「東洋の奇跡」といわれた日本の「高度経済成長」について
1945年(昭和20年)8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦・中華人民共和国といった連合国に降伏します。第二次世界大戦の終結です。
日本は国力のすべてをつぎ込み、多くの国民の犠牲を払った戦争に敗れたのです。原子爆弾を投下されて廃墟と化した都市もありました。大都市の多くが空襲のために焼け野原となった状態から復が始まったのです。
もちろん朝鮮半島や満州といった植民地はすべて喪失しています。まさにゼロから、いえ、マイナスからのスタートとなりました。しかし、そんな逆境だらけの環境であっても、日本国民は決して挫けませんでした。
終戦後、わずか10年での「高度経済成長」は「東洋の奇跡」と呼ばれた
終戦後、10年を待たずして日本は大きな経済成長を成し遂げました。
戦前を凌ぐ「高度経済成長期」に突入するのです。そして、アメリカをして、英語では「Japanese miracle」、「東洋の奇跡」といわしめた驚愕の復興を実現させます。
はたして日本はどのような過程を経て、ここまで大きな成長ができたのでしょうか。もちろん現代の私たちも大きな震災や災害から立ち直る日本の逞しさを見てきています。おそらく、その原点がこの終戦からの時期にあるのではないでしょうか。
今回は、終戦の年にあたる1945年(昭和20年)から第1次オイルショックのあった1973年(昭和48年)までの期間にスポットを当て、戦後の日本の「高度経済成長」について考察していきます。
「高度経済成長」を学ぶ上で押さえておきたい豆知識
まず、「高度経済成長」を学ぶ上で、押さえておきたい豆知識として、主な歴史的出来事の年号と、内閣についてご説明します。
また、「高度経済成長」をもたらすきっかけとなった朝鮮戦争による「朝鮮特需」についても解説します。
「高度経済成長」に関する、重要年号暗記
まず、この時期に覚えておくべき年号を7つご紹介します。現代の政治問題にも繋がる重要事項が多いので、しっかり押さえておきましょう。
1)国民がひどく喜ぶ(1946年)、日本国憲法公布
2)いくぞの号令(1950年)、朝鮮戦争
3)ひどく強引な(1951年)、日米安全保障条約、サンフランシスコ平和条約
4)そろそろ行く頃(1956年)、国際連合への加盟
5)開催はひと苦労よ(1964年)、東京オリンピック
6)行くぞ夏に(1972年)、沖縄復帰
7)ひどく涙の(1973年)、オイルショック
「高度経済成長期」の内閣
実質経済成長率が年平均にすると10%以上となる期間を、「高度経済成長期」と呼びます。その期間は「19年間」です。1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までになります。
「高度経済成長」のスタート時期の内閣は、日本民主党の第一次鳩山一郎内閣になります。その後、第二次、第三次鳩山内閣と続きますが、「高度経済成長」の終了時期は自由民主党の第二次田中角栄内閣です。
鳩山一郎内閣はソビエト連邦との国交正常化、田中角栄内閣は中華人民共和国との国交正常化に貢献しています。
「高度経済成長」のきっかけとなった、朝鮮戦争による特需景気
日本の「高度経済成長」には、朝鮮戦争による特需景気が大きく関係しています。どのように「高度経済成長」が始まるのかを解説します。
1948年「朝鮮戦争」が「高度経済成長」のきっかけ
第二次世界大戦後も朝鮮半島は連合国の統治下にありました。北緯38度線を境に北側はソビエト連邦、南側はアメリカが分割占領することを話し合いで決めたのです。これは日本がポツダム宣言を受諾し、朝鮮が解放された後も変わることがありませんでした。
1948年、北側には朝鮮民主主義人民共和国が、南側には大韓民国が建国されます。1950年にはソビエト連邦と中華人民共和国の支援を受けた朝鮮民主主義人民共和国が、大韓民国に攻撃を始めます。朝鮮戦争の勃発です。
これにより大韓民国は滅亡寸前まで追い込まれることになり、アメリカ軍中心の多国籍軍は大苦戦しました。首都であるソウルも一時は陥落しています。その後は中華人民共和国による軍事介入もあり戦線は膠着。1953年にようやく停戦協定が結ばれました。こちらの停戦は現代まで続いています。
10億ドルにもなる「朝鮮特需」が「高度経済成長」を呼ぶまで
朝鮮戦争に伴い、アメリカ軍から日本は膨大な量の発注を受けることになります。テントや軍服などの調達のために繊維産業が大いに潤いました。鋼材やコンクリート材料、食料や車両部品など、3年間の特需は10億ドルといわれています。さらに間接特需は36億ドルともいわれているほどです。
