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【日本の政策史その8】鎌倉幕府とは何なのか?国の権力について考える

日本の政策史シリーズ第8回は「イイクニつくろう鎌倉幕府」の語呂で有名な「鎌倉幕府」についてです。教科書などで誕生年が1192年から1185年に変更されましたが、歴史が変わるのはなぜなのかを説明しながら現代の歴史観について考察していきます。

2017年07月04日更新

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目次
鎌倉幕府とは?
鎌倉幕府が生まれた背景
鎌倉幕府について現代と照らし合わせて考察
まとめ 真実は何か? 「今」と「未来」ために働く公務員へ
【日本の政策史その8】鎌倉幕府とは何なのか?国の権力について考える

「イイクニつくろう鎌倉幕府」は語呂合わせの年代暗記で最も有名なものでしょう。しかし近年になって歴史は覆ってきています。鎌倉幕府の誕生は1192年ではなく、1185年であるという説が有力になってきたからです。予想される未来が変わることは当然ですが、過去に起きた歴史が変わるというのは不思議な話です。

なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

それは歴史が絶えず研究され、動いているからです。鎌倉幕府成立だけではなく、それ以外の歴史も見直され、教科書に記載される内容も変わってきています。例えば、日本最古の硬貨は?という問題であれば「和同開珎」と答える方が多いはずです。しかし現代では「富本銭」と教科書に記載されています。松尾芭蕉の「奥の細道」も現代では「おくのほそ道」に変更されたり、他国の読み方が変更されたりしています。未来のことばかり考えて過ごしていると、いつの間にか過去の歴史から置いてけぼりになる可能性があるわけですね。

さて、それでは本題になりますが、なぜ鎌倉幕府の成立の年は変わったのでしょうか。そこにはいろいろと複雑な事情があります。今回は鎌倉幕府とは何なのかについて紹介していくことで、現代の歴史観について考察していきましょう。

鎌倉幕府とは?

本来、幕府というのは「将軍の陣所、居館」を指します。源頼朝は鎌倉にあって全体の指揮をしていたので「鎌倉幕府」と呼ぶわけです。源頼朝が「今日から鎌倉幕府を始めよう」と宣言したわけではありません。つまり源頼朝には鎌倉幕府という概念がなかった可能性があります。私たちの学校で使用する教科書に鎌倉幕府が成立したのは1192年であると記載されていたのが、1185年に変わったりしたのはそのためです。

そもそも幕府というものの本質は何であるのかは未確定なわけです。

一般的には、幕府とは天下の武士を統括した武家政権のことになります。日本の歴史上では「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」しか存在しません。しかしこれは現在の話であり、今後どのように変更されるかわかりません。鎌倉幕府の誕生が1192年から1185年に変わったり、鎌倉幕府が日本初の武家政権だったのが変更になったりした前例があるからです。幕府の定義としては、トップが「征夷大将軍」であるという限定があるのでしょう。

例えば日本で初の武家政権は平清盛が率いる「平氏政権」とされています。しかしこれを「福原幕府」などとはいいません。それは平清盛が征夷大将軍ではなく、太政大臣だったからだと思われます。

同様に安土桃山時代には豊臣秀吉が天下を統一していますが、「大坂幕府」とはいいません。これは豊臣秀吉が武家の出自ではない点(平氏と自称していますが)、そのため征夷大将軍にはなれず、藤原姓に改姓し関白となった点などが幕府の定義に外れたためでしょう。

実際のところここに区別をつける意義はわかりません。天下の政治を牛耳ったという点では平清盛も源頼朝も変わりがないからです。ですからもしかすると将来的には「福原幕府」「大坂幕府」のように幕府の数が増える可能性もあります。

鎌倉幕府の特徴はいくつもありますが、大きく分けると二つです。一つは本拠地を鎌倉に置いたこと。もう一つは役職に執権を置いたことです。

源頼朝が鎌倉を拠点にした理由は、父である源義朝が鎌倉の亀ケ谷に館を構え、相模国一帯に強い影響力を持っていたことがあげられます。つまり地縁を頼ったが故に源頼朝は鎌倉を拠点にしたのです。

