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江戸時代、享保の改革と寛政の改革の合間にあった宝暦・天明文化とは

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目次

宝暦・天明の文化の背景

前後にある改革とは

江戸時代を区分していくと、幕府に財政的に余裕ができた時期と、財政が厳しく引き締めが行われる時期が交互に存在していくことに気が付きます。財政難に陥ると幕府は改革を行いますが、それが江戸時代の中で有名な三つの改革です。

「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」ですね。江戸時代が試験範囲であれば、かなり高い確率で出題されてくる内容になります。なぜ改革が行われたのか、問題はその時期によってやや異なるものの、それだけ社会が貧窮し、庶民が苦しんでいたことを示しています。

江戸時代の文化が注目され、発展するのはちょうどこの改革の合間にあたります。幕府が引き締めを行っている中では、文化に対する締め付けも厳しかったといえるのではないでしょうか。

ですから「文化発展」→「改革」→「文化発展」→「改革」→「文化発展」→「改革」という規則性、周期が生まれたのでしょう。

具体的には「元禄文化」→「享保の改革」→「宝暦・天明文化」→「寛政の改革」→「化政文化」→「天保の改革」という流れになります。

今回ご紹介する「宝暦・天明文化」は「享保の改革」で一定の成果が出てきた後になります。「享保の改革」を行ったのは8代目将軍の徳川吉宗です。「寛政の改革」は11代目将軍の徳川家斉の時期になりますから、その合間にあたる「宝暦・天明文化」は9代目将軍の徳川家重、10代目将軍の徳川家治が在位していた時期です。

田沼意次の活躍と資本主義化

とはいえ9代目将軍に徳川家重に就任した頃は、大御所として徳川吉宗は健在で、「享保の改革」は続いていました。幕府の財政を立て直すための「享保の改革」は庶民に厳しい生活を強いることとなり、増税に耐えられなくなった農民による一揆が続きます。

ここに一石を投じることとなったのが、旗本600石の「田沼意次」です。彼は徳川家重に重く用いられることとなり、1758年には1万石の大名となります。次の将軍の徳川家治の信任も厚く、1769年には老中首座となり、1772年には5万7千石の相良藩藩主となりました。

権力の中心にいた田沼意次は再び悪化していく幕府の財政を立て直すべく、経済政策をどんどん行っていきます。株仲間を結成し冥加金という税金を課し、商人の専売制も進み運上金という税金を課しました。景気は良くなりましたが、収賄などが横行するという問題も生まれています。

田沼意次は古い慣例を捨て、身分を問わず能力に優れた人材を登用し、実用的な「蘭学」を保護し、奨励しています。文化に対して比較的寛容だったこの時期が「宝暦・天明文化」であり、田沼意次の経済政策の恩恵を受けた江戸の武士や上層町人を中心にして活性化していくのです。

以前は、江戸の文化は「上方町人を中心に栄えた元禄文化」と「江戸町人を中心に栄えた化政文化」の二つに大きく分けられていましたが、化政文化の中でも田沼意次が活躍した時代は、上層町人が中心だったこともあり、化政文化とは分けられることが一般的になっています。


その後、浅間山の噴火や天明の飢饉によって社会は混迷し、怒りの矛先は賄賂政治を主導するとされる田沼意次に向けられて打ちこわしなどが頻発しました。やがて田沼意次は失脚。老中首座となる松平定信が「寛政の改革」を推し進めていくことになるのです。

つまり「宝暦・天明文化」は徳川吉宗が亡くなった1751年から田沼意次が死去する1788年ごろまでを指すことになります。18世紀中盤から後半にかけてです。「化政文化」は19世紀に入ってからという区分になるのです。

保護され発展した蘭学

「エレキテル」を修理した平賀源内

田沼意次はオランダ経由のヨーロッパの文化・技術に高い関心を示していました。このような西洋文化を学ぶ学問を「蘭学」と呼びます。宝暦・天明文化は、有名な蘭学者を多く輩出した時期となりますが、その中でも田沼意次とパイプを持っていたのが「平賀源内」です。

平賀源内は蘭学だけにこだわらず、本草学や浄瑠璃、俳諧などにも興味を持ち才能を発揮しています。人脈も豊富で当時の最大権力者である田沼意次の他、蘭学者の「杉田玄白」や錦絵の「鈴木春信」とも交流がありました。

平賀源内は西洋文化を積極的に吸収し、油絵や鉱山開発などを広めました。1776年には破損している「エレキテル」を入手し、修理・復元に成功しています。後世にはこの一面が強調して伝えられたために「平賀源内=発明家」というイメージに繋がったようです。

ちなみにエレキテルは平賀源内が発明したものではありません。オランダで発明され、医療の現場などで使用されていた静電気発生装置が日本に輸入されたものです。しかし破損し、それを誰も修理できなかったようですね。平賀源内自身もよくわからずに修理した結果、奇跡的に復元できたとも伝わっています。

ちなみに「電気」が実用化されるのは、江戸時代が終了して以降のことになります。

翻訳して刊行された「解体新書」

この時期の蘭学の象徴といえば、解剖学の書を漢文に翻訳した「解体新書」でしょう。こちらはドイツの医師・ヨハン・アダム・クルムスの著書「ターヘル・アナトミナ」がオランダ語訳されたものを、当時の蘭学者たちが必死になって翻訳したものになります。

翻訳の中心人物としては、中津藩藩医でオランダ語の知識がわずかにあった「前野良沢」、小浜藩藩医の「杉田玄白」が有名です。他にも本草学の中川淳庵らの名前も見られます。オランダ語の知識に乏しく、翻訳には4年もの月日を要しました。完成は1774年とされています。ここで神経という言葉や、動脈という言葉が誕生しました。