そんな最中の1952年に日本はIMF(国際通貨基金)、IBRD(国際復興開発銀行)に加盟します。ちなみにこのときの日本は、国際収支の赤字を理由にして為替の制限が許されているIMF14条国の扱いでした。少しずつ日本は国際舞台に復帰していくのです。
「神武景気」(じんむけいき)とは?いわゆる「高度経済成長」のはじまり
1954年には、ついに「高度経済成長」が本格化します。「高度経済成長」がもたらしたこの好景気は「神武景気」と呼ばれますが、その名前の由来や、好景気の理由などをご紹介します。
もはや戦後ではなくなる「1954年」が「高度経済成長元年」
1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までの期間を「神武景気」と呼びます。最初の天皇・神武天皇が即位したとされる紀元前660年以来、例を見ない好景気という意味でつけられました。日本史上最大の好景気だったわけです。
神武景気をもたらした最大の要因は朝鮮特需になります。これにより日本経済は大きく拡大することになったのです。1953年の時点ですでに戦前の経済状況の最高水準を上回っていました。1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」と、復興が成し遂げられたという宣言が記されています。1945年の敗戦時の壊滅的な状況から日本は完全に立ち直ったのです。
日本国民の生活必需品も変化しており、「三種の神器」として「白黒テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」が登場しています。テレビ放送は1953年より開始されていました。ビールなどの飲料水も冷蔵庫で冷やして飲むと美味しいということで販売数を伸ばしています。洗濯などの家事の時間が軽減したことで女性の社会進出のきっかけにもなっています。
「高度経済成長」により、日本は国際経済へと進出することに
しかし日本の貿易が自由化されていたわけではありません。まだ保護された状態です。為替、貿易ともに制限がかかっていました。1955年に日本は、GATT(関税と貿易に関する一般協定)に加盟していますが、国内の産業を守るために輸入の数量制限をしています。これをGATT12条国と呼びます。制限がなくなり自由化されるのは1963年のことです。
国際社会への復帰という観点からすると1956年には、日本は国際連合にも加盟しています。日本は1952年のサンフランシスコ平和条約発効と同時に国際連合への加盟を申請していましたが、ソビエト連邦の反対があり実現できませんでした。1956年に日ソ共同宣言によってソビエト連邦との国交が正常化され、国際連合に加盟することができたのです。こうして国際的な日本の立場も向上されていきます。
「岩戸景気」(いわとけいき)とは?「高度経済成長」はさらに続くことに
「神武景気」の後、さらに日本には長期的な好景気の時期が訪れます。「高度経済成長」の中盤を盛り上げた「岩戸景気」の名前の由来や、好景気が続いた理由について解説します。
海外からの投資と工業地帯の発展による「好景気」で再び「高度経済成長」へ
1958年(昭和33年)7月から1961年(昭和36年)12月にかけての好景気を「岩戸景気」と呼びます。神武景気よりも長期に渡り好景気だったことから、さらに時代を遡って、天照大神が天の岩戸に隠れて以来、例を見ない好景気という意味でつけられました。
海外からの資本も流入しています。設備投資が好景気をリードしており、次々と他業種の設備投資に波紋を広げていくことから「投資が投資を呼ぶ」と経済白書に記されています。
エネルギーは石炭から石油に代わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並びました。鉄鋼、石油化学の臨海工業地帯が多数生まれることになります。
戦後解体されていた財閥も株式を持ちより銀行などを中心に立ち直ってきています。
「高度経済成長」を進めるための「開放経済体制」への移行
1960年に池田勇人内閣は「国民所得倍増計画」を閣議決定します。10年間で国民所得を倍増させ、26兆円を突破することを目標に掲げていました。鉄道などの社会資本を整備し、産業構造を重化学工業中心に誘導していきます。重化学工業による生
産性の向上により自由貿易を勝ち抜くことが明記されています。
岸信介内閣が掲げた貿易為替自由化大綱は池田勇人内閣に引き継がれ、40%程度だった自由化率は、1962年には90%に迫るところまで上昇しています。日本が先進国の仲間入りをするためには、貿易の自由化は必要であり、それなくして国民所得倍増計画は成し得ないと考えていたからです。
こうして日本では「開放経済体制」と呼ばれる、国際的な貿易や為替の自由化による経済成長が進み、さらに好景気が続いていきました。
「いざなぎ景気」とは?オリンピックで「高度経済成長」を世界に知らしめる
