国風文化の特徴(文学作品)
仮名文字の文学の流行
「国風文化」は、日本独自の文化が大きく花開いた10世紀から11世紀の平安時代最盛期にあたります。華やかな貴族文化の象徴ともいえる時期です。
これまでの文化と大きく異なるのは「女性の感性」が強く反映されるようになったことです。これは藤原北家を中心にした摂関政治の影響であり、そこに取り入るために中流貴族はこぞって子女に教育を施しました。優秀であれば皇后となるだろう藤原北家の子女に仕えることが許されるからです。
国風文化は、唐風文化を基礎にして発展した日本文化の誕生であると同時に、女性の感性を融合したまったく新しい文化となっていきます。
その代表が「仮名文字」の登場でしょう。これまでの漢詩以上に感情豊かに表現することが可能になりました。洗練された当時の女性たちは、この仮名文字で自らの気持ちを綴り、後世までベストセラーとなるような作品を誕生させていきます。
有名なエピソードでは、和歌で有名な「紀貫之」が女性を装ってかな文字を使い、「土佐日記」を綴ったというものがあります。情熱溢れる女性の作品に強く惹かれるものがあり、真似をしてみたかったのかもしれません。
清少納言と紫式部
国風文化の文学で最も有名な二人といえば、なんといっても「清少納言」と「紫式部」でしょう。ほぼ同世代ですが、清少納言の方が先輩であり、宮廷で働いた時期が異なることから二人に面識はなかったとされています。
清少納言はバツイチの作家です。独特の感覚をエッセイで表現しました。それが随筆「枕草子」になります。「をかし」という知的な面白さに注目し、日常生活や四季折々、宮廷社会について綴っています。枕草子は「日本三大随筆」一つに数えられる名作です。
その後、有名になるのが、藤原道長という権力絶大なスポンサーを得た紫式部です。彼女もバツイチですが、清少納言のような価値観の不一致による離婚ではなく、夫とは死別になります。そのためか長編物語「源氏物語」は、華やかな貴族社会を舞台にしながらも「もののあはれ」という無常観を根底にした哀愁いっぱいの作品になっています。江戸時代の国学者・本居宣長は、もののあはれを知ることは、人の心を知ることに等しいと語っています。
ちなみに後輩となる紫式部は清少納言に対して、漢字などもよく間違えていると辛口です。ライバル感情は強かったようですね。
その他の有名文学作品
有名な物語が多く創作されています。「竹取物語」「伊勢物語」「うつほ物語」「落窪物語」などがあげられます。落窪物語はまさにシンデレラストーリーです。
日記風に綴ったエッセイも多く創作されました。「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」「更級日記」「御堂関白記」などが有名です。漢文で書かれた「小右記」などからも当時の貴族社会の様子や価値観が読み取れます。
詩歌では漢詩ではなく、仮名文字が用いられた初の勅撰和歌集「古今和歌集」が、醍醐天皇の命で、紀貫之らによって編纂されました。藤原公任は漢詩集の「和漢朗詠集」を編纂し、その中で仮名文字の和歌を掲載しています。紀貫之の和歌はこちらにも多く登場します。
漢文と万葉仮名で国語辞典・百科事典も源順によって編纂されています。それが「和名類聚抄」です。
国風文化の特徴(絵画作品・建築物)
大和絵の誕生
「大和絵」は、中国大陸から伝来した「唐絵」とは題材が異なり、日本の人物や風景をテーマにしています。障子や屏風に描かれることが多かったようです。有名な作品としては、東寺に伝わり京都国立博物館に保管されている国宝「山水屏風」があります。
仏教絵画としては最古の「涅槃図」とされる高野山「仏涅槃図」が国宝に指定されています。後述する浄土教の普及によって「来迎図」も描かれるようになり、その中でも高野山「阿弥陀聖衆来迎図」が国宝指定です。
「平等院鳳凰堂壁扉画」も浄土教の影響を受けており、来迎図となっていますが、背景は大和絵風です。こちらもまた国宝に指定されています。
貴族邸宅は「寝殿造」
この時期に最も有名な建造物は、世界遺産にも登録されている京都の「平等院鳳凰堂」でしょう。開基は藤原頼道です。後述する浄土教の影響を強く受けており、鳳凰堂は阿弥陀堂と呼ばれていました。まさに極楽浄土の再現ともいえる素晴らしい荘厳さです。
貴族の邸宅も豪華さを増しており、「寝殿造」と呼ばれる建築様式を用いて建てられました。これがやがて書院造に発展し、現代の和風住宅へ受け継がれていくことになるのです。このように国風文化の中に和風住宅の起源もあるのです。
国風文化における仏教の変化
末法思想から浄土信仰の普及
弘仁・貞観文化では、平安京の遷都により、奈良仏教とは別に平安仏教「密教」が誕生しましたが、国風文化では信仰がさらに変化します。原因はこの時期に広まった「末法思想」です。天台宗の最澄は末法の世の到来を予言していました。
ここで、不安が募る世相と共に広まっていたのが「浄土信仰」というものでした。「念仏」を唱えることで極楽浄土に往生するというものです。「浄土教」の開祖は鎌倉仏教の法然とされていますが、その礎はこの時期に固まっていったのです。
市の聖とも呼ばれる「空也」は庶民に念仏を広めました。「源信」はその著書である「往生要集」でわかりやすく極楽浄土と地獄を伝えています。こうして浄土信仰は貴族、庶民問わず信仰を集め、阿弥陀如来の来迎図が盛んに描かれるようになり、平等院のように阿弥陀堂も建てられていきました。
寄木造による仏像造り
