【江戸の3大改革】「寛政の改革」は「老中主導」による改革

公務員試験の歴史分野で頻出問題となる江戸時代の幕府政策3大改革解説シリーズ、今回は「寛政の改革」についてです。もちろん学校の授業でも学習する大事な単元ですが、年号や改革主導者、主な実施項目を覚えるのに精一杯ではないでしょうか。それ以前の政治と比較しながら寛政の改革を詳しくお伝えしていきます。

享保の改革、天保の改革と並び江戸三大改革の一つに数えられる「寛政の改革」。

1787年から1793年の6年間、松平定信が老中だった期間がこの改革の期間となります。

享保の改革が「将軍主導」だったのに対し、寛政の改革は「老中主導」です。

享保の改革が「新井白石の政治を否定するような改革」だったのと同様に、寛政の改革は「田沼意次の政治を完全否定する改革」になっています。

享保の改革が「質素倹約を合言葉に財政改革に取り組んだ」のと同様に、寛政の改革も「庶民にまで倹約を強要して財政改革に取り組みました」。

享保の改革を手本にしたという寛政の改革。どう違うのでしょうか。どんな成果をあげたのでしょうか。今回は寛政の改革について触れていきます。

田沼意次とはどんな人物?

田沼意次と松平定信の共通点

田沼意次と、その政治を廃するように実施された「寛政の改革」を主導した松平定信には共通点があります。何かお分かりですか?

どちらも老中ですね。それはそうですが、それ以外です。

二人に共通するのは、ルーツが「享保の改革」を行った8代将軍・徳川吉宗だということです。

え!?って感じですよね。実はこの共通点が、二人の政治に密接にかかわっています。

田沼意次と徳川吉宗の関係

田沼意次の父親は紀州の足軽です。それが息子の田沼意次の代には老中であり、相良藩5万7000石の大名です。

戦国時代であれば豊臣秀吉に代表されるように、武功をあげて出世することは可能です。豊臣秀吉は農民から関白まで異例の出世を遂げています。

しかし江戸時代に武功をあげる機会などありません。完全に身分制度社会です。

田沼意次が幸運だったのは、紀州藩主だった徳川吉宗が足軽の父親を連れて江戸城で将軍に就任したことでした。徳川吉宗は紀州藩の行く末を考えて重臣は残しています。その日、当番だった者を偶然連れて行ったとも伝わっています。

父親は徳川吉宗が将軍になったことで、幕臣に取り立てられ、旗本となります。田沼意次も将軍の側で仕えるようになり、出世していくのです。御側御用取次から1万石の大名へ、そして側用人、老中、相良藩藩主となります。

9代目将軍・徳川家重、10代目将軍・徳川家治に信頼を受けるようになるのです。

田沼意次は家柄や血筋ではなく、能力によって台頭していきます。

松平定信とはどんな人物?

松平定信と徳川吉宗の関係

田沼意次が武士の底辺から這い上がってきた人物にあるのに対し、松平定信はサラブレットです。エリートの中のエリートなのです。

松平定信が徳川吉宗の孫だからです。徳川御三家よりも将軍に近い徳川御三卿の一つ、田安徳川家の生まれです。

松平定信は徳川吉宗の次男・徳川宗武(田安徳川家初代当主)の七男として生まれました。長男から四男まで早出しており、幼い頃から聡明だったこともあって、いずれは田安家を継ぎ、さらには将軍位も継ぐのではないかと噂されていたほどです。

御三卿から白河藩藩主へ

しかし松平定信は当時の権力者である田沼意次の政治に批判的でした。そのために家格が低い陸奥白河藩藩主の松平定邦の養子に出されるのです。このときから松平定信は田沼意次を憎んでいたといいます。二度ほど刺そうとしたという話も伝わっています。

松平定信は、身分制度社会を疎かにする田沼意次の政治にも納得がいっていなかったのでしょう。

そんな失意の中、1783年、白河藩3代目藩主となった松平定信に未曽有の危機が訪れます。それが天明の大飢饉です。

天明の大飢饉

1782年から1788年の期間を指しますが、深刻化したのは1784年からです。天候不順で農作物の収穫が厳しい状況が続いている最中、1783年浅間山が噴火します。火山灰が降り注ぎ、日射量不足から東北地方は冷害が追い打ちをかけて、農作物は壊滅的なダメージを受けます。

