「院政」、「平清盛」、このあたりの時代の流れや出来事はメジャーな内容もありますが、その背景はよく知られていません。保元の乱も平治の乱も平氏と源氏の戦いだと大きな勘違いをしているケースもあります。
よく調べていくと、この時代には日本の政治の主役がコロコロ変わっています。大きな変革の時だともいえるでしょう。長く日本の政治を支えて続けてきた藤原氏が衰退していくのもこの時期になります。
今回は政治の主役は誰だったのか、誰に移ったのかに注目しながら、院政と平家政権についてお伝えしていきます。
摂関政治とはどんな政治?
藤原北家による独占
藤原北家が政治の実権を握るようになったのは、藤原冬嗣の後継者である「藤原良房」からです。人臣としては初めてとなる太政大臣、摂政に就任しています。さらにその養子となった藤原基経も摂政、関白に就任。その子・藤原忠平も摂政、関白に就任しています。こうして藤原北家による「摂関政治」が始まったのです。
ポイントは天皇の外戚となることです。つまり娘を后とし、その子が天皇に即位することで外戚となり巨大な発言権を得たのです。藤原北家の最も有名な人物としては「藤原道長」があげられるでしょう。絶大な権勢を誇りました。藤原道長の子孫は「御堂流」と呼ばれます。藤原氏全体の長者のことを「藤氏長者」といいますが、藤原北家嫡流がこの藤氏長者となります。御堂流は藤原北家の中でも嫡流です。その藤原氏の代表が摂政、関白、または内覧となり政治を統率していくわけです。
後三条天皇の即位
藤氏長者による外戚政治が続くのですが、170年ぶりに藤原北家を外戚としない天皇が誕生します。それが「後三条天皇」です。当時の藤氏長者であった藤原頼道は落胆して、関白を弟の藤原教通に譲っています。
しかし後三条天皇の母は藤原道長の孫ですから、藤原北家との関係が完全に切れていたわけではありません。さらに後三条天皇の即位をバックアップしたのが、藤原北家の藤原能信です。藤原能信は藤原道長の子ですから、あくまでも藤氏長者が外戚ではないだけで、やはり藤原北家が係わっていたことに変わりがありません。
後三条天皇はこれを絶好の機会として改革を断行し、「荘園整理」を行いました。これにより藤原北家は経済面で大きなダメージを受けることになります。そして政治の主導権が公家から上皇に少しずつ移っていくのです。
院政が誕生した背景とは?
後三条天皇の後継者
後三条天皇は譲位し上皇となり、代わってその子である白河天皇が即位します。白河天皇の母は藤原北家の出ですが、御堂流ではありません。それとは別の閑院流です。しかし後三条上皇はさらに藤原北家を遠ざけるべく、源基平の娘を母に持つ実仁親王を皇太子としたのです。実仁親王を時期天皇とするため後三条上皇は院政をスタートしようとしていたという説もありますが、40歳という若さで崩御します。
次いで皇太子であった実仁親王が病没します。その後の皇太子まで後三条上皇は決めていましたが、白河天皇はこれを破棄し、異母弟ではなく実子である8歳の善仁親王を皇太子として、自らは即日譲位し、即位させました。こうして堀河天皇が誕生するわけですが、政治の舵取りは白河上皇が行いました。これが「院政」の始まりとされています。白河上皇は我が子を天皇に即位させるために院政をスタートさせたわけです。
摂関政治→院政
当時の一般大衆からすると政治の主導権が「摂関政治」から「院政」に移っても、違いには気が付かなかったかもしれません。民衆の生活に変化はなかったからです。堀河天皇の母は藤原師実の娘であり、藤原師実は藤原頼通の子です。藤原師実は外戚として藤氏長者となり、関白、摂政に就任していますので、院政と共に摂関政治もまた復活しているわけです。外から見ている限り変化はありません。
事態が急変するのは、藤原師実の後を継いだ藤原師通が急死したためです。その子・藤原忠実が若すぎることもあり、関白就任は見送りとなりました。ここで政治の主導権が院政に傾いたといえます。6年後に藤原忠実は関白となりましたが、政治的影響力は確実に薄らいでいます。堀河天皇が崩御すると、白河法皇は次に4歳の鳥羽天皇を即位させ、院政はさらに力を持ち、院政に係わる「院の近臣」が権勢を強め、院を守る「北面の武士」が台頭することになります。
こうして天皇の母方の外戚である藤原北家が政治の中心にいた「摂関政治」は終焉を迎え、天皇の父方、つまり上皇が政治を行う「院政」に移行していったのです。
平家政権が誕生した背景とは?
