はじめに - アメリカ、17年ぶりの死刑執行
2020年7月14日、アメリカ連邦政府はインディアナ州にある刑務所でダニエル・ルイス・リー死刑囚(47歳)の死刑を実施したと発表しました。
これまで、州政府レベルでの死刑執行は実施されてきましたが、17年振りとなる連邦政府による死刑執行はアメリカ国内に衝撃を与えています。
そこで今回は、アメリカの死刑制度をはじめ、今回のケースがなぜ注目されているのかについてご紹介します。
日本人にとって無縁と思えるアメリカの死刑制度ですが、11月に控えている大統領選における争点のひとつともされており、トランプ大統領の再選にも影響を及ぼす可能性があります。
公務員、公務員志望の方はアメリカの社会情勢を理解するのに参考にして下さい。
アメリカの死刑制度の概要
はじめに、アメリカの死刑制度について概要を見てみましょう。
死刑制度を理解するためには、アメリカの「ふたつの政府(法)」という仕組みを知る必要があります。
アメリカの連邦政府と州政府による司法制度の違い
アメリカでは連邦政府(国)と州政府(州)のふたつの政府が存在します。
ふたつの政府が存在するということは、実質的にふたつの法律(連邦法と州法)が存在するということです。このことは死刑制度に限った話ではありませんが「連邦法と州法で言っていることが違う」という事態を生み出します。
分かりやすい事例に「大麻」があります。実は、アメリカの連邦法では大麻の使用は禁止されています。一方で、日本人にも馴染み深いカリフォルニア州やコロラド州などの全8州は嗜好用として合法で、22州で医療目的の使用なら合法としています。
つまり、連邦法では禁止されているのにもかかわらず州法では合法のため、人々は堂々と大麻を楽しめる訳です。合法州で大麻を吸っている人たちは「連邦法には違反しているのに州法では合法」なので、法律違反かどうか分からない中途半端な状態になります。(事実上、罪になることはほとんどない)
ちなみに、ニューヨーク州は2020年内に大麻の嗜好目的利用を合法化するとしています。また、2019年11月には、新しい連邦法案として大麻禁止の終了を盛り込んだMORE法(Marijuana Opportunity Reinvestment and Expungement)が承認されました。(解禁ではない)
このように、アメリカ特有の連邦法と州法のふたつは、死刑制度においても矛盾を生み出しています。大統領をはじめとするアメリカの政治家にとって、死刑制度を支持するかしないかは、政治家としての素質を判断されるひとつのポイントになっています。
アメリカの死刑制度を巡る歴史
アメリカでは死刑制度を巡って度々意見が対立します。
1972年、連邦最高裁判所は連邦と州のいずれにおいても死刑制度は違法と判断しました。しかし、同裁判所は1976年にこの判断を覆し、複数の州で死刑制度を認める判決を出しています。連邦政府は一向にまとまらない指針を受けて、1988年に連邦政府が死刑を可能にする法律を成立させました。
アメリカでは合衆国憲法修正第8条で「残虐な刑罰」を禁止しており、この点を巡って連邦政府や州政府で解釈が分かれているため、死刑制度を巡る足並みが揃わないのです。簡単に言うと「何を基準にして残虐になるか」という解釈が不透明で曖昧ということです。