執権という役職は政庁の別当の中での責任者を指しています。鎌倉幕府は征夷大将軍のもと、政所、問注所、侍所、京都守護、鎮西奉行などの政務機関がありましたが、最も中心にあるのが政所です。当初は、この政所の一番の責任者を執権と呼んだようです。
1191年1月に行われた古事始では、政所別当は大江広元でした。そこから初代執権は大江広元であるという説もあります。

一般的にはその後、1203年、三代目将軍・源実朝の代に北条時政が大江広元とともに政所別当となります。北条時政の権力は絶大で、大江広元はおろか将軍すらも押さえ、専制を確立していきます。ここが執権の誕生としているのが有力な説です。

1213年には2代目執権の北条義時が侍所別当の和田義盛を倒し、侍所別当も兼任することになります。そして1219年に源実朝が暗殺されてからは源氏の嫡流が途絶え、鎌倉幕府は北条氏による専制政治すなわち執権政治となっていくのです。

つまり4代目の将軍からは縁戚の摂関家から将軍を迎え入れることになりますが、完全にお飾りの状態で、将軍の権力はまったくなかったことになります。

1333年、9代目将軍・守邦親王の代で鎌倉幕府は終焉を迎えました。執権である北条氏、さらに当時それ以上の権力を握っていた長崎円喜らは自害して果てています。

鎌倉幕府が生まれた背景

一般的には、天下を掌握した平清盛ら平氏一門に対抗して源頼朝らが挙兵し、源氏が勝利して平氏が滅びたと考えられがちですが、実際はそんなに単純な構図にはなっていません。源頼朝が源氏の棟梁であることは確かですが、それに加担した北条氏は平氏なのです。桓武平氏は様々枝分かれしており、その中の一派である坂東平氏も枝分かれしています。

一般的に「平家」と呼ばれるのは平清盛ら伊勢平氏になりますが、こちらは坂東平氏の嫡流です。それに対して関東に留まり勢力を伸ばしたのが坂東八平氏らです。伊勢平氏とは敵対関係になります。平氏の中でも権力闘争があったわけです。つまり源頼朝の強力な後ろ盾となっていくわけですが、その中でも外戚として力を振るうことになる北条氏もまた坂東平氏なのです。

簡単に説明すると、中央を牛耳っていた伊勢平氏に対抗するために源氏と坂東平氏が協力したわけです。鎌倉幕府はほとんどの期間を執権である北条氏に権力を握られていたわけですから、源氏の幕府というより平氏の幕府なのかもしれません。伊勢平氏は壇ノ浦の戦いで滅びましたが、その代わりに関東の坂東平氏が御家人として隆盛を極めます。

平清盛の専制→鎌倉幕府誕生→北条氏の専制と考えると、単純に源氏が勝ったとはいえないのです。

鎌倉幕府誕生の経緯

ここで鎌倉幕府誕生の経緯を紹介してみましょう。

太政大臣まで務めた平清盛の専制に対する反乱が鎌倉幕府を誕生させたのは事実です。

1180年に平清盛打倒の目指す以仁王が平氏追討を命じる令旨を発します。源頼朝は北条義時らを従えて挙兵しますが敗北。安房に逃げた源頼朝は上総、下総らの豪族を味方に引き入れ、勢力を増強し、鎌倉に入り、そこを拠点としました。

しばらくは平氏との戦いが続きますが、1183年に同族の源義仲が京都を占領し、平氏を追い出します。

しかし軍勢の統制がとれておらず京都は混乱に陥ります。ここで後白河法皇は源頼朝に権力を与え、源義仲追討を命じました。これが東国沙汰権というものです。東国の支配権を公認したのです。ですからここから鎌倉幕府が誕生したという説もあります。源氏同士でも権力闘争は起こっていることになります。

1185年に壇ノ浦の戦いで平家を亡ぼすと、今度はその功労者である源義経に謀反の疑いがかけられます。源義経は逃亡。ここで源頼朝はその逮捕のため、「守護、地頭を設置」する権利を与えられるのです。文治の勅許といいます。全国の軍事権・警察権を掌握したわけです。近年ではここを鎌倉幕府誕生としています。

