はじめに
日本でもキャサリン妃のファッションが良く取り上げられていますが、時に胸にポピーの花の造花をしているのにお気づきでしょうか。
イギリスではポピーの花の造花を胸につけたり、自宅や学校の門、教会などに飾り付けたりすることが多くあります。
その由来となるポピーの花の歴史をたどってゆきましょう。
イギリス「リメンブランス・デー Remembrance Day」戦没者追悼記念日
イギリスでは、毎年11月11を「リメンバランス・デー」または「ポピー・デー」と呼び、第一次世界大戦終戦記念日として、戦没者の追悼式典が行われます。
現役または退役軍人とそのご家族などを支援するという目的で設立されている福祉団体ロイヤル・ブリティッシュ・リージョンが赤いポピーの花の造花をこの時期に販売し、その売り上げを支援活動費としています。日本の赤い羽根や緑の羽根と同じ様なシステムです。
なぜ『赤いポピー』が平和のシンボルとなったのでしょうか?
第一次世界大戦の戦場となった荒れ果てた荒野に赤いポピーの花が一面に咲き乱れていたことに端を発します。
その光景を目にした、カナダの軍人、医師、詩人でもあったジョン・マクレー氏が「フランダースの野に」という詩にしたためました。多くの人が戦争のために流した血がまるで赤いポピーとなって戦場に広がった光景を目にし、亡くなった戦友のことを思い書きしたためたものでした。彼も第一次世界大戦中に肺炎でこの世を去っています。彼の詩集は彼が亡くなった後、1918年に出版され多くの人が知るところとなったのです。
その詩に感銘を受けたアメリカ、ジョージア大学の教授でもあったモイナ・マイケルさんが第一次世界大戦に参戦し、戦没した軍人たちを思い、絹で作った赤いポピーを身に付けたのがその始まりです。
その理由から、彼女は「ポピー・レディ」と呼ばれ、彼女の活動はアメリカで浸透し始めます。1920年米国在郷軍人会が赤いポピーをシンボルとして採用し、ポピーの造花を販売して、退役軍人支援金を集めるようになりました。
この活動に参加していたフランス人女性アラン・ゲランさんが1921年に福祉団体ロイヤル・ブリティッシュ・リージョンの創設者と出会い、ロンドンで赤いポピーの造花を販売することを提案します。その売り上げによって出た利益は、イギリス軍またはその家族を支援する支援金として使われることとなり、現在のようにイギリス社会に浸透して行きました。
ナポレオン戦争の時代もポピーは咲き乱れていた
ナポレオン戦争においても戦後の荒野に赤いポピーの花が咲き乱れていたと言われています。戦前には全く咲くことのないポピーの花がなぜか戦後の荒野に花を咲かせ、戦争が終わり年月が過ぎるとポピーの花も次第に咲かなくなっていった事が今でも語り継がれています。
赤いポピー以外が意味するもの
1933年にイギリスの平和主義団体(Peace Pledge Union)が平和の象徴として『白いポピー』の花を採用しました。それ以外にも黒人の戦没者の慰霊として『黒いポピー』や戦争の犠牲となった動物たちのために『紫のポピー』を掲げる人達もいます。
まとめ
「リメンブランス・デー Remembrance Day」の時期になると街角やスーパー、商店街でよく赤いポピーの造花が販売されます。胸に着ける小さなものは1つ1ポンドから2ポンドで売られます。
現在では、2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻し、多くの犠牲者が出ていることもあり、戦没者追悼と平和祈願を含め、多くの人がその赤いポピーを常時身に着けています。身に着ける以外にも、自宅の門に飾ったり、車の前後に付けたりする風景が街で多く見られるようになりました。
今回の内容の参考・関連にしたサイト
1948.11.9 モイナ・B・マイケル – アメリカ郵趣研究会 (jps-ussg.com)(外部サイト)
なぜ赤いケシの花(ポピー)を身につけるのか?11月11日はリメンブランスデイ(戦没者追悼記念日)(後編) (furansu-go.com)(外部サイト)
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