試験問題「日本の文学」シリーズ!第一回:「日本古典文学」

公務員試験問題の人文科学の思想・文芸分野「日本の文学」についての解説シリーズ第一弾です。公務員総研では、そんな日本の文学をいくつかのシリーズに分けて解説していきます。今回は、奈良時代から鎌倉時代に誕生した「日本古典文学」を解説して解説します。


今回解説する日本古典文学は、奈良時代から鎌倉時代に誕生した以下の作品です。

▼歴史書
奈良時代の歴史書「古事記」「日本書紀」

▼和歌集
奈良時代の和歌集「万葉集」
平安時代の和歌集「古今和歌集」
鎌倉時代の和歌集新古今和歌集」

▼物語
平安時代の物語「竹取物語」「伊勢物語」「源氏物語」「栄花物語」「大鏡」「今昔物語」
鎌倉時代の物語「宇治拾遺物語」「平家物語」

▼日記
平安時代の日記「土佐日記」「蜻蛉日記」「更級日記」
鎌倉時代の日記「十六夜日記」

▼随筆
平安時代の随筆「枕草子」
鎌倉時代の随筆「方丈記」「徒然草」

それでは各作品について説明していきます。

「古事記」について

「古事記」は、奈良時代に文官である太安万侶(おおのやすまろ)によって編纂され、 712年に元明天皇に献上された書物であり、日本最古の歴史書とされています。古事記の基本となったのは、天武天皇の時代に古事記の編集者の1人である稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた内容であり、それを太安万侶が編集して古事記として書物化しています。

古事記は上巻、中巻、下巻の3巻で構成されています。

古事記 上巻の内容は「日本神話」です

上巻は、主に日本神話に登場する神々が活躍する様が記載されています。イザナギとイザナミの2神による国生みや天照大神・素戔嗚尊・月読命の3神の誕生から、大国主命の国譲り、天孫降臨など、日本神話における有名なシーンが、上巻にて詳しく記されています。なお、日本神話では、天孫降臨で降り立った神の子孫が、神武天皇であるとされています。

古事記 中巻の内容は「初代天皇を始めとする天皇の話」です

中巻は、日本初代天皇である神武天皇から15代の応神天皇までが君主として世の中を収めていた時代が描かれています。神武天皇の東征、景行天皇の息子であるヤマトタケルの活躍や三種の神器の登場、神功皇后による朝鮮半島南部の新羅への親征などが、中巻にて詳しく記されています。日本神話の時代が描かれていた上巻に対して、人間的な天皇が登場する点が中巻の特徴です。


古事記 下巻の内容は「仁徳天皇から推古天皇までの話」です

下巻は、16代の仁徳天皇から33代の推古天皇までが君主として世の中を収めていた時代が描かれています。仁徳天皇は、大変大きな前方後円墳の陵墓である仁徳天皇陵でおなじみの天皇です。この仁徳天皇からしばらくは倭の五王の時代とも呼ばれ、朝鮮半島南部への干渉をしばしば行った時代であり、中国の歴史書にも登場しています。

和の五王とは、中国の歴史書に記述のある倭国の五人の王のことで、倭国とは現在の日本を指しています。古事記では、仁徳天皇が和の五王の1人に数えられていますが、これについては文献により諸説あります。中巻まではかなり創作された部分もあると考えられますが、下巻については歴史書としての信憑性がかなり高まっています。

土佐日記について

「土佐日記」は、平安時代中期に歌人である紀貫之(きのつらゆき)が、西暦934年12月21日から国守として赴任した土佐を出発して、翌年2月16日に京都の自宅に帰りつくまでの出来事が記されている日本初の日記文学です。

紀貫之は、およそ55日間の出来事を仮名文字で記しているのが最大の特徴です。平安時代には、男性は漢字で、女性は仮名文字で文字を認めることが多かったことから、男性である紀貫之が仮名文字で日記を認めていることも土佐日記を有名にした理由の一つです。紀貫之は、平安時代の和歌の名人である三十六歌仙の一人で、後に紹介する『古今和歌集』を編集した歌人としても知られています。

土佐日記の冒頭は、「男もすなる日記というものを女もしてしてみむとてするなり」は土佐の国府の旅立ちを記した有名なフレーズです。ここで、男性である紀貫之が女性のふりをして書くひらがなの日記であることを冒頭で明らかにしていると言われています。役人として話せない気持ちを女性のふりをして自由に告白したい旨を冒頭で明らかにしたものです。