この結果、全50州のうち28州で死刑制度支持、22州で死刑制度不支持と分断が起きています。さらに、死刑制度を支持するものの10年以上死刑を執行していない州、支持はするが執行はしないと定める州が混雑する状態を生んでいます。(2020年4月時点)
アメリカの連邦政府と州政府の死刑制度の違い
連邦政府が死刑を執行できるケースは、複数の州をまたぐ犯罪、国際テロ、紙幣や硬貨偽造など、影響が広範囲に及ぶ犯罪とされています。
一方で、その他の傷害や殺人、薬物使用などの多くの犯罪は州政府(州裁判所)によって裁かれます。
トランプ大統領は「死刑制度支持派」です。かねてから「法と秩序(Law and Order)」を主張しているトランプ大統領は死刑を強く支持しており、麻薬密売などにも死刑を導入すべきという過激な主張も繰り返しています。
そんなトランプ政権が今回の死刑執行に踏み切ったことは驚くべきことではないとする声もある一方で、本来であれば州政府によって判断されるべき殺人犯による刑の執行に対して、連邦政府が決断を下したことは、アメリカの死刑制度を巡る潮流を変える事例になると見られています。
ウィリアム・バー司法長官は2019年7月に発表した声明の中で、子どもや高齢者に対する殺人や強姦の罪ですでに死刑判決を受けている死刑囚5名に対して、刑執行の日程を決めるよう連邦刑務所局に通達したことを明らかにしていることから、死刑執行は続くと見られます。
アメリカの死刑執行数
アメリカの死刑執行数は1999年の98件をピークにして、現在まで減少傾向にあります。
先述したように、連邦政府による死刑執行は2003年以降ありませんでした。2020年には州政府によって7件の死刑が執行されています。
現在、アメリカには約2,600名の死刑囚がいるとされており、最も多いのがカリフォルニア州の733人です。しかし、同州で最後に刑が執行されたのは2006年で、それ以降は実施されていません。
カリフォルニア州は、死刑制度を支持しているものの、執行しないことを公約にしているため、実質的に死刑は出来ない州のひとつです。このような矛盾が犯罪に巻き込まれた遺族の無念を増幅させていることも確かでしょう。
そもそも、死刑判決の数自体が減少しています。1998年には295人が死刑宣告を受けていますが、2018年は43人で85%も減少している計算です。
アメリカ連邦政府による死刑執行の詳細
次に、今回執行された刑の背景や詳細について見てみましょう。
ダニエル・ルイス・リーの場合
今回、死刑執行が注目を浴びるようになったきっかけが「ダニエル・ルイス・リー死刑囚」に対する刑の執行です。
リー死刑囚は、1996年1月にアーカンソー州で8歳の少女を含む一家3人を殺害し、川に遺棄した罪で1999年5月に死刑判決を受けています。
トランプ政権は2019年時点で「犠牲者や残された遺族のためにも、死刑を実行する責任がある」とし、残忍な犯行で反省も見られない同死刑囚を刑執行の対象者に挙げていました。
今回の刑執行は、当初2019年12月に予定されていましたが、執行方法(薬物投与)に問題があると指摘され延期、さらに死刑囚側が執行延期を求めて訴えを起こしたことで再び延期になっています。
また、刑執行に立ち会う予定だった遺族が、新型コロナウイルス感染を懸念したことから、さらに延期されていました。そして、7月14日、最高裁判所が死刑囚側の訴えを退けたことで、刑が執行されました。
なぜ17年も時間が空いているのか?
