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【江戸の3大改革】「天保の改革」が目指したものは何か?経済安定化への道

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「享保の改革」、「寛政の改革」と並び江戸三大改革の一つに数えられる「天保の改革」。

学校の社会や歴史の授業でも学習する内容です。「いやしい(1841年)水野の天保の改革」などといった語呂合わせの年号暗記もありますね。どうやらこの辺りの政治分野は苦手にしている学生も多いようです。

攻略方法としては、改革の時期と指導者、おおよその改革内容を把握しておけば試験の問題を正解することができます。しかしそれでは味気がないですね。水野忠邦がどのような人物だったのかもよく知らずに通過してしまうことになります。

19世紀も中盤といえば、ペリーの黒船が来日する年も近く、どちらかというと倒幕、尊王攘夷、開国といった幕末の様子の方がクローズアップされがちな時代です。天保の改革や水野忠邦は端に追いやられがちですが、そこからでも私たちは学ぶことがあるはずです。

これまで「享保の改革」「寛政の改革」とお伝えしてきました。今回は最後の「天保の改革」になります。どのような点が他に改革と類似していて、どのような点が異なるのかにも触れていきます。皆さんの今後の取り組みに役立てていただけると幸いです。

目次

徳川家斉とはどんな人物?

江戸幕府・第11代将軍

1786年に10代目将軍・徳川家治が死去すると、御三卿の一つである一橋家から将軍が輩出されることになります。それが一橋治済の長子で、徳川家治の養子に入っていた徳川家斉です。11代目将軍就任時はわずか15歳でした。

この機会に幕政は大きな変革を遂げます。権力の中心にあった老中・田沼意次が罷免され、老中首座並びに将軍補佐として松平定信が就くのです。そして幕府の財政を建て直す「寛政の改革」が実施されます。

しかし幕閣内でも松平定信に対立する者が多く、庶民も倹約の強制や思想統制を受けたことで反発し、1793年には松平定信は失脚します。

寛政の改革後の幕政

その後も「寛政遺老」と呼ばれ老中首座に座った松平信明らが手腕を発揮しますが、1817年に病没し、その他の重要メイバーも引退していきます。側用人の水野忠成が老中首座となってからは徳川家斉の奢侈な生活は目立つようになりました。徳川家斉は、1837年に将軍位を息子の徳川家慶に譲ってからも大御所として側近政治を続けました。幕府の財政はさらに傾いていきます。異国船打払令などの外国船対策などに莫大な支出も続き、幕府の財政はすでに破綻していたともいわれます。

当時は天保の大飢饉から米価や物価が上昇、百姓一揆や打ちこわしが相次ぎ、さらに1837年には元大坂町奉行の大塩平八郎の乱が発生。社会の混迷はさらに深まっていました。そんな最中の1841年に大御所の徳川家斉は病没します。徳川家斉が死去したことで、幕府はようやく人材刷新をし、財政改革を推進できるようになるのです。

水野忠邦とはどんな人物?

水野忠邦の家柄は?

「享保の改革」を進めたのは将軍・徳川吉宗です。「寛政の改革」を進めたのは老中の松平定信ですが、こちらは徳川吉宗の孫にあたり、家柄としては御三卿の出自です。両改革ともに将軍家の血筋の者が指揮を執ったことになります。では、三番目の改革にあげられる「天保の改革」の主導者である水野忠邦はどのような出自なのでしょうか。水野忠邦は将軍家の血筋ではありません。一大名のひとりに過ぎないのです。


水野忠邦は肥前唐津藩藩主・水野忠光の次子として生まれ、長子が早世したことと、1812年に父親が隠居したために19歳の若さで4代目藩主となっています。この後、水野忠邦は地方の大名から幕府の老中首座まで登りつめることになります。

