。

ビルは根こそぎ折れて倒壊し、何車線もある大通りを完全にふさいでいました。

そして今では教科書にも載っていて当時を象徴する写真になりましたが、阪神高速道路が完全に横倒しになった光景は、実際に目の当たりにすると、ショックで言葉がありませんでした。

地震発生時に高速道路を走っていた車は、折れた道路とともに落ちていきました。

地震があと1時間遅く通勤時間帯に発生していたら、さらにどれほどの死者が出ていたのだろうと、考えるだけで恐ろしくなります。

被災地の惨状

応援部隊は大渋滞の中、3時間後にまず神戸市役所に到着しました。

当時は災害時に渋滞を避け緊急車両が通る法も整備されていなかったので、やむを得ず反対車線を逆走するなどして急ぎ、現地に到着するのにも一苦労でした。

そこから応援部隊は神戸市長田区の火災現場に向かいました。

神戸市長田区は下町で木造家屋が多く、風で火災の炎が巻き上がり次々とまわりに燃え移り、あたり一面火の海になっていたので、一刻も早くそこにたどり着き消火することが応援部隊の任務でした。

一生忘れない長田区までの道のり

目的地まで消防車を走らせているとき、あたり一面はがれきの山でした。それは戦時中の白黒写真でしか見たことのない、空襲の跡のような光景でした。

消防車の前に女性が立ちはだかり、「家族が下敷きになっている!助けて!」と叫びました。

ですが当時はまだ、消防は任務以外のことはできませんでした。どの組織もそうでした。一刻も早く人が閉じ込められている長田区の火災現場に向かわなければならない、そんな中、その場を通りすぎなければならないのは身を切られる思いでした。

がれきのあちこちで泣きながら家族の名前を叫ぶ声、通る人の足にすがりつくその光景は、本当に地獄のようでした。

現場へ向かう任務外の事案にも、都道府県を越えもっと柔軟に対応できるしくみになっていれば・・・

この震災で多くの消防職員がつらかったのは、身体の疲れより何よりこの体験でした。

必死の救助活動

水が出ない?

長田区に到着した応援部隊は、神戸消防とともに、すぐに消火しようと消防車の放水準備をしますが、なんと水が出ません。

水道管が破裂して完全に断水していたのです。

何よりも消火に必要な水が出ないとは、職員たちは愕然としました。また当時、神戸市には水を貯めておく防火水槽の数も少なく、これが痛手となってしまいました。


今でこそ、この震災や東日本大震災の経験から、「大地震が来るんだから水道管はそりゃ壊れるでしょ」と容易に想像できますが、当時、日本で実際に大地震を経験した者は少なく、教科書に載っているような過去のものとしかイメージできていませんでした。

先ほどの「がれきの下敷き」の救助についてもそうですが、これまで国が地震対策として備えたつもりのものは、実はリアルな震災をまったく想定できていなかったことをこのとき誰もが痛感します。

この破裂した水道管も、震災前に神戸市が作成していた「地域防災計画」の中で、想定される「大地震」の規模を「最高震度5まで」としていました。

そしてなぜか震度6、7は来ないだろうという前提で防災計画は進み、水道管の強度を「震度5までなら壊れないから大丈夫」としていたのです。

ところが実際に来たのは震度7の大震災でした。

このときテレビには、自宅が燃えるその前で消防職員に、「なんで消さないんや!なんでや!」と叫ぶ市民が映し出され、職員たちは無念で胸が張り裂けそうな思いでした。

海から水を引き上げ放水

断水で水道の使用が絶望的だと判断した消防職員たちは、この過酷な条件のもとですぐに1.5㎞ほど先にある海へ向かい、海水を汲み上げ、何台もの消防車でリレーのように次々と海水を現場へ送り込み放水しました。

荒れ狂い上下する海水からの汲み上げに苦労し、やっとホースから水が出た時には思わず「やった!」と声をあげていました。

消火作業中に、何度も爆発のようなものも起きましたが、消防職員たちは不眠不休で放水し続け、連続で20時間もの消火活動によって、トータルで1万平方メートルにもおよぶ火災を鎮圧しました。

その後も別の火災現場に向かい、ここでも懸命の消火活動を行いました。

のちに神戸市長田区を職員が訪れたときには、住民の方から、「大阪消防がこのあたりを消火してくれるのを見た。本当にありがとう!」と感謝の言葉をもらい、この瞬間ほど消防職員になってよかったと思える日はありませんでした。

また、自身が被災しているにもかかわらず、消防職員におにぎりを振舞ってくれた人もおり、思わず涙が出そうになりました。

それとともに職員は皆、あのがれきの横で泣き叫んでいた人々の姿を胸に刻み込みました。

ひげが伸びて誰か分からない?