1190年、源頼朝は征夷大将軍就任を願い出ますが却下され、権大納言・右近衛大将となり、公卿に列せられます。しかしすぐに辞任。やがて1192年に後白河法皇が崩御すると、正式に征夷大将軍に任命されました。

幕府の定義が、征夷大将軍がトップにいる武家政権であるならば、やはり鎌倉幕府成立は1192年となるわけです。

鎌倉幕府について現代と照らし合わせて考察

幕府の誕生は、武士に権力が移っていく歴史でもあります。

鎌倉幕府は紹介したように朝廷から少しずつ権限を与えられ力をつけていきます。この時点では朝廷と幕府は互いに補完しあい政治を行っていたわけです。

しかし1221年に鎌倉幕府の混乱に乗じて、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発します。世にいう「承久の乱」です。

北条政子が御家人に対し源頼朝以来の御恩を訴え、奉公を呼びかけます。これにより朝廷軍は敗北。後鳥羽上皇は流罪となり、朝廷監視役の六波羅探題が設置されます。朝廷は幕府に完全に従属することになるのです。

鎌倉幕府の滅亡

そんな鎌倉幕府がなぜ亡んだのでしょうか。

崩壊のきっかけは遠くに誕生したモンゴル帝国でした。1268年、1269年、1271年とモンゴル帝国は朝貢外交を幕府に迫りますが、幕府はこれを黙殺します。そして1274年、国号を元と定めたモンゴル帝国が攻め寄せます。文永の役です。1281年にも再び来襲しています。弘安の役です。

台風の影響もあり、なんとか勝利した幕府でしたが、恩賞を与えることができませんでした。新たな領地を得ることができなかったからです。御恩と奉公の関係が崩れ、御家人たちに不満が募ります。それが鎌倉幕府滅亡のきっかけです。

元による二度の来襲を「元寇」と呼びます。もしここで日本が占領されていたら大きく歴史は変わったことでしょう。元寇を退けた台風を「神風」と呼び、日本が神風によって守られているという信仰は第二次世界大戦まで続きました。

外国からの侵略は回避しましたが、鎌倉幕府成立以降も武士による日本人同士の武力衝突は繰り返され、江戸幕府成立まで日本は長く戦乱の時代を歩むことになります。まさに武士が時代の中心となっていきます。武士による暴力の歴史に終止符を打つことができるもやはり武士しかいなかったわけです。

その後の日本の政権

迷信じみた話ではありますが、その後の日本の政権は源氏と平氏が交互に担当しているともいわれています。平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→北条氏(平氏)→足利尊氏(源氏)→織田信長(平氏)→明智光秀(源氏)→豊臣秀吉(平氏)→徳川家康(源氏)これを源平交代思想といいますが、諸説あり信憑性は薄い話です。

源平交代思想は眉唾ですが、源氏と平氏の末裔が長く戦いあったのは紛れもない事実です。そこにはもちろん源氏同士の権力闘争、平氏同士の権力闘争もあります。

ある意味、その中で地方自治も盛んになっていくわけです。国力が弱まると中央集権が叫ばれ、さらに地方が疎かになると地方の独立性が強まる。そうして歴史は積み上げられて現代に至ることになります。

まとめ 真実は何か? 「今」と「未来」ために働く公務員へ

歴史の教科書が、その後の歴史の研究によって変わることに異議はありません。歴史の真実に近づいているのであれば、それが正論だと思います。学校で学習した知識がいつの間にか変わっていることには違和感はありますが、もう一度歴史について勉強する良いきかけになるのではないでしょうか。

公に仕える公務員として、正しい歴史を勉強しそこから吸収し学ぶことは学ぶ。反省すべき点は反省し、後世に活かすといった心がけが大切ではないでしょうか。

歴史を学ぶということは国のアイディンティティーを学ぶことであり、国の将来を考える大事な機会です。鎌倉幕府の成立が1185年でも1192年でも大差はないのかもしれませんが、改めて先人の業績を振り返り、私たちのより良い将来のために繋げていきたいですね。

(文:ろひもと理穂)

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