江戸に憧れる

しかし水野忠邦は幕閣に名を連ね、幕政に携わりたいという希望が強かったようです。江戸の権力者に賄賂を贈り、昇進を目指しました。23歳で出世の登竜門的役職の奏者番に就いています。その後、水野忠邦は驚きの行動をとるのです。唐津藩主では長崎警護のために昇進が難しいことを考慮し、なんと浜松藩への転封を願い出ることになります。家臣の諌死もありながらも、それを振り払い、水野忠邦は故郷である25万3千石の唐津藩を棄て、15万3千石の浜松藩主となるのです。そして同時に寺社奉行に就任しました。

水野忠邦は、今度は賄賂を受ける側となります。これで唐津藩以来の家臣たちも納得したようです。出世についても順調で、大坂城代、京都所司代となり、1828年に老中就任。1834年に本丸老中となり、1839年についに老中首座となるのです。水野忠邦は12代目将軍・徳川家慶の補佐役も務めていたことから、大御所である徳川家斉亡き後の幕政の舵取りを任されることになるのです。

天保の改革が誕生した背景とは?

凶作による米価・物価の高騰

1833年の大雨による洪水や冷害によって日本は大凶作に見舞われます。凶作の対策をしていたとはいえ東北の被害は甚大でした。ピークは1835年から1837年にかけてです。幕府は江戸に御救小屋を設置しましたが、救済者は70万人にものぼったと伝わっています。これが「天保の大飢饉」です。

田原藩などは藩士や領民に倹約を徹底させ、義倉などを設置していたことから犠牲者はほとんどいなかったようです。しかし都市部は深刻で、農村を棄てた無宿人が大勢流入していました。大坂では一日に200人ずつ餓死者が出たともいわれます。

百姓一揆と打ちこわし

米価・物価の上昇によって暮らしていけなくなった農民が一揆を起こしたり、都市部では打ちこわしが横行するようになります。一部は暴徒化し、凶行に及ぶ者も出現しています。有名なところでは、1836年の天領である甲斐国で発生した暴動「天保騒動」や1837年に大坂で発生した反乱「大塩平八郎の乱」などがあげられます。大塩平八郎は、凶作で貧窮する庶民を無視して米を買い占める豪商に対して怒りを爆発して打ちこわしを行うのですが、幕府に向けて建議書も送っています。内容としては役人の不正を告発したもので、水野忠邦の名前も記載されていたそうです。残念ながらこの建議書は幕府に渡ってはいません。

このような事態を一刻も早く鎮めるために、幕府には農村の復興、米価・物価のコントロールという課題が突き付けられることになります。これらは「享保の改革」「寛政の改革」で要求されたことと同じような内容です。そのため幕府は歴代の改革を踏襲するようにして社会の健全化を図りました。

天保の改革とはどんな改革?

天保の改革のポイントは二点になります。一つは「農村・農民の復興」についてです。そしてもう一つが「経済の安定化」についてになります。1841年より11代目将軍・徳川家慶と老中首座の水野忠邦が推し進める天保の改革が始まるのです。

農村・農民の復興

貨幣経済の発達や凶作によって農地を棄て、都市に流れた農民が大勢いました。そこで帰郷を促す法令が施行されます。それが「人返し令」です。「寛政の改革」でも同じように「旧里帰農令」が作られています。

重農主義を主張する水野忠邦ですが、農村の復興について取り立てて評価すべき政策は実行できていません。天保の改革を失政と呼ぶのはこの点が一つにあげられるでしょう。実際に藩政で成果を出してきた徳川吉宗や松平定信と、復興の経験に乏しい水野忠邦の差がここではないでしょうか。

経済の安定化

「株仲間の解散」を実施することで経済の自由化を図り、物価の高騰を食い止めようとしましたが、逆に流通システムが混乱、収拾がつかなくなり景気はさらに低迷することになります。

「改鋳」を実施することで市場に出回る金銀の量をコントロールしようとしましたが、あまりに頻度が多く、これが強烈なインフレ―ションを引き起こし、さらに物価高騰に拍車をかけています。