弘前藩だけで見ても餓死者10万人。逃散も後を絶たず、人口は実に半分になったといいます。しかし松平定信が藩主を務める白河藩では餓死者はいなかったそうです。それは徹底的な領民救済処置をとったからでした。越後や江戸、大坂などから米を買い集め、それを領民に配給したのです。さらに開墾を奨励し、質素倹約を自ら率先しました。

松平定信が名君として語り継がれるのはこのようなことがあったからですね。
この藩政の建て直しが評価され、松平定信は幕政にも手腕を発揮してほしいと幕閣に名を連ねることになるのです。

寛政の改革が誕生した背景とは?

田沼意次の政治

田沼意次に課せられた使命、それは「財政改革」です。

幕府の財政はそれだけ悪化していたのです。何より優先しなければならないのは財政源の安定化です。農民は享保の改革より増税に悩まされ、一揆や打ちこわしが横行していました。さらに米相場が安定せず、給与として米の現物支給が基本である御家人や旗本は困窮していきます。

田沼意次は、米相場のコントールの難しさを徳川吉宗を観察して把握していたので、別の手段を用いることを決断します。

それが「貨幣経済の普及」でした。現代では当然のような話ですが、この頃はまだまだ現物支給などが普通に行われていたのです。商人への課税を柱にして財政の健全化を計ります。現代でいうところの法人税でしょうか。

有名なところでは「株仲間」の結成、こちらからは一定の冥加金や運上収入が見込めます。さらに「専売制」の実施、ここからは専売利益の一部が収入として見込めます。鉱山の開発。蝦夷地の開発。専売貿易の拡大、印旛沼の干拓などが、幕政の財源強化のために実施されています。

現代の「資本主義」「自由主義経済」がイメージに近いかもしれません。お金の持つ価値やその活躍の場が広がったともいえるのではないでしょうか。代償に贈収賄が横行します。役人と商人の癒着が問題視されるようになり、田沼意次の政治は利権賄賂政治とも呼ばれるようになるのです。

寛政の改革の誕生

田沼意次は実力主義の人材登用を行いました。田沼意次の出自がそうさせたのかもしれません。

当然のように譜代大名の不満は募りました。特にエリートの松平定信としては田沼意次のやることはすべて気に食わなかったのではないでしょうか。しかし時代のニーズは確実に田沼意次が握っていたのです。ですから譜代大名が逆転するのは難しい状況でした。

転機が訪れたのは天明の大飢饉です。重商主義は幕政だけでなく、藩政にも反映しており、米などの穀物よりもお金を集めることに夢中になっていた時期でした。余剰米として備蓄してあった米なども売りさばいています。農民自体が利益の薄い農業を棄て、江戸に大量に流入していました。農村の価値が下がり、荒廃しているところに発生した大飢饉だったのです。

米価は大幅に上がり、庶民には手が届かなくなります。こうなると田沼意次にはどうすることもできません。一揆の他、打ちこわしも頻繁に行われるようになったのです。1786年に将軍・徳川家治が死去すると、田沼意次は老中を辞任させられます。11代将軍には徳川家斉が就任し、老中首座には御三家に推挙された松平定信が就きました。田沼意次は息子を暗殺されており、ほとんどの私財を幕府に没収され1788年に病没しました。

こうして田沼意次の政治をすべて覆す「寛政の改革」が始まるのです。

ここで一つだけ細かい部分に触れておくと、松平定信を白河藩の松平家の養子に決めたのは、一橋徳川家の当主・治済です。この時点では田沼意次の権勢を恐れて松平定信を追いやった形です。しかし11代将軍となったのはこの一橋治済の四男・家斉でした。さらに松平定信が生まれた田安徳川家も跡継ぎがいなくなり、一橋治済の息子が養子となって家を継いでいます。一橋治済は将軍家と御三卿の一橋家、田安家を独占する形になったのです。すると反田沼意次派に鞍替えします。松平定信を老中首座に推挙し、さらに力をつけさせるべく将軍補佐に格上げするのです。まさに影のドンです。

寛政の改革とはどんな改革?