土佐日記は、旅の工程を記した日記だけでなく、57首の和歌と3首の船歌も交えて進みます。土佐の国府から室津をへて土佐泊から難波をへて京の自宅に着くまでの行程を記しながらも、旅で聞いたことや感じたこと、思ったことも記されています。55日間もの旅は、さぞかし大変だったに違いありません。
今の時代から考えると、なんてのんびりした旅だろうと思ってしまいます。文中で、出立後10日余りは、土佐から大して離れることなく飲んだくれているさまを描くなど、ユーモアの要素もいれつつ喜びも憂さも素直な気持ちを書き綴った紀貫之の人柄の表れもあります。

日本書紀について

「日本書紀」は、奈良時代の皇族である舎人親王(とねりしんおう)が中心となって作成した現存する日本最古の歴史書です。西暦720年に完成しており、全30巻に渡って神代から持統天皇までの時代を記しています。

よく同年代に作成されたとされる「古事記」と共に紹介されますが、「古事記」は日本の神々について詳細に書かれており、天皇については物語風に記されています。対する「日本書紀」は、日本の神々に関する記述は簡単にまとめられていますが、天皇については年代を追って詳細に記されています。

このように、「古事記」の方がストーリー性が高く読みやすいと言われますが、「日本書紀」は史書としての価値が高く客観的に当時の神話や天皇について知ることができます。

有名な聖徳太子に関する記述がされている

「日本書紀」の詳しい内容を見ていくと、飛鳥時代の皇族であり政治家である聖徳太子の名前も出てきます。聖徳太子は厩戸皇子(ウマヤドノミコト)と呼ばれています。「日本書紀」によると、聖徳太子は生まれながらに言葉を話すことができ、未来のことを予言できたとされるなど超人的な面を持っていたとされています。

しかし、「古事記」ではこのような超人的なエピソードは記されていません。このことから、「日本書紀」で聖徳太子は、ヤマトタケルノミコトのように神話の登場人物として描かれており、実在していた厩戸皇子と同一人物ではなかったとされる解釈が広がっています。つまり、教科書に記されていたような偉業を成し遂げた超人的な聖徳太子は実在する人物ではなかったのです。この先、教科書から聖徳太子の名前が消える日も近いかもしれません。

万葉集について

「万葉集」とは、日本に現存する最古の和歌集と言われており、7世紀から8世紀後半にかけて編集されました。成立した年代ははっきりとは分かりませんが、奈良時代末期か平安時代初期とされています。

「万葉集」は、派手な技巧や表現は使われておらず、素朴でのびやかに詠まれているのが特徴です。全部で20巻ほどあり、4500首以上の詩が治められています。また、編集には奈良時代の貴族である大伴家持(おおとものかやもち)が携わったと推定されています。

万葉集では内容をいくつかに分類する「部立」が行われおり、雑歌、相聞歌、挽歌の3種類に分けられています。雑歌には、宮廷など公の場で詠まれた詩が多くありますが、旅で詠んだ詩や自然を愛でた詩などもあります。相聞歌は、男女の恋を詠み合う詩です。挽歌は、死者を悼み哀傷する詩とされています。

様々な身分の人間の詩が読める

万葉集には、天皇や貴族、下級官吏など様々な身分の人が詠んだ詩が収められています。その中には庶民が詠んだ詩もあり、東歌や防人の歌などが含まれています。東歌は東国地方で作られた詩で、作者は不明です。東国の人々の生活や感情などが東国の方言を交えて詠まれています。


防人の歌には、東国地方の防人やその家族が詠んだ詩が集められています。防人は筑紫や壱岐、対馬といった北九州地域の防衛に当たった兵士たちのことをいいます。東国の方言が混じっており、家族との別離や郷愁を詩にしています。東歌も防人の歌も方言が使われていることから万葉集は、方言を学ぶ上でも貴重な資料といえるでしょう。

古今和歌集について

「古今和歌集」とは、平安時代に編集された和歌集で、勅撰和歌集の一つです。勅撰和歌集とは天皇の命によって編集が指示された和歌集を指します。勅撰和歌集は、古今和歌集のほかにも合計20程ありますが、古今和歌集は全ての勅撰和歌集の中でも最初に編集されたものだと言われており、編集を命じた天皇は平安時代の天皇である醍醐天皇(だいごてんのう)です。

古今和歌集の編者を行ったのは、紀友則(きのとものり)や紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の4人とされています。序文では紀友則が筆頭編者に挙げられているものの、実質的に中心となったのは紀貫之であると考えられています。

編集した4人の詩が多く収められている?

