アメリカの大統領 第8代 マーティン・ヴァン・ビューレンについて

アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第八回目は、第8代大統領を務めたマーティン・ヴァン・ビューレンです。マーティン・ヴァン・ビューレンは歴代の大統領のなかでも唯一、英語を第一言語としない大統領です。

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はじめに

1837年から1841年までアメリカ第8代大統領を務めたマーティン・ヴァン・ビューレンは歴代の大統領のなかでも唯一、英語を第一言語としない大統領です。オランダにルーツを持つ家庭に生まれたヴァン・ビューレンはオランダ語アクセントが残る英語でありながら作文や話法に長けていた人物として知られています。大統領としては経済恐慌に翻弄された人物でもあります。

今回は歴代大統領のなかでも異色なルーツを持ったマーティン・ヴァン・ビューレンについて解説します。

「マーティン・ヴァン・ビューレン」のプロフィール

マーティン・ヴァン・ビューレン(以下、ヴァン・ビューレン)は裕福とは言えない家庭で育ち、最低限の教育しか受けずに幼少期を過ごしました。基礎教育を終える頃までにはラテン語を習得し、法律に関心を持つようになります。14歳のときには地元の連邦党員のオフィスで働き始めました。

1803年には弁護士として活動を始めニューヨークを拠点に名を広めていきます。後にコロンビア郡の代理人、ニューヨーク上訴裁判所などを経て、ニューヨーク州議員として法曹界から政界へ進むようになりました。

ニューヨーク州知事を務めていた頃にはアンドリュー・ジャクソンを支持し、アンドリュー・ジャクソンを大統領に押し上げた影の貢献者として有名になります。アンドリュー・ジャクソン大統領からも高く評価され、同政権下では国務長官を任されました。

アンドリュー・ジャクソン大統領の2期目には副大統領に指名され、名実共に後継者となります。アンドリュー・ジャクソンの片腕になったヴァン・ビューレンは弁護士時代の経験を生かした巧みな政治戦術でアンドリュー・ジャクソンの強行的な政策を取りまとめていきました。その姿からいつしか「小さな魔術師」というニックネームが付けられました。

1837年、アンドリュー・ジャクソンの後を継ぐ形で大統領に就任したものの、同年に起きた大恐慌の影響を立て直せずに失脚してしまいます。大恐慌という思わぬことが原因で大統領職を追われたヴァン・ビューレンはその後も2度にわたって大統領選に出馬しますが、いずれも敗れてしまいます。

「マーティン・ヴァン・ビューレン」の経歴

1782年、ヴァン・ビューレンはニューヨーク州でオランダ系の両親の元で生まれます。20人兄弟の3番目だったヴァン・ビューレンの父親は地元で人気があった酒場を経営し、農業も手がけていました。ヴァン・ビューレンが幼い頃には父親は6名の奴隷を保有していたとされています。

地元の小さな学校に通いながら基礎教育を受けたヴァン・ビューレンは、わずか14歳で法律学を学び始めます。同時に地元の政治家だったフランシス・シルベスターの事務所で6年間働きながら弁護士を目指すようになりました。そして、1803年にはニューヨークで25年にわたる弁護士業をスタートさせたのです。ヴァン・ビューレンは弁護士業で成功していた頃、政界へ進むことは考えてもいなかったとされています。

この頃、弁護士として大成を収めたヴァン・ビューレンは、民主共和党の分裂を機にジョージ・クリントンを支持するようになります。有能な弁護士であり、政治への結びつきが出来たヴァン・ビューレンは1812年にニューヨーク州議員に選出されました。1821年にはニューヨーク上院議員、1828年にはニューヨーク州知事に就任します。この頃には州を代表する民主党の実力者として知られるようになっていました。

1828年の大統領選では最も選挙人が多かったニューヨーク州でアンドリュー・ジャクソンを勝利させることに尽力し、大統領に就任したアンドリュー・ジャクソンはヴァン・ビューレン論功行賞を与えます。1831年からは駐英大使を務め、アンドリュー・ジャクソン大統領が2期目を迎えると同時に帰国します。