重農主義経済の復興

松平定信は田沼意次の政治で発生した問題を解決することになります。まずは帰農です。農民がいなければ農村は立ち行きません。江戸に流入していた農民に資金を渡し、自分の農村に帰るように指示します「旧里帰農令」です。しかし強制力がなかったことから効果はあまりなかったようです。

農業を重視し、上下の秩序を重んじる「朱子学」を幕府公認とします。聖堂学問所を「昌平坂学問所」と改め、朱子学以外の学問を禁じました。「寛政異学の禁」と呼ばれるものです。

質素倹約を庶民にまで徹底し、風紀を粛清し、出版統制も行っています。洒落本の「山東京伝」や黄表紙の「恋川春町」などが処罰されています。この極端な思想統制が文化の停滞も招き、庶民からも反発を受けました。

賄賂などもってのほかで、株仲間や専売制は廃止されました。松平定信は、物価高騰は株仲間などが市場を独占しているためだと考えていましたが、株仲間が廃止されても物価は安定しませんでした。むしろ冥加金や専売収入がなくなり幕政はひっ迫します。

現物支給の旗本・御家人の多くは札差(金融業)に借金をしている状態でした。そのために「棄捐令」を施行します。これは旗本・御家人の救済処置で、6年以上昔の債務は破棄、5年以内の借金については利子を引き下げるというものです。札差はこのために118万両の損害が出ました。幕府は2万両を出して、今度は札差を救済する「猿屋町会所」を設立します。ここで資金の貸し付けを行ったのです。つぶれる札差はほとんどなかったようです。理由は旗本・御家人が今回までの借金を踏み倒したところで、経済状況が改善されるわけではなく、今後もやはり札差に借り続けなければならなかったからでした。つまり一時しのぎの政策だったわけです。

福祉重視

飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するように指示されています。一般的にはこの制度を「囲米」と呼びます。

地元を追放された無宿人や浮浪者を一か所に集めました。治安対策のためと、職業訓練のためです。江戸「石川島」に大工や米つきの訓練をする「人足寄場」を設けました。

インフラ整備などのために町で積み立てる救済基金を指示しています。「七分積金」というもので、明治維新の際の江戸城無血開城では多くの余剰金が見つかり、東京の街づくりに一役買っています。

間引きの禁止。児童手当の支給を実施しています。1790年には二人目の子供の養育に金1両を支給しています。1799年にはそれが2両になっています。人口減少を食い止めようとする政策です。

こうしてみると寛政の改革は、財政改革というよりも福祉改革という風合いが強いかもしれませんね。

まとめ・寛政の改革について現代と照らし合わせて考察

松平定信は飢饉に備え福祉を充実し、横行する賄賂を取り締まりました。田沼意次の重商主義に対して、農民や農家の重要性を取り戻そうとする重農主義を推進しています。乱れた風紀も正しています。まさに清廉潔白な政治といえるでしょう。

しかし庶民は役人に清廉潔白を求めても、自分たちまでそれを強要されることを拒絶しています。時代もまた田沼意次の能力主義の人事と自由主義経済を望んでいました。時代と逆行する傾向の強い松平定信の政治に抵抗する勢力も存在し続けました。

大田南畝の言葉が残っています。「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」。

田沼意次の政治の長所を認め、バランスの良い改革を行っていたら、寛政の改革は大成功していたかもしれませんね。現代の政治にも通じる部分は多々あるのではないでしょうか。
清廉潔白でいて、時代のニーズを的確に掴んだ政治の舵取りを期待したいものです。

※補足 江戸の3大改革まとめ

1716~1745年 享保の改革(きょうほうのかいかく)中心人物:徳川吉宗(とくがわ よしむね)
1787~1793年 寛政の改革(かんせいのかいかく) 中心人物:松平定信(まつだいら さだのぶ)
1841~1743年 天保の改革(てんぽうのかいかく) 中心人物:水野忠邦(みずの ただくに)

(文:ろひもと 理穂)

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本記事は、2017年7月13日時点調査または公開された情報です。
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