受刑者「彼」との会話は「話変わるけどサ」から始まる
「センセ、センセ! 話変わるけどサ」
毎回このひと言から話を始める受刑者がいました。まだ何も話していないのにいきなり「話変わるけど」と言われて、最初は(何だコイツ、まだ何も話してないじゃん。バカか)と思ったのですが、その後知能が低い受刑者だと知り、まあいわゆる正真正銘の「バカ」ですので(失礼)、以後は気にしないようにしました。
ちなみに「センセ」とは刑務官のことで、刑務所では刑務官をはじめ職員のことを「先生」と呼ぶよう指導されているのです。
困った受刑者「彼」の「ガス抜き役」に任命された「私」
彼は処遇現場の困り者とされていました。工場(作業場)で仕事をしているとだんだん不機嫌になり、急に大声を上げたり、隣の受刑者とケンカを始めたりと、落ち着きがないというのです。知能が低いために工場担当職員の言うこともよく理解できないので、担当はほとほと困り、処遇部門で協議した結果、1日に1回定期的に面接してガス抜きをしてみようということになりました。
そしてその相手として指名されたのが私だったというわけです。まだ若くて大した戦力にもならない私でもできるだろうと考えられたのかもしれません。
ガス抜き役ですから、言ってみれば小一時間ほど話し相手になればいいだけです。(こんな楽な仕事はない。ラッキー!)と考えた私はやはりまだ未熟者でした。
「話変わるけどサ」の落とし穴
実は、「話変わるけどサ」で切り出した彼の話はほとんど毎回同じだったのです。自分の生い立ちに触れた後、刑務所では自分の犯した罪について反省し、1日も早く仮釈放で出られるように頑張る、といった内容です。
それを毎回繰り返します。これが意外に苦痛なのです。彼のこれから話すだろう内容はほとんど分かっています。その話を「ウン、ウン」と初めて聴くように相手をするのはなかなか辛い。
「ガス抜き役」に耐えかねて
ある日、堪忍袋の緒が切れて、「それで、〇〇〇〇…なんだろ?」と彼の話を先取りしました。すると彼は顔を真っ赤にして怒って、立ち上がり、
「なんでセンセ、そんなこと知ってんの! オレ、まだ何も話してないのに!!」
と言うのです。
そして担当職員の所に行って文句を言い始めました。これでは私の役目が果たせないどころか、かえって迷惑をかけることになってしまいます。
私は反省し、ひたすら彼に陳謝し、何とか興奮を抑えてもらえるよう懇願しました。こうなるとどちらが受刑者でどちらが職員か分からなくなります。それでもやっと興奮を収めてくれて、仕切り直しの話が始まりました。出だしは、やっぱり「話変わるけどサ」でした。
「彼」を怒らせないように話を聴くことの大変さ
話の先取りをしないまでも、いい加減に聴いているふりをすると彼はそれを敏感に感じ取って怒り出します。この辺の観察眼は知能とは関係ないのかもしれません。だから真面目に相手をしなければなりません。それを1時間続ける。これはとてつもなく長い時間で、もはや苦行でした。
困り者の「彼」が売り子になれた理由とは?
毎回ほとんど同じ話を聴く中で、それでも稀に別の話をしてくれることもありました。そういうときは、私は心から喜んで強く「ウン、ウン」と相づちを打ちます。
そのような数少ない話の中で私が特に感心したのは彼が社会で売り子をやっていたという話でした。テキヤの手伝いをして、商品をお客さんに売っていたというのです。でも彼は数を数えることができません(確認済み)。だったらどうしてお釣りを渡せるのだろう。騙されたりしないだろうか。
そういう疑問を抱いた私は彼に訊いてみました。すると彼は得意げに話してくれました。
「そんなもの簡単だサ、センセ。箱の中サお釣りを入れておいてサ、勝手に持っていかせりゃいいんだサ」
つまり、お釣りの金額は客が計算し、その箱の中から取らせるというのです。そしてその際、彼は客をジロリと睨むのだそうです。そうすれば客は騙したりしないと、彼はドヤ顔で話してくれました。私はその知恵に感心すると同時に、知能の低い彼を雇ってちゃんと仕事をさせていたテキヤの懐の深さとそのテクニックに感動すら覚えたのでした。
「ガス抜き役」から解放!のはずが…
こうやってごく稀に新しい話を聴き、あとはほとんど毎日同じ話を聴く日々を積み重ね、1年ほどして彼はようやく満期で釈放となりました。(やれやれ、これでようやく苦行から解放された。)と喜んだ私に、次の日先輩が教えてくれました。
「やっこさんさ、刑務所から乗ったタクシー代を踏み倒して捕まったとさ。また来るぞ。ご苦労さん。」
(小柴龍太郎)
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