古今和歌集は、全20巻構成で、納められている和歌の数は合計で1000首を超えます。わずかに異なる形式の和歌も含まれているものの、ほとんどが五七五七七の短歌となっています。

納められている和歌の作者を数えてみると、上位4人は編集を行った4人であることが分かっています。自分たち自身が作った歌をできるだけ入れたいという心情が働いたのか、そもそも編者になる程に優秀な歌の作者であったからでしょうか?
最も多いのが紀貫之で100首を超え、これも紀貫之が中心となって編集したといわれる所以の一つとなっています。続いて 凡河内躬恒、紀友則、壬生忠岑の順で、この4人だけで200首以上、全体の2割以上を占めています。

古今和歌集は、編集されて以降、長らく高い評価を受け、貴族の教養のように考えられてきましたが、明治時代以降、内容的に万葉集に劣るとの意見が専らとなり、その風潮は現代に至るまで続いています。

新古今和歌集について

「新古今和歌集」は、鎌倉時代の初期に後鳥羽天皇の命により編集された勅撰和歌集で、1205年に執筆されています。新古今和歌集の作成に携わっているのは、百人一首でもお馴染みの藤原定家(ふじわらのさだいえ)、藤原家隆(ふじわらのいえたか)、源通具(いみなもとのみちとも)、寂蓮(じゃくれん)、六条有家(ろくじょうありいえ)、飛鳥井雅経(あすかいまさつね)の6名と言われていますが、寂蓮は和歌を集めている時点で没しており、実際の編集作業は寂蓮以外の5人で行われたそうです。

また、著名な歌人としては藤原定家をはじめ、西行法師(さいぎょうほうし)、藤原俊成(ふじわらのとしなり)、式子内親王(しきしないしんおう)、藤原良経、藤原家隆などがあげられ、作成を命じた後鳥羽天皇の歌も収録されています。なお、百人一首に選ばれている新古今和歌集の歌は14首あり、平安時代の終わりに編集された「千載集和歌集」に次いで二番目に多いです。

歌人のなかでも評価が分かれた「新古今和歌集」

新古今和歌集はその名の通り、平安時代前期の古今和歌集の言語空間を引き継ぎ、万葉集やそれまでの勅撰和歌集に載らなかった和歌を載せるという取り組みも行われました。この時期は連歌や今様等の新しい文学が芽生えつつありつつも、短歌の世界を優雅な空間に復帰させる意気込みがあったとされています。これにより、新古今和歌集は、万葉集・古今和歌集と並ぶ「三大歌集」と呼ばれ、後の文学に大きな影響を与えました。

新古今和歌集の作成を命じた後鳥羽天皇は、1221年の承久の乱により隠岐の島に流されますが、隠岐での生活の間に自ら400首余りにアレンジを加え、これこそが真の新古今和歌集であると主張しています。これを「隠岐本」といい、後鳥羽天皇は、藤原家隆に送り付けたといいます。

その後、新古今和歌集は、明治時代の歌人である正岡子規には全く評価されず、一方で同じく歌人である北原白秋には「日本の短歌の中の最高傑作」と最大限の評価を下されるなど近代の歌人のなかで評価が大きく分かれる作品となりました。

竹取物語について

「竹取物語」は、日本最古の物語として「源氏物語」にも紹介され、平安時代から鎌倉時代にかけて盛行していた物語文学の元祖と言われる作品です。かな文字で書かれた「竹取物語」の作者は不明とされていますが、9世紀後半から10世紀前半に書かれたとされています。現在では童話「かぐや姫」というタイトルで子供から大人まで親しまれている作品です。

「かぐや姫」とも呼ばれる「竹取物語」のストーリとは?