帰国した後、第二期アンドリュー・ジャクソン政権では副大統領に就任し、実質的な後継者として活躍します。当時、人口が多かったニューヨーク州でのヴァン・ビューレンの影響力は大きく、中央集権的な政治を嫌ったアンドリュー・ジャクソンの「州権主義」の支持を確立していきました。

1837年、アンドリュー・ジャクソン支持者達からの後援もあり第8代大統領に就任します。しかし、就任後に待ち受けていたのは後に「1837年恐慌」と呼ばれる金融危機でした。イギリスからの貸し出し抑制、綿価格の暴落、土地バブル崩壊、そして西部での投機目的の貸し出しなどアメリカ国内外で連鎖的に金融危機が起こり、失業率が25パーセントを超える地域もあったほどです。

1837年恐慌はヴァン・ビューレンが大統領に就任したわずか5週間後の出来事でしたが、責任の追求はヴァン・ビューレンに向けられました。ヴァン・ビューレンは恐慌に対しては政府不介入を決めますが、これが大きな誤りとなり、結果的に1840年代まで恐慌は続くことになったのです。恐慌の要因は前大統領のアンドリュー・ジャクソンにあり、解決できなかった要因はヴァン・ビューレンにあるとされています。

1期で大統領の座を降りることになったヴァン・ビューレンは故郷のニューヨーク州キンダーホックに戻り再起を誓います。1840年、1848年の大統領選で指名されますが、いずれもアンドリュー・ジャクソン支持派に反対していたホイッグ党の候補に敗れています。

1862年、ヴァン・ビューレンはおおよそ1年の寝たきり生活を経てこの世を去ります。ヴァン・ビューレンは、ニューヨーク州のキンダーホックで生まれ、キンダーホックに永眠しています。

ポイント1:アンドリュー・ジャクソンの懐刀

ヴァン・ビューレンはアンドリュー・ジャクソンを大統領就任前から徹底してサポートしていた人物です。とくにヴァン・ビューレンのお膝元であるニューヨーク州でジャクソニアン・デモクラシーを広め、公職や選挙権を得るための宗教資格や財産資格を撤廃させることに貢献しました。リベラルな風潮が強いニューヨークの原点にはヴァン・ビューレンの尽力があると言えます。

ポイント2:ペティコート事件の収拾

アンドリュー・ジャクソン政権で陸軍長官を務めたジョン・ヘンリー・イートンの妻だったマーガレットは、最初の夫が海軍勤務で留守がちだったため父親が経営するホテルで過ごしていました。そのホテルにイートンが度々宿泊していたことから政界内で噂が広まります。

副大統領のジョン・カルフーンはイートンを批判し、官僚の夫人たちもパーティーへの参加を拒否し、イートンとマーガレットの批判を長期間繰り返しました。仲裁に入ったヴァン・ビューレンとカルフーン副大統領の関係は悪化し、アンドリュー・ジャクソンの怒りを買う結果になります。

ヴァン・ビューレンは責任をとって自身とイートンが辞任し、その後にすべての官僚達も続くように進言します。この姿勢を評価したアンドリュー・ジャクソンはヴァン・ビューレンこそ後継者にふさわしいと決めたとされています。

ポイント3:1837年恐慌

大統領就任直後に起こった恐慌に対して後手になったヴァン・ビューレンはホイッグ党から政治介入を薦められたもののそれを拒否します。この結果、恐慌は長期化し政権交代の事態にまで発展しました。皮肉にもヴァン・ビューレンは民主党からホイッグ党への時代転換の原因になってしまったのです。

まとめ

ヴァン・ビューレンはアンドリュー・ジャクソンを支えた人物ですが、大統領就任後の恐慌によって失脚した不遇な時代の大統領だったと言えるでしょう。結果的にジャクソン政権の負の遺産を引き継いだ形になったのでした。

マーティン・ヴァン・ビューレンに関する豆知識

・アンドリュー・ジャクソンを徹底支持したのは政権に取り入るための策略で、論功行賞が目的だったと噂されています。
・ヴァン・ビューレンが現代に続く「コネ政治」を作ったとする歴史家もいます。

本記事は、2019年1月27日時点調査または公開された情報です。
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