大阪市消防局のフロアでは、不眠不休で救助活動を行った職員たちが、フロアのデスクをすべてくっつけて並べ、皆その上にじかに寝ころび、武士のようにいつでも飛び起きられるような体勢でわずかな仮眠を取っていました。

何日も泊まり込んでいるので、皆ひげが伸びて、もはや誰か分からない職員もいたほどです。


職員は皆、疲労がピークになっていましたが、それでも誰ひとり弱音を吐かず、消防士としてその役割をまっとうしようとしていました。

海からも空からも出発

震災当日の夜には、大阪港から職員らが消防艇で神戸へ向け出発しました。

消防艇には軽油のドラム缶や、おにぎり、パンなどを数千個積んで、大阪湾を神戸市長田区の港まで輸送しました。

職員は大阪~神戸間を3隻の消防艇のピストン輸送で行き来し、明け方まで食料を運び続けました。

また航空隊は、同じく被災した神戸市の隣の西宮市へ、輸血用の血液をヘリで運びました。そしてそのヘリで西宮市の負傷者を大阪市内の病院まで搬送するなど、職員はここでも必死の救援活動を続けました。

がれきの下の捜索活動

設備が整っていない悔しさ

大阪市・神戸市消防局は合同任務として、倒壊した建物の中を捜索し、人命救助にあたりました。途中、スイス災害救助隊の救助犬も加わって懸命にがれきの下を捜索しましたが、このときスイスから、「救助犬は匂いを頼りに人を探すだけだから、我々は救助は手伝えない、自分たちでやってほしい」と言われてしまいました。

さらにその救助犬は、焼け焦げたエリアでは嗅覚が役に立たず、また倒壊した家屋の冷蔵庫にあった肉などにも反応して吠えるので、捜索は難航しました。

そしてさらに消防職員たちが無念だったのは、与えられたがれき処理の機材が、今では考えられないシャベルや軽微なジャッキなど基本的なものだけで、それすらも不足していたことです。

これは大阪市や神戸市消防局の話ということではなく、国レベルで阪神大震災まではこのような状態でした。それはなぜだったのでしょうか。

国がイメージしたのは関東大震災

先述したように、この大震災以前は、国の要人ですら、都市部での地震をリアルに想像できていませんでした。

もちろん、山村の局地的な地震は経験していましたが、テレビに映るその山村での地震は、どこか自分の住む都会とは別世界の、他人事だった部分があったのでしょう。

今回の阪神大震災で、「都会にも本当に地震って来るんだ・・・頑丈だと思っていた町がこんなにも破壊されるんだ」という、少し考えれば当たり前のことを、皆が思い知りました。

さらにこれまでは、関東や関西など都市部に来るであろう地震=関東大震災と同じ被害、というイメージが出来上がっていました。

なので、関東大震災のように火災による死者がもっとも多く出るだろうから、そこを警戒すべきという意識はあったものの、火災にしか意識は向けられていませんでした。

死者のほとんどが圧死だった阪神大震災

阪神大震災では、火災も含めて10万件以上の住宅が完全に損壊し、半壊の住宅も10万件越えで、死者のほとんどは火災ではなく建物倒壊による圧死でした。

建物の倒壊がこれほどまでに多いとは当時は想定しておらず、直下型地震の恐ろしさを思い知る結果となりました。

そして懸命にシャベルでがれきをかき分け人命救助にあたった消防職員たちは、大量のがれきを前に、思うように作業が進まない自分たちを歯がゆく思い、悔しい思いでいっぱいになっていました。

震災の教訓で作られたハイパーレスキュー隊

これを教訓に、翌年の1996年、消防庁はハイパーレスキュー隊(消防救助機動部隊)を発足させました。

ハイパーレスキュー隊は、大規模災害時にパワーショベルなど大型の重機やコンクリートカッター、そして人命探査装置などを装備し、人命救助に特化した消防のエキスパート部隊です。

この部署への配属は消防士としての経験年数も考慮され、隊員は人命救助のため日々高度な訓練を行います。

このハイパーレスキュー隊は東京消防庁をはじめ、各都市の消防局にも相次いで設置されることとなりました。

マスコミからの批判

大阪も被災地なのに・・・

ところで今回の震災で大阪市消防局は、何も知らないマスコミから「神戸に応援部隊を送るのが遅い」とかなり批判されました。

当時の大阪市消防局では、このような災害時にわざわざ人員を割いて、マスコミ向けに救助の様子を広報することはしておらず、それどころか自身の市も被災し死者が出ているため職員は懸命の消火・救急活動を行っていました。