連邦政府による死刑執行は2003年以来の17年振りです。
前回はジョージ・W・ブッシュ政権時代に、女性兵士を強姦したうえで殺害した罪に問われたルイス・ジョーンズ・ジュニア死刑囚(元軍人)に刑が執行されました。
これ以降は、刑執行時に使用される3種類の薬物が不必要な苦痛を生むとして中断されていました。この問題に対して、ウィリアム・バー司法長官は「1種類でより鎮静効果が高い薬物」による執行が準備できたとし、死刑再開に踏み切りました。
これまで、連邦政府による死刑執行は、投与する薬物による論争を理由に中断されていましたが、アメリカでは死刑制度に反対する人が半数近くいることから、時の政権は慎重な姿勢を取ってきたということです。
つまり、連邦政府としては死刑を巡る問題で政権の印象を悪くしてしまうよりは、薬物の影響を理由にして、態度を明確にしないことで波風が立つことを避け続けてきたと言えます。とくに人道的な立場を明確にしていたオバマ政権では顕著でしょう。
ちなみに、2003年のブッシュ政権時代の前は1963年が最後だったため、ブッシュ元大統領は40年振りの連邦政府による死刑執行を実施したことになります。
また、ブッシュ元大統領はテキサス州知事時代に154件の死刑執行を実施していることから「アメリカ史上最も死刑を執行した人物」として覚えておくと良いでしょう。
死刑執行に見るトランプ政権の狙い
今回の刑執行は2019年7月時点で発表されていたことですが、実際に執行に踏み切ったのにはトランプ大統領による「法と秩序」をより鮮明にアピールする狙いがあるとされています。
トランプ政権は、11月に控えている大統領選に向けて支持者だけでなく、新たな支持層獲得に躍起になっています。
この背景には、新型コロナウイルス問題に対する初動対応ミス、白人警察官による黒人殺害事件に端を発する抗議デモを抑えられなかったなど、国民からの「政権批判」が次第に増していることがあります。
対照的に、民主党大統領候補のジョー・バイデン氏は「トランプ政権の失点」を狙ってか、息を潜めており、トランプ政権は何かしらのアピールをせざるを得ない状況にあるのです。
その最たる例が「中国政府批判」です。新型コロナウイルスは中国の責任と主張したり、中国と親密なWHOからの脱退、香港国家安全維持法やウイグル族を巡る制裁措置など、2020年3月以降は徹底して中国政府批判を続けています。
トランプ政権がなぜ中国政府をひたすら攻撃するかと言うと「無党派層へのアプローチ」のためです。
アメリカの二大政党である共和党と民主党のいずれでもないと考えている人(無党派層)は、選挙の時に「少しでも気に入った政党に投票する」傾向があることから、トランプ政権は「反中国」の姿勢を続けているのです。
「アメリカにとって中国は悪」という印象操作を積み重ねておくことで、無党派層は11月にはトランプ政権(共和党)を支持するという計算です。
これとまったく同じ理論で「死刑制度」も使われました。
今回、トランプ政権が死刑執行に踏み切ったのは「無党派層でなおかつ死刑支持派」の人たちを取り込むことを狙ったと見られます。
アメリカの世論調査やコンサルティングを行う企業のGallupの調査によると、2020年4月時点で無党派層の割合は全体の36%とされています。(共和党31%・民主党30%)
トランプ政権は、この36%のうち死刑制度に賛成している人を取り込もうとしている訳です。アメリカのシンクタンクPew Research Centerの調査によると、アメリカ人の54%は死刑制度を支持しているとされているため、無党派層の半数がターゲットになっていると言えます。
政治に関連する統計調査を手がけるRealClearPoliticsの直近の発表では、トランプ(共和党)の支持率は40.3%に対し、バイデン(民主党)は49.3%です。トランプ陣営としては、無党派層の死刑支持派を取り込むことで、この差を挽回することも可能になります。
まとめ
以上、「次なる大統領選の争点!アメリカの死刑制度」でした。
17年振りとなる連邦政府による死刑執行は、トランプ政権が「法と秩序」を強く主張する姿勢を鮮明にしたと言えます。また、11月の大統領選に向けて死刑制度を支持する保守派や、悪事を働いた者には厳罰を加えるべきと考える人たちに大きなインパクトを与えました。
連邦政府は少なくともあと4件の死刑執行を予定しています。大統領選に向けて再び執行されるような事態になれば、トランプ政権の強硬姿勢はより強固なものになるでしょう。
8月の全国党大会、9月以降のテレビ討論会などで死刑制度を巡る共和党と民主党の衝突は避けられないと見られ、両者の印象は大統領選の結果にも影響しそうです。
大統領選において新たな争点となる死刑制度には今後も注目しておきましょう。
参考資料サイト
Gallup
https://www.gallup.com/home.aspx
Pew Research Center
https://www.pewresearch.org/
RealClearPolitics
https://www.realclearpolitics.com/
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