「かぐや姫」の主人公であるかぐや姫は、竹取の翁によって竹林の中の光る竹の中から発見されました。すくすくと育ったかぐや姫はやがて美しい姫へと成長し、男たちから求婚されるようになります。そして、5人の求婚者にかぐや姫が無理難題を突き付けるというストーリーはとても有名です。

その後、かぐや姫は帝の興味を引きますが、そのころからかぐや姫は月を見ては嘆き悲しむようになります。竹取の翁が心配すると、かぐや姫は「月の国の人間でもうすぐ月から迎えが来て帰らなければならない」と告白します。帝の力を借りて屋敷を警護した竹取の翁ですが、天人の力の前ではなすすべもありません。嘆き悲しむかぐや姫は帝に歌を詠み不死の薬を渡します。しかし、天の羽衣を身に着けると、全ての物思いは消え去り月へと帰って行ってしまいました。

かぐや姫との別れを悲しむ帝は不死の薬を天に一番近い山で燃やし、その山は「ふじの山」と呼ばれるようになります。日本で一番高く「ふじの山」と言えば「富士山」です。今なお語り継がれる奥深い情緒とミステリアスな月の国の物語は、日本最古でありながらもその完成度の高さに驚かされます。

伊勢物語について

「伊勢物語」は、平安時代に誕生した歌物語の一つです。作者は不明とされていますが、歌人である在原業平(ありわらのなりひら)の和歌が多数収録されていることに加え、主人公格の人物が在原業平のあだ名で呼ばれている場面があることから、「伊勢物語」において多大な影響を及ぼした人物であるということがことがこれまでの研究によって分かっています。

「伊勢物語」は、当時のとりとめのない和歌が収録されているのではなく、主人公格の男が元服してからその人生を終えるまでの物語という軸に沿った和歌が収められています。現代における一人の人間と同じように、恋愛や友情、社会生活などに関する歌が多く、さらに主従関係に至るまで言及されています。

「伊勢物語」は、平安時代の本ではあるものの現在では現代語訳や解説がともに収録された本が出版されていて、容易に読むことが可能です。海外でも翻訳出版されていて学者による研究が行われるなど、日本の古典として高い人気を誇っているのです。

実は、この作品の書名である伊勢物語というタイトルについては、その由来が完全には分かっていません。主流となっている説は伊勢国が舞台であるというものですが、ほかにも伊勢という女性にちなんだという説をはじめ様々な見解があります。今後新たな資料が発見されればタイトルの由来が正式に分かる日が来る可能性があります。伊勢物語は現代の日本文学に大きな影響を与えた古典です。一冊を通じて読んでみると、現代日本との共通点が見つけられるはずです。


源氏物語について

「源氏物語」は平安時代に紫式部が宮廷に仕えながら執筆しており、主人公の光源氏を取り巻く恋物語が綴らています。光源氏の数々の恋を通じて、永遠の恋愛を願ってしまう女性たちの性を見事に映し出しています。

登場人物は全て魅力的に描かれ、どうしようもなく愛を貪欲に求める光源氏の恋物語に、読み手や作者である紫式部をも心を震わすことになります。次に光源氏に恋してしまうのは、読み手に他ならないのです。

紫式部が恋い焦がれる気持ちを記している?

平安時代に稀有な物語を書いた紫式部、彼女こそが光源氏を一番誰よりも愛した女性です。そして、次々と登場する女性たちは紫式部の願望であり、光源氏の恋のお相手としての自分の想いを登場人物の女性たちに投影しているのです。甘く切なく、時には恐ろしい想いすらも描き切っているのです。

現代では、許されない不倫の恋も美しく苦しく描かれています。平安時代のそれらの物語を通じて、女性の覚悟やそれを受け止める男性の覚悟を知ることができます。季節の移ろいに合わせた恋の移ろいを美しい描写共に、堪能することができます。詠まれる短歌には、平安時代の習慣なども織り交ぜられ、時代背景を学ぶことができます。

源氏物語は、時代を超えた永遠のラブストーリーなのです。現代の私たち読者にも全く古さを感じさせることなく、物語の世界に誘ってくれる紫式部の渾身の作品と言えるでしょう。読むだけで、誰もが光源氏に恋している自分に気付いてしまうのです。時を忘れて壮大な物語の世界に身を任せてみましょう。

栄花物語について

「栄花物語」は、西暦にして900年あたりから1100年あたりまでの平安中期の200年間の時代を扱った歴史物語です。平安時代中期といえば藤原家、中でも藤原道長(ふじわらのみちなが)が権勢を誇った時期であり、「栄花物語」は、そんな藤原道長が自分の娘たちを次々と天皇に嫁がせることで権力を掌握していく道長を中心とした世継物語でもあります。