杉田玄白らが評価されるのは後世のこととなり、杉田玄白が大槻玄沢に送った手紙で、回想録とされる「蘭学事始」を明治の世に福沢諭吉が刊行したことによります。

解体新書はその後の医学の発展に大きな影響を及ぼしただけでなく、オランダ語の理解を深めることにも貢献しています。

ちなみに前野良沢は、徳川吉宗から甘藷(サツマイモ)の栽培を命じられた「青木昆陽」の弟子にあたります。青木昆陽が広めた甘藷は、この時期に起こった「天明の大飢饉」で大いに役立ったと伝わっています。

宝暦・天明文化を代表する絵画

「文人画」の与謝蕪村と池大雅

摂津の生まれで江戸に出て俳諧を学んだ「与謝蕪村」は、松尾芭蕉や小林一茶と並び江戸時代を代表する俳人です。松尾芭蕉をリスペクトし、東北行脚も行っています。京都に住むようになったのは40歳を過ぎてからになり、俳諧だけではなく、絵画でも才能を発揮しました。

中国大陸から伝わった「文人画」(南画)とは、絵画専門の職人以外の文人が描く絵画でのことです。与謝蕪村は文人画を描き、そこに自らの俳句を書き記しました。文と絵の両方で世界観を表現したのです。国宝に指定されている作品に「池大雅」との合作である「十便十宜図」があります。

与謝蕪村と共に文人画で有名なのが、池大雅になります。京都に生まれた池大雅は書が達筆であることで注目を集めましたが、その後、文人画を学び、国宝となる十便十宜図の十便図を完成させます。その他、東京国立博物館に展示されている「桜閣山水図」も国宝に指定されています。


「浮世絵」の喜多川歌麿

元禄文化では菱川師宣が浮世絵師として有名でしたが、宝暦・天明文化には江戸で「喜多川歌麿」が登場し、浮世絵は最盛期を迎えることになります。

喜多川歌麿は役者絵なども描いていますが、注目を集めるのは美人画になります。無名の遊女に目をつけて描くことが多かったようです。喜多川歌麿に取り上げられた遊女は一躍人気者になれたと伝わっています。

浮世絵は性質上、国宝に指定されることは困難で、重要文化財に指定されることも稀です。喜多川歌麿の作品の多くがアメリカのボストン美術館で展示されており、日本に残る作品で重要文化財の指定を受けているのは「更衣美人図」くらいになります。

浮世絵師としては「東洲斎写楽」も世界的に評価が高いのですが、活動時期が1年間に満たず、さらに東洲斎写楽の自身の詳細も不明なことばかりなので、試験などに出題されることはほとんどないと思われます。

鈴木春信の「錦絵」とは

喜多川歌麿よりも先輩にあたるのが浮世絵師「鈴木春信」です。喜多川歌麿と同じように美人画で才能を発揮しています。当時は裕福な商人たちが「暦」を交換する集会がブームになっており、その暦に描かれる絵も次第に豪勢になっていきます。そして多色摺木版画が誕生するのです。

やがて暦の交換が廃れると、多色摺木版画だけが売られるようになりました。これを「錦絵」と呼びます。まさに錦織物のように豪華な浮世絵であり、その第一人者が鈴木春信です。作品は東京国立博物館やボストン美術館に展示されています。

宝暦・天明文化を代表する文学

俳諧と川柳

先述したように、宝暦・天明文化では与謝蕪村のような俳人を輩出していますが、俳諧から派生した「川柳」が誕生した時期にもあたります。俳句と同じように五・七・五で構成されていますが、現代の「サラリーマン川柳」のように季語などのルールは除かれています。

当時の庶民の心情や、世相・風俗を表現しているのが特徴でしょう。政治批判に繋がるものとして幕府の取り締まりを受けることも多かったようです。特に寛政の改革や天保の改革の時期には厳しい扱いを受けています。

洒落本、黄表紙、狂歌

詳しい内容までは試験に出題されることが少ないですが、代表する人物は出題される可能性があります。

「洒落本」は、遊女との駆け引きのマニュアル本のようなものです。「黄表紙」は大人向けの絵本で、現代の漫画のようなものになります。「狂歌」は短歌です。五・七・五・七・七で社会を風刺しています。

代表する人物としては、幕府の処罰も受けている浮世絵師の「山東京伝」。洒落本だけでなく黄表紙の作品も多く執筆しています。同じく浮世絵師の「恋川春町」は黄表紙の第一人者で「金々先生栄花夢」などの作品を残しています。

狂歌師としては「大田南畝」が有名です。「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」も彼の作品ではないかといわれています。

「国学」の本居宣長

儒学や仏典研究といった渡来の宗教や学問を批判する「国学」が一大ブームになったのもこの時期になります。日本古来の価値観を重んじるもので、幕府が柱とする儒学に対抗するものとして体系化されていきます。やがて尊王思想と結びついていくのです。

国学で有名なのは「古事記伝」の著者である「本居宣長」でしょう。源氏物語にも精通しており、「源氏物語玉の小櫛」などの作品もあります。

国学を学んだ「上田秋成」は、ホラー小説とも呼べる「雨月物語」を完成させました。怪異小説ではありますが、学校の国語の教科書に掲載されるほどの完成度の高い作品です。

まとめ

上方中心に盛り上がった「元禄文化」に負けない華やかさがあり、そこに風俗や社会風刺が混合しているのが「宝暦・天明文化」の特徴でしょう。その後の寛政の改革や天保の改革を通じて、風俗取り締まりと、言論統制が行われ、やがて落ち着きのある「化政文化」へと時代は変わっていきます。

この宝暦・天明文化を化政文化に組み込むと、話が変わってくることを補足しておきます。

著者・ろひもと理穂

本記事は、2017年12月30日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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