「金利政策」についても果敢にチャレンジしています。貸借金利を下げるとともに、未払いの債権についてすべて無利子としました。さらに20年分割による返済としています。これにより、貧窮している旗本や御家人を救済しようとしましたが、店を閉めて金を貸さなくなる札差が続出。貸し渋りが発生することになり、幕府は資金の貸し付けを行うなどをして札差の再開店に奔走することになります。

その他の重要法令

庶民に倹約令を強制したことも「寛政の改革」同様です。風俗も取締り、芝居小屋は浅草に追い出され、寄席は閉鎖されています。人情作家の為永春水や歌舞伎の市川團十郎などが処罰の対象になっています。

対外政策としては、これまでの「異国船打払令」を改めることになります。これは1840年から始まった「阿片戦争」の結末から考え方を変更したものです。列強諸国に対し、武力排除が危険であることを悟り、燃料や食料の支援だけは行う「薪水給与令」を発布しています。


「天保の改革」の最大の特徴は「上知令」の存在でしょう。江戸、大坂周辺の大名や旗本の土地を転封し、幕府の直轄地にするという仰天の政策です。これが上手くいくと、幕府の財政改革にも一役買うことになり、諸外国への防衛の面でも好都合となる計画でした。しかし幕臣の多くが反対することになります。転封には莫大な費用がかかることになるからです。さらに、すでに藩の財政が火の車状態で、藩札などによって領民に多額の借金をしており、国替え前にその返済をすることが厳しかったことなどがあげられます。

上知令への強硬な反対運動が水野忠邦を失脚させることになります。上知令は施行されることもなく撤回されました。そして天保の改革は終わりを告げることになります。

こうして天保の改革の項目をあげて確認していくと、ほとんど成果をあげていないことに気が付きます。倹約に関しては庶民に対しては強制力をかけることに成功していますが、肝心の幕府の財政の足かせになっていた大奥にはメスを入れられていません。大奥からの激しい抵抗にあって改革の対象外となったからです。

まとめ・天保の改革について現代と照らし合わせて考察

「天保の改革」は農村の復興や経済の安定化といった問題の解決ができなかったばかりか、幕府の財政状況を改善することもできませんでした。むしろより経済を低迷させることになり、幕府の権威は失墜していくことになります。江戸の三大改革の中で最も評価の低い改革が「天保の改革」なのかもしれません。

原因はどこにあるのでしょうか。

やはり将軍家の血筋ではない水野忠邦ではリーダーシップをとるのが難しかったという点はあげられるでしょう。その打開のために御三家の一つである水戸藩の藩主・徳川斉昭の協力を受けているのですが、水野忠邦への抵抗は強かったようです。

実際の農業、商業、金融、幕政改革に疎い水野忠邦の政策自体に疑問を持つ声も聞かれます。出世や昇進にばかりに関心があり、下地となる実績がないだけに、現実にマッチしない小手先だけの改革ばかりだったということでしょうか。水野忠邦は失脚後、また老中に返り咲いていますが、己の力量を知ったからなのか、再任後はほとんど仕事をしていません。その覇気のない様は「木偶の坊のようだ」と揶揄されています。

政治というものはいつの時代でも現実社会の問題をしっかりと把握し、理想の姿を強くイメージし、そこに近づけられる実行力が必要なのでしょう。現代に生きる私たち有権者には、政治家に対し、そこを見極める目が求められているのかもしれませんね。

※補足 江戸の3大改革まとめ

1716~1745年 享保の改革(きょうほうのかいかく)中心人物:徳川吉宗(とくがわ よしむね)
1787~1793年 寛政の改革(かんせいのかいかく) 中心人物:松平定信(まつだいら さだのぶ)
1841~1743年 天保の改革(てんぽうのかいかく) 中心人物:水野忠邦(みずの ただくに)

(文:ろひもと 理穂)

関連ページ

「享保の改革」は、暴れん坊将軍による幕政改革です。

「寛政の改革」は「老中主導」による改革

本記事は、2017年7月14日時点調査または公開された情報です。
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公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。

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