この栄花物語の特徴としては、女性の手によってかかれていることです。作者は判明していませんが、当時は女性が使っていたひらがなが使われていることからも女性の作品だと考えられています。また、内容的にも宮廷事情に詳しくないような人が書けるはずがなく、実際に道長の近くにいた身分の高い女性であったとする説が有力です。

もう一つの特徴として、権力争いに敗れた者のエピソードが綴られていることです。例えば前関白で道長の実兄である藤原道隆(ふじわらのみちたか)の子供の藤原伊周(ふじわらのこれちか)が、権力の世襲に失敗して大宰府に流されてしまったエピソードが掲載されています。また、政治の裏面で泣く女たちの姿が描かれているなど、歴史書でありながら物語的な描かれ方をしています。

大鏡について

「大鏡」は、平安時代後期に作られたとされている歴史物語で、「四鏡」に数えられています。「四鏡」とは、『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』の4つの歴史物語のことで、いずれも”鏡”がタイトルについていること、老人が過去を対話で振り返る形式であることからまとめられています。

「大鏡」は、藤原道長を始めとする藤原家の栄華が、架空の人物である二人の老人の対話という形をとって描かれています。ただし作者は不詳です。内容からみても一般の人が知りえて書けるようなものではなく、摂政や関白といった公家に連なる人物によるものと考えられていますが、具体的な作者は分かっていないのです。

この大鏡の中で特に有名で、教科書などによく引用されるのが南院の弓争いでしょう。あらすじとしては、まだ道長が関白になる前のことで、当時の関白である実兄の藤原道隆とその子である藤原伊周が登場します。当然ながら道隆としては弟の道長よりも自身の子である伊周を出世させたいと思っているものの、道長の力はそれを上回っていたことを如実に示すエピソードとなっています。

道長と伊周が弓を射る勝負をし、勝利を収めますが、そこに道隆が現れて延長戦を示唆します。これは暗に、関白の力を背景にして、道長に対して伊周を勝たせてやれと言っているわけです。しかし道長はひるみもせず、自分の子供が天皇やその后になるならこの矢は的に当たるだろうとか、自分が関白になるならこの矢は当たるだろうなどと大胆不敵なことを言いつつ見事に命中させてしまいます。これで伊周は完全におじけづいてしまい、もはや勝負どころではなくなってしまったという話です。

今昔物語について

「今昔物語」は、平安時代に編纂された説話集で、日本最大の古説話集としても知られています。説話集とは、説話とも呼ばれる神話や伝話、民話などを集めたものです。

平安時代には僧や貴族の間で現代の日本語の元になっている和漢混交文が使われていたため、今昔物語も漢字の送り仮名をカタカナ2行で表しています。情緒的な表現は少ないですが、ストレートな表現は鬼や幽霊が出てくる恐怖や不安を臨場感たっぷりに伝えています。今昔物語には、巻第1から巻第31までがあるのですが、8巻と18巻、21巻は見つかっていません。紛失したとも考えられていましたが、巻数を割り振ったものの必要がなくなり編集されなかったとも考えられています。

今昔物語は日本や中国、インドで成立した様々な説話を集めていますが、そのなかでも特徴的なのが巻第20巻です。巻第11から巻第20は仏教説話をテーマとしており、日本を舞台にしています。作中では天狗が仏教に相反する存在として登場していますが、それまで不思議や恐怖の代表格は鬼であり、天狗は曖昧なイメージしかありませんでした。

天狗は羽を生やした物の怪で、仏道に励んでいる人でも取り憑かれると書かれています。しかしいつも僧による説法に負けてしまいます。鬼は陰陽師や武将に敗れますが、天狗は徳の高い僧から説き伏せられるという構図が平安時代に成立したことを意味しています。都市伝説のように楽しめる話が多いので、古文に苦手意識がある人でも楽しみながら読める一冊です。

宇治拾遺物語について

「宇治拾遺物語」は、中世鎌倉時代に成立した説話集です。一冊を通して一つの物語を綴るのではなく、小さな話がたくさん集められています。小話は、全部で197話とかなり多くの説話が集められています。また、小話が他の説話集と共通するものも少なくないことから、この説話集のために書かれたものではなく、すでにあるものを集めたと考えられています。

「宇治拾遺物語」に納められている説話にはいくつかの特徴があります。まず、仏教に関する説話というものが多くあります。これは他の説話集にもみられる傾向です。教訓になる話、仏教への信仰心を高める話などが掲載されています。また、宇治拾遺物語の大きな特徴として、恋愛など世俗的な説話、民話や伝承といったものも多く含まれているということです。こうしたものを読んでいくなかで、当時の人の暮らしぶりや興味関心などに触れることができるのはとても興味深いものです。

