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アメリカの大統領 第7代 アンドリュー・ジャクソンについて

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はじめに

1829年から1837年までアメリカ第7代大統領を務めたアンドリュー・ジャクソンは初めての貴族出身ではない大統領、既存の政治界の外側から政界に飛び込んだ人物としても知られています。また、アンドリュー・ジャクソンは身を持ってしてアメリカ人であればどのような家庭環境であっても大統領になれることを証明した人物としても有名です。

その生い立ちや政治界での活躍や評価には様々な意見がある人物で、英雄、独裁者、インディアンの敵、初の暗殺の標的になった大統領などの異名があります。今回は波乱万丈の人生を送った大統領のひとり、アンドリュー・ジャクソンについて解説します。

「アンドリュー・ジャクソン」のプロフィール

アンドリュー・ジャクソンは貧しい家庭環境で育ち、まともな教育を受けることなく13歳のときに兄達と一緒に独立戦争に出向きます。独立戦争の際に長兄と次兄は病気で死に、自身は餓死寸前の状態でイギリス軍によって囚人として捕らわれます。

イギリス人将校の身支度の手伝いを断ったアンドリュー・ジャクソンは刀で斬りつけられて頭部と左腕を負傷します。その後、天然痘を患い、看病のためにやってきた母親はコレラによって命を落とします。アンドリュー・ジャクソンにとって家族全員をイギリスとの戦争で失ったことは憎しみを生み、その後の働きに大きな影響を与えることになりました。

独立戦争後は鞍職人の店で働いたり、教員として生計を立てました。貴族でもなく名門の生まれでもないアンドリュー・ジャクソンは法律を勉強して、田舎と呼ばれるエリアで弁護士として活躍するようになります。田舎での弁護士職は重宝され、土地問題や暴行問題などを次々と片付けていった働きが評判を呼び、1796年にテネシー憲法制定会議に選出され、テネシー州の下院議員に登り詰めます。

1828年の大統領選ではネガティブ・キャンペーンを展開し、ジョン・クィンジー・アダムズの私生活や無能さを引き合いに出す作戦で勝利し大統領に就任します。この時のアンドリュー・ジャクソンは米英戦争での働きや、大衆寄りの身分だったことが追い風になりアメリカの英雄になっていました。

大統領就任後は独裁的な一面も見せ、8年間の任期期間中に全閣僚に辞任を要求したり、インディアンの民族浄化、フランスと戦争寸前にまで関係を悪化させるなど物議を醸すことが多く起こりました。一方で、身分に関係なく英雄、大統領になれる姿を大衆に見せた功績は大きく、現代にも続くアメリカの英雄好きエピソードのひとつになっています。

「アンドリュー・ジャクソン」の経歴

1767年、アンドリュー・ジャクソンはスコットランド系移民の両親の元に生まれます。これまでの大統領経験者では考えられないような、生まれた場所が明確ではない人物です。生前、本人はサウスカロライナの松の木で出来た小屋の中で生まれたと主張していたものの、実際の生誕地は定かではありません。

貧しさ故に、十分な教育を受けることなく13歳で独立戦争にふたりの兄と一緒に参加します。14歳にして家族全員を失ったアンドリュー・ジャクソンはイギリスを批判するようになります。このイギリスへの怒りは1812年の米英戦争の際にアンドリュー・ジャクソンが英雄扱いされることに繋がります。ちなみに、アンドリュー・ジャクソンは独立戦争に参加した最後の大統領経験者です。

独立戦争後は弁護士として活躍し、1791年にはオハイオ川南部領政府の法務官になります。1796年にはテネシー州の下院議員、1797年には民主共和党から上院議員に選出されますが経済的事情を理由に辞任し、1804年までテネシー州の州最高判事を務めました。

この頃には法律や政治以外にも、奴隷を抱える農園主としても成功を収めていました。綿花農園の面積は倍以上に広がり、9人だった奴隷は150人ほどに増えていました。これまでの歴代大統領も奴隷を抱える農園を経営していたものの、解放には積極的でしたが、アンドリュー・ジャクソンは生涯にわたり奴隷を酷使し続けたとされています。


