国の財政を建て直すための財政改革は現代でも行われています。消費税の増税などはその典型でしょう。国や政府が財政面でひっ迫するのは今に始まったことではありません。江戸時代にも同じような状況はあったのです。むしろ現代よりも厳しい財政を抱えていたのが江戸幕府になります。
江戸幕府、8代将軍・徳川吉宗といえばテレビドラマ「暴れん坊将軍」で有名です。イメージとしては弱気を助け、強気を挫くような正義感溢れるヒーローですが、果たしてそんな人物が難しい財政改革などに着手できたのでしょうか。
そんな徳川吉宗の行った改革を「享保の改革」と呼びます。後世の評価は厳しいものがありますが、この改革が一定の成果をもたらせたのは事実ですし、だからこそその後に行われた「寛政の改革」「天保の改革」のモデルとなりました。
徳川吉宗はどのようにして財政改革を行い、成果に導いたのでしょうか。学校の授業でも習いましたが、はっきりとこれだと答えるのは難しいのですね。今回はそんな「享保の改革」について詳しく触れていきます。
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■徳川吉宗とはどんな人物なのか
徳川吉宗はなぜ名前に「家」が付かないのか
「中興の祖」とも呼ばれる徳川吉宗、江戸幕府の将軍の中では有能であることで有名です。歴史上のリーダーで有能であるかどうかの判断の一つは、その政策が成功するかどうかで決められます。徳川吉宗は財政難で苦しんでいた幕府を救った英雄なのです。
徳川家の代々の将軍の名前には、初代将軍の徳川家康にちなんで「家」の一字が用いられる傾向がありますが、なぜ徳川吉宗には「家」の一字が入っていないのでしょうか。
それは徳川吉宗の出生に答えがあります。父親は紀州藩2代目藩主である徳川光貞です。その四男として生まれました。紀州藩は御三家の一角を担う将軍家の一門です。しかし2代目将軍の徳川秀忠の嫡流ではありません。あくまでも親藩なのです。紀州藩、尾張藩、水戸藩をして徳川御三家と呼び、徳川宗家に次ぐ地位にあります。
血筋としては徳川家康の子孫です。しかし宗家の生まれではなく、さらに紀州藩においても四男ですから家督を継ぐ立場でもありません。将軍になるなど当の本人も含めて誰も想像していなかったことでしょう。ですから「家」の一字は拝領していないのです。
徳川吉宗は紀州藩主だった
そもそも徳川吉宗は当初、越前藩葛野3万石の藩主です。それが父や兄が立て続けに病没し、紀州藩の5代目藩主になったわけです。紀州藩主になっただけでも夢のような話ではないでしょうか。驚くべきことに徳川吉宗はまだ22歳でした。そして、ここから正式に徳川吉宗と名乗っています。
幼い頃はかなりの暴れん坊だったようで、その性格が将来、先例や格式にとらわれない思い切った改革の断行につながっていくのでしょう。22歳で紀州藩主になった際にも物おじせずに藩政を仕切っています。実は紀州藩も財政難に陥っていたのです。
徳川吉宗が紀州藩主だった期間は約10年です。この10年間で多くの改革に取り組んでいます。失敗も多かったと思いますが、成果を出した手法もありました。その一つが藩政機構の簡素化です。人件費も含め無駄なところにお金を使わないことを徹底します。さらに質素倹約です。徳川吉宗自身も木綿の服を着て模範を示しています。幕府に借りていた10万両を返済するなど、藩の財政は以前よりも着実に潤い始めていました。宝永地震の復興などにも資金を投入しています。
1716年8代目将軍に就任
病没するなどして徳川秀忠の嫡流が途絶えます。徳川宗家に男子がいなくなってしまったわけです。その場合は御三家から将軍を輩出することになります。徳川吉宗は徳川宗家の養子となる手続きを行い、御三家としては初の将軍となりました。
年齢は30代前半ながら、経験は豊富です。徳川吉宗は紀州藩から重臣ではない者40名を連れて江戸城に入城します。そして側用人として幕政の頂点にいた新井白石や間部詮房らを罷免しました。そして水野忠之を老中に任じたのです。この辺りの大鉈の振るい方からすでに「享保の改革」の一つといえるでしょう。
■享保の改革とは
幕府の財政改革「上米の制」「質素倹約」
人事に大鉈を振るっても財政状況が改善されるわけではありません。そこで徳川吉宗は紀州藩主時代に用いた手法なども試しながら財政改革を進めていくことになります。
幕府の財政を潤わせた改革の一つに「上米の制」があげられます。1722年より施行されることになるこの「上米の制」とは、各藩が1万石につき100石の献上米を幕府に納める制度のことです。幕府の財政を安定させることに直結しましたが、献上米を納めた藩は参勤交代の江戸在府の時期が1年間から半年に短縮することになり、将軍の権威は失墜し、諸藩が力を盛り返すきっかけを作ってしまいます。
さらに徳川吉宗は紀州藩主だった頃同様に「質素倹約」を実践、し無駄な出費を抑えることも実践しています。自らが木綿を愛用すると共に食事は一日二回、一汁一菜という徹底ぶりでした。贅を尽くした大奥の改革も行い、4000人もいた大奥勤めも1300人まで減らしています。ちなみにその後の働き口に困らないように美女を優先して解雇したとも伝わっています。
年貢強化で農民に負担
徳川吉宗は財源である年貢に目をつけます。1722年にはこれまでの検見法から「定免法」に切り替えました。豊作・凶作問わず一定の年貢を納めるというものです。歳入は安定します。さらに1728年には四公六民という税率を引き上げて「五公五民」としました。四公六民とはいえ実質は三割弱程度だったのが倍近くの税負担になったのです。1732年には享保の大飢饉があり一説には百万人近い餓死者を出したといわれています。このような中で年貢の負担が農民に重くのしかかり、人口は増えず、一揆が多発するようになります。
弱者の味方のイメージのある徳川吉宗ですが、財政改革のためにはシビアに農民に負担を強いているのです。ただし、一方で「享保の改革」では新田開発にも力を入れて、農民を応援もしています。開墾された土地に関してはすべて農民の収入にするとことになっており、治水などの事業も行って奨励しているのです。徳川吉宗はきっとwin-winの関係を農民と築こうとしたに違いありません。
財政再建だけではない「享保の改革」
徳川吉宗は財政面以外にも様々な手法を取り入れています。
1721年には「目安箱」を設置し、庶民の要求や不満に耳を傾けました。そこから設置されることになったのが貧病民を救済する「小石川養成所」になります。
「町火消」の組合の設置など、火事への対応策も実行されています。
「足高の制」では禄高が少ない者でも重用できる仕組みを作りました。
さらに流行していた贈収賄も取り締まっています。
刑事裁判の迅速化のために「公事方御定書」が定められました。
キリスト教に関係しない漢訳洋書の輸入も緩和されています。
飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培研究を青木昆陽に命じています。
このように「享保の改革」は他方面で新たな挑戦を試み、よりより国造りが目指されたのです。
■享保の改革が誕生した背景とは?