一つ一つの小話は短文で、比較的わかりやすく描かれているものも多いです。また、現代も語り継がれている昔話や、小説の題材として取り上げられていることもあり、なじみやすい題材でもあります。古文を読み始めたばかりのころに取り組んでみる題材としては適したものであるといえるでしょう。私たちにとってなじみが少ないと思われる昔の話ではありますが、そこには今と同じように生きていた人たちがいて、生活が営まれていました。そういったことを感じさせてくれるような説話集です。

平家物語について

「平家物語」は、鎌倉時代に書かれた平家の栄光と没落を描いた軍記物語です。作者は、諸説ありますが信濃前司行長(しなののぜんゆきなが)が有力であるとされています。


「平家物語」は、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という一文から始まることで広く知られていますね。同書では、盲目の僧侶である琵琶法師が、伝承を琵琶の伴奏に載せて語ることから始まり、平清盛が太政大臣となり栄華を極めた時代から壇ノ浦の合戦で滅亡するまでの20年間が主題となっています。

「平家物語」は教科書に採用されるほか、テレビドラマ化されるなど広い世代に支持される作品となっていますが、それは滅びゆくものに対する哀悼感や無常観といった日本人の心に強く響く精神世界が描かれている点であると考えられます。

また、「一の谷」や「屋島の合戦」などの有名な戦いを描いている軍記物語でありながら、平清盛の娘である建礼門院(けいれいもんいん)や女武者として知られる巴御前(ともえごぜん)などの魅力あふれる女性たちが物語に華を添えていることも魅力のひとつです。

平家物語では、有名な「盛者必衰の理りをあらわす」という一文で「決して人はおごってはいけない」と諭しつつ、しかし傍若無人に振る舞った平家がすべて悪いという勧善懲悪的な内容だけでなく、その滅んでいく姿の哀れさを描くことによって人々の人生観にも大きく影響を与えている点が昔の人も現代に生きる人にとっても胸をうつ作品となっています。

蜻蛉日記について

「蜻蛉日記」は、平安時代に藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が記した女流日記です。藤原道綱母は、夫である藤原兼家との結婚生活や夫に次々とできる妻妾との競争、幼女や息子の成長についてなどを「蜉蝣日記」に記しています。

藤原道綱母は、歌人として知られており「百人一首」にも歌が選出されています。また、本朝三美人の一人とも言われる美人であったという説もあります。

女性の赤裸々な気持ちが記されているのが特徴

「蜉蝣日記」の魅力といえば、女性ならではの赤裸々な気持ちが記されていることです。平安時代は夫に妻が複数いることは珍しいことではありませんでしたが、藤原兼家が次々と妻妾を作る様はやはり面白くなかったのでしょう。その不満や浮気相手を恨む気持ちが綴られています。

言うなれば平安時代の「読める昼ドラ」でしょうか。浮気に対する不満が綴られながらも、藤原道綱母の生涯が綴られており、女性の複雑な思いと負の感情が漂う内容は、いつの世も尽きぬものであることが感じられます。悩める女性は藤原道綱母と同感でき、女性の気持ちを理解したい男性は藤原道綱母の思いから女性の気持ちを学ぶことが出来る一冊です。

更級日記について

平安時代に産まれた「更級日記」は、「蜉蝣日記」を綴った藤原道綱母の姪である菅原孝標女が作者とされています。「更級日記」は、菅原孝標女の10歳から50歳までの生涯が綴られた日記となっており、源氏物語を読み物語世界に没頭した少女時代や結婚生活、夫の病死、子供が巣立った後の孤独などが描かれています。

過去を振り返りながらも、人生への鬱憤や寂しさ、耐え忍ぶ気持ちが込められており、そこには夢見がちだった少女が現実を知り、大人として成熟していく様が感じられます。平安女流日記文学の代表作に数えられる一作です。

十六夜日記について

「十六夜日記(いざよいにっき)」とは、鎌倉時代に阿仏尼(あぶつに)という藤原為家(ふじわらのためいえ)の側室であった女性によって綴られた日記です。十六夜とは満月が出る十五夜の次の日のことで、旧暦10月16日より綴られたとされており、日記でありながら阿仏尼が京都から鎌倉を旅している最中に書かれた紀行文でもあります。