院政→武家政権
貴族が政治のトップにいた時代から、上皇が政治のトップにいる時代を迎え、さらに武士が政治のトップにいる「武家政権」の時代に突入していきます。武家政権はリーダーを変えながら、その後700年もの長きに渡り続くことになるのです。
なぜ武士が頂点に立てたのでしょうか。それは朝廷の勢力争いが過激になったからです。政争が政治的な駆け引きではなく、実力行使、つまり武力による直接的な解決の手法で行われるようになりました。軍事力を使用した武力衝突が発生したのです。1156年の「保元の乱」、1160年の「平治の乱」がそれです。すると武士のニーズが高まり、功績によって大きな出世を遂げる者が現れます。紛争が続けば続くほど、武士は力をつけていくことになりました。武家政権を誕生させた最大の功労者は公家だともいえるのです。
保元の乱
1141年に鳥羽法皇は閑院流徳大寺家の藤原璋子との子である崇徳天皇を退位させ、末茂流の藤原得子との子である近衛天皇を即位させます。しかし近衛天皇が1155年に崩御。崇徳上皇の子である重仁親王を天皇とするか、藤原得子の養子となっていた守仁親王を天皇にするのかで話し合いがもたれ、守仁親王に決まります。そして守仁親王が天皇に即位するまでの中継ぎとして、守仁親王の実父である後白河天皇が誕生します。
このとき藤原北家は揉めに揉めていました。関白であり藤氏長者だったのは、藤原忠実の子の藤原忠通です。しかし子に恵まれず、異母弟の藤原頼長を養子に迎えていました。ここで藤原忠通に藤原基実という子が生まれました。藤原忠通は実子を後継にしたいと願うようになり、父である藤原忠実や養子に迎えた藤原頼長と対立するのです。
実は守仁親王を皇太子に推したのが藤原忠通になります。さらに強い影響を及ぼしたのが藤原南家出身の信西でした。信西は重仁親王が即位すれば崇徳上皇の院政が始まること鳥羽法皇に告げ、これを回避したのです。信西は鳥羽法皇の第一の寵臣でした。
1156年に鳥羽法皇が崩御すると、信西・藤原忠通らが先制攻撃を仕掛けることになります。藤氏長者となっていた藤原頼長とその父である藤原忠実を謀叛人として邸宅を没収し、荘園で兵を集めることを禁じました。追い詰められた藤原頼長らは崇徳上皇を掲げて対抗。さらに平氏と源氏の武士を二分し武力衝突することになるのです。
源氏は源為義が崇徳上皇側につき、子の源義朝は後鳥羽天皇側につきます。平氏も平清盛が後鳥羽天皇側につき、平忠正が崇徳上皇側についています。勝敗は兵力で勝る後鳥羽天王側が勝利し、崇徳上皇は流罪、藤原忠実は幽閉、藤原頼長は敗死します。藤氏長者の座は藤原忠通の手に戻るものの、藤原頼長が罪人として処罰を受けたために藤氏長者の任命には宣至が必要となり、藤原北家の独立性が否定されることとなりました。また、源義朝は自らの武功と引き換えに父と弟たちの助命を願い出ましたが、信西によって許されなかったそうです。
慈円は愚管抄で、この乱が武者の世の到来となったと記しています。政治の主導権は信西が握ることになりました。しかし、没収した荘園の整理や荘官の管理、寺社の統制、京都の治安維持などに軍事力は必要不可欠となり、北面の武士の中で最大の兵力を有する平清盛はさらに優遇されていくことになります。
平治の乱