1812年、アンドリュー・ジャクソンの人生を変えることになる米英戦争(1812年戦争)が始まります。米英戦争でアンドリュー・ジャクソンはふたつの功績をあげます。ひとつは800名以上のインディアン(クリーク族)を虐殺し、政府に土地を割譲させたこと、そしてもうひとつがイギリス軍に奇襲攻撃をかけて勝利した1815年のニューオリンズの戦いです。

イギリス軍を相手に大勝したアンドリュー・ジャクソンが率いた軍隊は全国で英雄扱いされ、なかでもアンドリュー・ジャクソンはひときわ注目を集めました。この一件は大衆からの圧倒的な支持を受け、大統領に登り詰める大きな強みになりました。

また、1817年にはフロリダで行われたアメリカとインディアンの戦争であるセミノール戦争においてもセミノール族を大量殺害しました。ジェームズ・モンロー大統領から「紛争の終結」を命じられたアンドリュー・ジャクソンでしたが、行き過ぎた行動だったと物議を呼ぶことになります。結果的に、スペイン領だったフロリダはアメリカに買収され、1821年にアンドリュー・ジャクソンは軍政府長官に任命されました。

英雄という肩書きを手に入れたアンドリュー・ジャクソンは1824年には大統領選に選出されますがジョン・クィンジー・アダムズに敗れます。しかし、敗戦を機に有権者たちは大衆の候補者が貴族たちによって不正に排除されているという印象を抱くようになります。1828年の大統領選では庶民の支持を味方につけて勝利し、第7代大統領に就任します。

大統領就任後は「ジャクソニアン・デモクラシー(ジャクソン流民主主義)」と呼ばれる政治哲学を貫き、貴族や土地を持った人だけが選挙権を持てる時代から、一般人も政治へ参加できる時代への基礎を築いたとされています。アンドリュー・ジャクソンの支持者達によって一般白人男性に参政権を与える活動も活発化した時代で、アメリカの特権階級が崩壊した最初の時代と言えます。

ポイント1:ジャクソニアン・デモクラシー

アンドリュー・ジャクソン自身がそうであるように、一般白人男性が貴族や身分など関係なく大統領にまで登り詰めたことは「一般人の価値を高めた」功績として高く評価されています。敗れたものの1824年の大統領選は一部の州を除いて一般の白人が投票を許された初めての大統領選で、大衆の英雄だったアンドリュー・ジャクソンは一般投票では最多の票を獲得しています。

ポイント2:ニューオーリンズの戦い

1815年1月、米英戦争の末期、ニューオーリンズでイギリス軍を奇襲攻撃で壊滅状態にしたアンドリュー・ジャクソンの軍隊は全米から賞賛されました。貧しい家庭の出身であるアンドリュー・ジャクソンの活躍は大衆から支持され一躍英雄の名をものにしました。

しかし、実際にはニューオーリンズの戦いがあった2週間前に米英で講和を結ぶガン条約が締結していました。皮肉にもニューオーリンズの戦いは両軍に知らされる前に起こりました。

ポイント3:インディアン民族浄化

アンドリュー・ジャクソンはインディアンや黒人差別主義者として知られています。米英戦争やセミノール戦争で女性と子どもを中心にした大量虐殺を実行し、1830年にはインディアン強制移住法に調印し、インディアンから土地を奪い、白人が生活できないような西部へ強制的に移住させました。

このようにインディアンを目の敵にしていたアンドリュー・ジャクソンがインディアンを強制移住させたと思われがちですが、実はこの法案は第3代大統領のトーマス・ジェファーソンが立案したものにサインしただけです。

まとめ

アンドリュー・ジャクソンは現代にも続くアメリカの英雄好きの象徴とも言える人物です。また、アメリカが身分に関係なく誰でものし上がれる国であることを証明した人物でもあり、アメリカの一般人の地位を向上させる風潮を作った大統領だったと言えます。

アンドリュー・ジャクソンに関する豆知識

・大統領就任式の当日、英雄を見ようと詰めかけた一般人にホワイトハウスを解放した結果、泥酔者たちによってあらゆる物が壊されて壊滅状態になったそうです。
・教育が不十分だったため生涯にわたりスペルミスを繰り返したそうです。

本記事は、2019年1月21日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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