阿仏尼がなぜ京都から鎌倉へ渡ったのかというと、阿仏尼の実の子である藤原為相と、為相の異母兄である藤原為氏との領地争いがあり、それはもはや自分たちでは解決できないから、お上にお伺いをたてて争いを解決してもらおうと単身で京都から鎌倉に向かっていることが記されています。

枕草子について

「枕草子」とは、平安時代中期に清少納言(せいしょうなごん)が書いた随筆文学です。清少納言は、中宮の藤原定子(ふじわらのさだこ)に宮仕えしていた女官でした。

枕草子は、古くは「清少納言記」とよばれ、この時代の書物としては紫式部(むらさきしきぶ)の源氏物語と肩を並べて評価が高く、後世の連歌や俳諧、仮名草紙に大きな影響を与えています。また、鴨長明の方丈記、吉田兼好の徒然草と並んで三大随筆と呼ばれる優れた文学作品です。

また、平仮名を中心とした和文で書かれた文章は知的で、清少納言が宮仕えをしていて感じた日々のこと、うつくしきもの、すさまじきものといったタイトルで取り上げる物事についての感想や宮仕えする女房達の姿や考えへの意見などがあり、まるで現代のブログのようです。


方丈記について

「方丈記」は、鎌倉時代の随筆文学で、平安時代から鎌倉時代へと時代が変遷していく混乱の時代が描かれています。平安時代は貴族の時代であり、和歌が詠まれ、文化的に成熟した時代でしたが、鎌倉の時代になると武士が台頭し、戦乱の時代へと突入していくことになります。その変わりゆく時代を見つめ、達観したした視点で無常観が語られています。この時代においては戦乱の世の幕開けと同時に飢饉や天災などで多くの人がなくなった時代でもあったことから人の命のはかなさも描かれています。

著者の鴨長明(かものちょうめい)は、京都にある下鴨神社の宮司の子供として生まれたとされています。下鴨神社は京都でも有名な神社の一つですが、鴨長明は宮司になることが出来ませんでした。その後、歌人として大成した鴨長明ですが、希望をしていた神職には就くことが出来なかった自分の不遇な人生と、時代が移り変わる混乱とを重ねて、人生の晩年に無常観を書き綴った随筆になります。

徒然草について

「徒然草」は、武士による力強い文化で栄えた鎌倉時代の末期に吉田兼好によって書かれた随筆です。「つれづれなるままに日暮らし硯に向かいて心にうつりゆく由無しごとを、そこはかとなくかきつくれば怪しうこそものぐるおしけれ(思いつくままに書いていったらまるで取りつかれたように筆がとまらなくなりました)」という意味の言い回しで始まるように、自分の考えや、社会に対する思い、あちこちで語り伝えられていた話などを思いつくままにどんどん書き連ねています。大変読みやすく、おもしろいため、江戸時代の町人にも人気があった読み物であったそうです。

吉田兼好は京都の仁和寺近くに住んでいたため、その付近でのお話が多いのも特徴です。吉田兼好は法師であり、俗世間から離れた暮らしをしていたため、世の中に対する無常観(永遠のものなど何もない、すべては移り変わっていくものだ。)が文章の中には表れています。文章はひらがなで書き連ねた和文と、漢字が混ざった和漢混交文の両方で仕上げられています。

「徒然草」は平安時代の清少納言による「枕草子」と、同じく鎌倉時代の鴨長明による「方丈記」と共に日本三大随筆と言われています。清少納言による「枕草子」は明るくて理知的な作者による、何がどんなふうに趣き深いかという思いが語られており、鴨長明による「方丈記」は、平安時代の様々な災いも書いており、無常観がテーマとなっている。吉田兼好の「徒然草」は鴨長明と同じ隠者文学ではあるけれど、平安時代の貴族文化に対する憧れが描かれています。

まとめ

今回は公務員試験に登場する「日本の文学シリーズ」より「日本古典文学」を解説しました。「古事記」や「竹取物語」など馴染みの深い作品が数多く、学生時代の記憶を引っ張り出して回答することもできるかもしれません。しかし、なんとなく分かる作品だからこそ、その基本的な知識を学び直すことが大切です。

今後も「日本の文学シリーズ」をお届する予定ですので、お楽しみに。

本記事は、2018年1月13日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

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