大木を必要とする一木造による仏像造りは衰退し、替わって主流になっていったのが「寄木造」です。別材を組み合わせて仏像を造ることができるようになりました。この技術を完成させたのは「定朝」といわれています。貴族からは本物の仏のようだと絶賛されたようで、細い目のおだやかな瞑想顔の仏像は定朝様式とも呼ばれます。
定朝が造ったとされる仏像で現存するのは、唯一、平等院鳳凰堂の「阿弥陀如来坐像」だけです。国宝に指定されています。平等院鳳凰堂には他にも木造の「雲中供養菩薩像」があり、こちらも同様に国宝です。
京都にある日野氏の氏寺で、開基が最澄と伝わる「法界寺」も末法思想の影響で阿弥陀堂が建てられ国宝に指定されています。その中に安置されている定朝様式の「阿弥陀如来坐像」もまた国宝です。
院政期文化の特徴
絵巻物の代表作
11世紀後半から12世紀にかけて、朝廷内の権力争いから摂関政治が衰退し、武士が勢力を持ち始めます。その狭間にあるのが上皇や法皇による院政時期です。地方にも中央の文化が広がっていきます。
物語や説話を連続した絵によって表現する「絵巻物」がブームになったのがこの時期にあたります。現在の日本を代表する文化となった「漫画」の起源とされていますので重要ですね。
日本四大絵巻はすべて国宝に指定されており、紫式部の源氏物語を表した「源氏物語絵巻」、信貴山で修行する僧侶の物語を表した「信貴山縁起」、応天門の変などを表した「伴大納言絵巻」、動物を擬人化していることで有名な「鳥獣戯画」の四作品となります。
文学作品の代表作
文学では歴史に関する作品が目立ちます。「今は昔」で始まる仏教説話集「今昔物語」だけは遥か昔のインドなどの話を掲載しています。
軍記物語では二作品が有名です。一つは、武士の誕生のきっかけともいえる関東の「平将門の乱」を綴った「将門記」です。さらにもう一つは、東北の反乱「前九年の役」を綴った「陸奥話記」になります。ともに漢文です。
歴史物語としては摂関政治の経過もよく把握できる編年体の「栄花物語」があります。こちらは仮名文字も用いられています。これに刺激され、藤原北家、特に栄華を極めた藤原道長にスポットを当てて書かれたのが、紀伝体の歴史物語「大鏡」です。四鏡の最初の作品となります。次に書かれた「今鏡」も院政期文化の作品とされています。
平安時代の中期に誕生したとされる歌曲「今様」をこよなく愛した後白河法皇は、それらを後世に伝えるべく「梁塵秘抄」を編纂しています。
院政期文化における仏教の変化
浄土信仰の地方への普及
国風文化期から広がりを見せ始めた「浄土信仰」は、遠く岩手県まで浸透していっています。浄土信仰の建築物として有名なのが、平泉の「中尊寺金色堂」です。奥州の豪族・藤原清衡が建立した阿弥陀堂になります。安置されている木造の阿弥陀如来坐像や観音菩薩立像、勢至菩薩立像、地蔵菩薩立像などとともに国宝に指定されています。仏像の表情などから定朝様式が見て取れます。
福島県には藤原清衡の娘が建立したとされる「白水阿弥陀堂」があり、こちらも国宝に指定されています。九州の大分県にも国宝「富貴寺大堂」があり、こちらも阿弥陀堂になっています。関東だけではなく、東北地方や九州地方にも浄土信仰は広まっていたことを示しています。
密教もまた各地に伝えられており、山岳修験の場としては、鳥取県の「三仏寺の奥の院」が「投入堂」の名前で有名です。断崖絶壁に建立されており、国宝に指定されています。各地の阿弥陀堂に安置されている阿弥陀如来坐像も密教・曼荼羅の定印を結ぶものも見られ、浄土信仰は密教の要素を取り込みながら広まっていったと考えられます。
その他の建造物には「日本三景」の一つに数えられる広島県の「厳島神社」があります。こちらの神社は飛鳥文化の頃より存続していますが、大規模な社殿が建立されたのは院政期で、平清盛によるものです。中尊寺同様に国宝並びに「世界遺産」に登録されています。
神仏習合「本地垂迹説」
中国大陸より伝来した仏教と、古来より日本に伝わる神道は「神仏習合」によって共に信仰されるようになっていましたが、末法の日本を救うべく「仏が神の姿に変えて民衆を導く」という思想が誕生します。日本の神々は仏の権現だとする考え方です。それが「本地垂迹説」です。
例えば「天照大神」は「大日如来」の権現であるとされています。熊野三山の神々は阿弥陀如来・薬師如来・千手観音の権現とされ、熊野三山は浄土の地であるということから院政期には歴代の上皇が「熊野詣」を行っています。後白河法皇だけでも30回を超えるとされています。同様に高野山を訪れる「高野詣」も多くの人を集めました。
後白河法皇は仏教の保護にも積極的で、平清盛と共に京都に「蓮華王院本堂」を建立しています。国宝に指定されており、「三十三間堂」の名称で知られています。ただし安置されている仏像は鎌倉時代以降のものばかりです。
まとめ
「国風文化」「院政期文化」を経て、日本はいよいよ本格的な武士の台頭する時代に突入していくことになります。武士の文化が芽生える以前に、日本には女性の感性が最も尊ばれる文化があったのです。そしてこの文化が後世の文学作品に大きな影響を及ぼすことになります。日本独自の文化を誕生させたのが、女性が活躍していた時期であることは興味深いですね。
また、末法思想が反映し、救済を求めて浄土信仰が盛んになったのもこの時期の特徴になります。平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂などの日本文化を代表する建築物を誕生させることにもつながります。
ここから日本は長きにわたり武士同士がぶつかり合う戦国乱世の時代となっていくのです。
著者・ろひもと理穂
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