新井白石の「正徳の治」を廃止
当時、市場を混乱させた政策に「改鋳」があげられます。新井白石が正徳の治で行った改鋳は金貨の金含有率を戻すというものでした。そのためデフレーションが発生しています。徳川吉宗は旧金を回収し、含有量を50%近く低下させた吹替えを行い、元文小判を改鋳しました。これにより市場に1.5倍近い小判が出回ることになります。反動でインフレーションが発生しましたが、やがて市場は安定したそうです。吹替えの差益で幕府も潤いました。「享保の改革」の改鋳は成功した例としてあげられることが多いです。
徳川吉宗の政策はそれ以前の新井白石の政策を否定し、改善されたもののように捉えられがちですが、その傾向が強いというだけで、必要な政策は継続しています。例えば長崎の貿易において、海外への金の流出を防ぐために新井白石は輸入規制などを実施しましたが、徳川吉宗はそちらをそのまま踏襲しています。国政に何が必要なのかというものを正確に見抜く目を徳川吉宗は持っていたのかもしれませんね。
米相場の重要性
問題は米の価格でした。財源が年貢米なので、凶作で米が収穫できないのも困りますし、生産余剰で米の価格が下がるのも問題なのです。当時は米の生産性が上がってきた時で豊作の年も多かったようです。
実際にこの頃には嗜好品(諸色)などの価格が高騰するのに対し、米の価格は下落しています。米価安諸色高の傾向です。幕府も財政が苦しくなりますが、幕臣に支払う給与も米だったので幕臣たちも貧窮していきます。
徳川吉宗は大阪「堂島米市場」を公認にし、米価をコントロールしようとしました。徳川吉宗は将軍位を9代目の徳川家重に譲った後も「大御所」として君臨し続け、米相場に深く係わっています。徳川吉宗を「米将軍」と呼ぶのはそのような経緯があったからです。
幕府の財政問題は徳川吉宗の苦心の末にある程度改善されましたが、米価の調整に関しては不振だったようです。
■享保の改革について現代と照らし合わせて考察
現代でも財政難は至上課題です。高齢化社会が加速し、働く人口が少なくっていくこれからの日本において歳入、歳出のバランスは難しくなっていくことでしょう。
やはり増税しかないのでしょうか。「享保の改革」と同じく、増税についてはシビアに実行に移していかなければならいのかもしれませんね。
しかし他にも見習うべき点はあるでしょう。質素倹約は経済が活性化されないから嫌厭される言葉なのでしょうが、必要な工夫になるかもしれません。それぞれの機構の簡素化もポイントになるかもしれませんね。
そして何より必要不可欠なのは、徳川吉宗のような実行力があり、既存の制度に捉われないリーダーではないでしょうか。地方の成功のプロセスを中央の政治に活かそうとした点も評価ができる点です。
現代でも地方自治に成功している人はたくさんいます。そのノウハウは中央の政治にも有効かもしれません。
■まとめ
生まれ育ち共にその他の将軍たちとは異なり、プレッシャーなく自由奔放に育ってきた徳川吉宗だからこそ、この革新的な「享保の改革」が成し得たのでしょう。改革にはそんな独創的で、破壊的な側面も必要ですね。私は徳川吉宗からは最後まで国や幕政を良くするという決意と志を感じます。これこそがリーダーシップなのではないでしょうか。
固定観念にとらわれず、どうすれば理想に近づけるのか、妥協せず現実的に考え、実行に移せる徳川吉宗はまさに稀代の英雄です。
欲をいえば、もう少し農民たちの暮らしを配慮できる政策であれば文句なしだなと私は感じます。これからの日本にもこのようにリーダーシップを発揮できる人材が育ち、活躍してくれることを期待しております。
※補足 江戸の3大改革まとめ
1716~1745年 享保の改革(きょうほうのかいかく)中心人物:徳川吉宗(とくがわ よしむね)
1787~1793年 寛政の改革(かんせいのかいかく) 中心人物:松平定信(まつだいら さだのぶ)
1841~1743年 天保の改革(てんぽうのかいかく) 中心人物:水野忠邦(みずの ただくに)
(文:ろひもと 理穂)
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