そんな中での神戸への応援部隊派遣であり、またそもそも神戸が大変なことになっているという情報は、地震発生直後は大阪に伝わっていなかったのです。

なぜ伝わっていなかったか、それは気象庁の震度計に不具合が生じていたからです。

広域の震災でわかった、恐ろしい問題点

地震が起きるとまず、地震が起きた全国各地域の震度計の値が、東京・大阪・福岡など全国6カ所の直近の気象台に届きます。そこを経由して最後に気象庁へ届くしくみになっていたのですが、今回の地震で、神戸の震度計から大阪管区気象台に数値を届けるルートに不具合が発生していました。

なので大阪も東京も、「神戸方面が震度6以上で大変なことになっている!」ということを知らなかったのです。

さらに当時の震度計では「震度7」という数値は観測できず、また震度に「強」「弱」という設定もありませんでした。

ダメージの大きい地域ほど「静か」

気象庁の情報があてにならないとすれば、当の被災地が助けを求め、被害の状況を伝えればいい、と思いがちですが、「市全体」や「地域全体」など広範囲が一気に壊滅状態になると、誰も情報発信などできません。ほとんどの方が亡くなっているからです。

実際、大阪でも東京でも救助部隊の間では、「神戸の情報だけがまったく入ってこないけど、どうなってるんだ?」とざわざわしていました。

1番ダメージの大きい地域の情報ほど一切入らない こんな当たり前のことを当時は誰も想像できていませんでした。時の総理、村山首相ものちに著書で、「危機管理体制が欠けていたことをおわびする」と述べています。

兵庫県の貝原知事も当時マスコミにかなり批判されました。「自衛隊への応援要請が遅かったせいで大惨事につながった」というものです。

ですが、貝原知事のもとにも当初、「神戸での被害は不明、死者は1ケタ台」という情報しか届いていませんでした。貝原知事は自治省出身なので、それでは自衛隊を要請することができないことがよくわかっていました。

不気味なほど静かで情報が入ってこない、そういう地域が実はもっとも壊滅状態なのだということは、この震災での大きな教訓となり、その後、災害時の情報伝達手段や消防・自衛隊の派遣手続きの簡素化など、あらゆるものが大幅に見直されました。

この貝原知事は退職後も神戸の復興に全力で取り組み、またひょうご震災記念21世紀研究機構の理事長となって防災対策に取り組みました。

この知事を含む様々な人の働きかけによって東日本大震災では自衛隊もすぐに出動でき、救助にあたることができました。

そんな活動の中、貝原元知事は2014年、交通事故で亡くなっています。

忙しい時ほどマスコミ対応が必要になる皮肉

大阪市消防局ではこの震災以降、災害の出動のたびにマスコミに広報しています。

本来消防職員の使命は、少しでも早く現場に到着し人命を救うことであるはずなのですが、そんな緊急時ほど人員を割いてマスコミ対応しなければ正しく報道してもらえないなんて、なんて皮肉な話なんだろう・・・と、職員のあいだでは語り継がれています。

ですが消防職員ひとりひとりが、使命感に燃え懸命に救助活動を行っているのは今も昔も変わりありません。

まとめ

阪神大震災は、兵庫県神戸市から西宮市、そして宝塚市と淡路島の一部では震度7を記録した直下型の大地震でした。

兵庫県南部を東西に走る活断層が地震の発生源で、その揺れは新潟から鹿児島にまでおよびました。

都市直下型地震としては、昭和23年に発生した福井地震(マグニチュード7.1、死者・行方不明者3,848名)がありますが、現在の形の人口密集都市としては初めての地震がこの阪神大震災であり、この震災で、それまでの防災対策に多くの不備があることが明らかになりました。

このように制度が整っていなかった条件下で、消防職員たちは職務をまっとうしようと懸命に救助活動を行いました。

阪神大震災、東日本大震災を経験し、災害時の法が見直され整備された現在では、次にいつ起こってもおかしくないと言われている首都直下型地震、東海・南海トラフ地震にそなえて今日も消防職員たちが訓練に励んでいます。

消防は、人の命を守る、たいへんやりがいのある仕事です。一度社会人経験をしたのちに消防職員(消防吏員)を目指す方も多くいます。

公務員を目指している方はぜひ一度、消防の仕事にも注目してみてはいかがでしょうか。

本記事は、2018年4月25日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

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