日本の「高度経済成長」の後半を締めくくる好景気が、東京オリンピック特需などによる「いざなぎ景気」です。オリンピックからはじまり、大阪万博開催などに向けた高速交通の整備が、日本経済を成熟させていく過程をご紹介します。
東京オリンピック特需による、「高度経済成長」を締めくくる好景気
1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月までの好景気の期間を「いざなぎ景気」と呼びます。これまでの神武景気、岩戸景気を上回る好景気だったことから、さらに時代を遡り、天照大神の父神で日本列島をつくったとされる「いざなぎのみこと」から命名しました。
これには1964年に開催された東京オリンピックによる特需や、1970年に開催された大阪万博による特需の影響も強いとされています。東海道新幹線や東名高速道路なども整備され、大都市間の高速交通が可能になっていきます。
「高度経済成長」が、ついに日本「を国民総生産(GDP)世界第二位」へ押し上げる
日本国民の生活必需品もさらに変化しました。こちらは「3C」と呼ばれる、「カラーテレビ」「クーラー」「自動車」になります。トヨタのカローラといった低価格の自動車が開発され、マイカーブームが起こりました。
所得向上に伴い、消費も大幅に伸び、1968年には国民総生産(GDP)が西ドイツを抜き世界第二位となっています。
原油などの資源を安価で手に入れることができ、1ドル360円という固定相場制が日本の自由貿易の追い風となりました。鉄鋼、電気製品などの輸出量が伸び、さらに国が国債を発行して公共投資を拡大したことで日本はアメリカに次ぐGDPを生み出すことに成功したのです。
まとめ - オイルショックから、「高度経済成長期」の終焉へ
19年間続いた「高度経済成長」は、石油危機、いわゆるオイルショックをきっかけに終わりを迎えます。このページのまとめとして、「高度経済成長」のその後に起きたことを解説します。
「高度経済成長期」のその後
1973年に中東問題に関連して原油の輸入価格が急騰します。実に4倍以上に跳ね上がりました。石油危機、石油ショック、オイルショックなどと呼ばれています。日本の国際収支は一気に赤字となりました。そして1974年に日本は戦後初のマイナス成長となるのです。
1979年にも第二次オイルショックが起き、原油価格が2倍以上となっています。このときの日本はすでに前回の教訓を活かして省資源化しており、ダメージは少なく、短期間で危機を乗り越えています。
こうして「高度経済成長期」は終焉を迎えるのです。
「高度経済成長」のようにはいかなかった。その後の「バブル期」と「いざなみ景気」
その後、1986年から1991年にかけてバブル期に突入しますが、実体経済とはかけ離れたバブル経済であったために崩壊します。
さらに2002年から2008年もいざなみ景気と呼ばれますが、実質成長率は低調なものでした。さらにリーマンショック以降には景気後退期を迎えています。
「高度経済成長」の弊害
日本は「高度経済成長期」を通じて国力を取り戻しましたが、同時に多くの問題も生み出しています。一つは工業化に伴う環境破壊の問題です。公害病なども発生し、「水俣病」や「イタイイタイ病」「四日市ぜんそく」など人的被害も多く出ています。さらに大量生産、大量消費が求められたためにゴミ問題も浮上しています。
多くの電気を供給するためにつくられた原子力発電所も現代では大きな問題となっています。地方の人口が減り、都市部に集中したために人口の過密問題や過疎化の問題も起きました。
「高度経済成長」を支えた日本国民の底力の可能性
しかし、廃墟と化した敗戦後の苦境からこの高度経済成長を生み出した日本人の底力は高く評価すべきです。「勤勉」であり「努力家」な国民性がこの復興の原動力となっていることは間違いないでしょう。「東洋の奇跡」とも呼ばれる日本の復興は、他国の発展の模範にもなっています。資源がなくても技術で補えることを証明したのです。
環境問題などを通じて、「本当の豊かさ」というものにも目が向けられるようになり、日本はさらに新しい成長を遂げようとしています。多くのことを経験してきた日本だからこそ発揮できるリーダーシップがあるはずです。これから先の日本の成長も実に楽しみですね。
(著者・ろひもと理穂/編集・公務員総研)
あわせて読みたい -「高度経済成長」の関連記事
》【老朽化から管理、再整備まで】日本のインフラを巡る問題点を再考
道路や上下水道、通信網に至るまで、社会生活を送る上で欠かせない存在がインフラ整備です。ところが、私たちが日ごろ当たり前に使っているインフラに今危機が訪れています。ここでは、今日本が抱えるインフラの諸問題と、対策について解説しています。
(更新日:2020年11月6日)
コメント