政治の実権を握った信西への反発が次第に大きくなっていきました。後白河天皇は源義朝と親交のある藤原信頼を抜擢し、権力の回復を目指します。1158年に後白河天皇は譲位し、二条天皇が誕生します。後白河上皇は院政を開始しました。
1160年に平清盛が熊野参詣に向った隙を突いて、藤原信頼を中心にした反信西派がクーデターを起こします。信西は逃亡しますが自害。平清盛は帰京する途上でそれを知り、西国への落ち延びることも検討しましたが、周囲の協力もあり、京都に戻ります。
政治の実権は、信西を倒した藤原信頼に移っています。しかも二条天皇と後白河上皇を押さえていました。一方で、藤原信頼は平清盛と婚姻関係を結んでいたので油断もあったようです。平清盛は婚姻関係を解消し、婿に入っていた藤原信頼の嫡子を返しています。隙を見て二条天皇は平清盛の本拠地である六波羅への行幸に成功。反乱者とされた藤原信頼は捕らえられて斬首、源義朝も関東へ落ち延びている最中に味方に裏切られて殺されました。
平清盛とはどんな人物?
伊勢平氏である平忠盛の長子で、棟梁の座を受け継いでいます。1129年わずか12歳にして従五位下・左兵衛佐に任命されたことから白河法皇の子ではないかという説もあります。
安芸守に任じられ、瀬戸内海の制海権を有したことで莫大な富を築いたとされています。保元の乱後は、知行国が5ヶ国から7ヶ国に増加。強大な兵力を持つとともに、朝廷から任されている警察権を活用して京都の治安維持、地方の統治、荘園管理なども平氏一門で独占しました。
1167年には3ヶ月間だけ太政大臣に就任しています。娘の平徳子が高倉天皇に入内。1179年にはクーデターを起こして福原から上洛、反平氏の公家を解任しています。これは公家と武家の上下関係が逆転したことを世間に示すことになります。関白である藤氏長者ですら平清盛の逆鱗に触れて、京を追放されてしまったのです。平清盛はさらに後白河法皇を幽閉し、院政を完全に終了させました。1180年に高倉天皇が譲位し、平徳子の子である安徳天皇が即位します。
こうして平清盛は天皇の外戚となり、日本で最初の武家政権を誕生させたのです。しかし出る杭は打たれる世の中でした。平清盛への反発が火種となり、各地で反乱が発生します。
まとめ・院政・平家政権について現代と照らし合わせて考察
平家政権は日宋貿易によって、宋銭を日本で流通させ、通貨経済の基礎を築いたことでも有名です。福原(現在の神戸市)に目をつけ、私財を投じて大輪田泊を大修築しています。貿易面・経済面に精通していた点が、平氏の大きなアドバンテージになったことは確かなようです。
こうして日本は暴力が支配し、武力がものを言う中世の時代「武士が主役の時代」に突入していくことになります。平清盛が病没した後、その一門は壇ノ浦の戦いで滅びますが、力を付けた武士が各地でどんどん台頭していく世の中になっていきます。この流れが、江戸幕府が滅ぶまで続くことになるのです。
院政・平家政権の誕生は、これまで長く続いていた「摂関政治」に代表される「公家による統治」を終わらせ、新しい「武士による統治」へのターニングポイントとなったのです。
既存の勢力の油断と失政が、新しい勢力を台頭させるきっかけを作る。これは現代の政治にも当てはまることなのかもしれませんね。
(文:ろひもと 理穂)
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