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近代の日本における「憲法制定」と「議会開設」までの道のり

第二次世界大戦前後で日本は大きく変化しています。それは「憲法」や「議会」(国会)にも当てはまります。戦前に存在した「大日本帝国憲法」制定と、「帝国議会」開設について、どのような経緯があったのか考察していきます。

2018年01月08日更新

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目次
明治政府の有司専制
自由民権運動の高まり
大日本帝国憲法の制定
帝国議会の開設
まとめ
近代の日本における憲法制定と議会開設までの道のりとは

1868年に江戸幕府は廃止され、新政府が誕生します。王政復古により日本の舵取りを任されたのが「明治政府」です。この新政府の基本方針は「五箇条の御誓文」として表明されています。

明治維新において、日本の仕組みは大きく変わることになりました。列強諸国を意識した国造りです。「版籍奉還」によって土地と人民の統治権は天皇に奉還され、「廃藩置県」によって藩政も終了しています。日本中の力を結集させるための政策でした。多くの戸惑いを含んだ中で改革は推し進められていきます。

五箇条の御誓文に記されているとおり、公論により決めていくという考え方のもと、三権分立を目指して立法議事機関が誕生します。1868年当初は「議政官」と定めていますが、紆余曲折があり、「公議所」と名称を変更し、さらに「集議院」となり、太政官の「左院」に置き換えられます。当時はまだ官選による議員構成となっていました。

このようにシステムも二転三転するような混迷期でした。また、旧薩摩藩士や旧長州藩士といった明治維新で功績のあった人物が官僚となり、薩長藩閥政府による専制に対しての反感が根強くあり、なかなか一枚岩になれない状態でもあります。

広く会議を興し、万機公論によって決められるような状況ではなかったのです。日本が立憲国家として生まれ変わるためにはまだしばらくの時が必要でした。そして、憲法を制定し、議会を開設するまでには多くの犠牲を強いることとなります。

今回は近代の日本において、「大日本帝国憲法制定」と「帝国議会開設」までの道のりについて考察していきましょう。

明治政府の有司専制

征韓論を巡る政争劇

1873年、政府内で大きな対立が起きました。武力によって朝鮮に開国を迫ろうとする「征韓論」と時期尚早だとする「慎重論」の衝突です。征韓論の代表格は「板垣退助」であり、他に後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、さらに出兵には反対し自分が朝鮮に赴くと主張していた西郷隆盛がいます。慎重論は岩倉使節団のメンバーで代表格は「岩倉具視」、他に木戸孝允、大久保利通らがいました。

最終的に明治天皇に容れられたのは慎重論であり、そのため板垣退助や西郷隆盛は一斉に官を辞して下野します。この政変により、明治政府に不満を抱く士族らをさらに触発することとなりました。

民撰議院設立建白書の提出

1874年、下野した板垣退助は後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと「愛国公党」を結成します。そして有司専制の薩長藩閥政府に国政を任せておくとことに異を唱え、国家の維持と国威の発揚のためにも平民にも参政権を与えて議会を開設するように政府に要望しました。これが左院に提出された「民撰議院設立建白書」になります。

士族らが明治政府に対し不満を爆発させる寸前であることを板垣退助らは理解していたようで、武力闘争を避けるためにも、話し合いができる議会の開設を願っていました。明治維新において司法の整備に尽力した佐賀藩士の江藤新平も民撰議院設立建白書に署名していますが、直後に帰郷しています。そして佐賀の士族反乱の首領に擁立されることになるのです。

自由民権運動の高まり

士族民権

明治政府に対して不満を持っていたのは士族です。「四民平等」の政策のもと大名や武士といった特権階級は廃止されてしまいました。俸禄もなくなり、廃刀令によって武士の魂である刀の帯刀も廃止されています。

征韓論が退けられたことで朝鮮出兵もなくなり、士族は完全に活躍の場を失いました。廃れていく自分たちの立場に危機感を覚えた士族らは反乱を起こします。反政府の運動であり、かつ士族の民権を守るための武力闘争でした。1874年の「佐賀の乱」では江藤新平が処刑されて晒首となっています。1877年には「西南戦争」が起こり、西郷隆盛が亡くなりました。

このように自由民権運動の先駆けは士族による反乱だったのです。しかし板垣退助らが考えているとおりに、武力蜂起では何も解決はしませんでした。ここから本格的な自由民権運動が始まっていきます。

国会期成同盟の結成

1875年、板垣退助は自由民権運動を全国に拡大するために「愛国社」を結成します。すぐに自然消滅するものの、1878年に再興されました。その第4回大会が開催された1880年に愛国社は「国会期成同盟」と名称を変えることになります。

自由民権運動は、薩長藩閥政府に対抗するために「憲法の制定」「議会の開設」「言論の自由」「集会の自由」などを訴えていましたが、「地租の軽減」もその柱に据えたことで、全国の農民にも運動が浸透していくことになります。政府もまた新聞紙条例や集会条例などを制定して言論を弾圧していきます。

10年後の国会開設を約束した国会開設の勅諭

1881年に薩摩閥の黒田清隆による「開拓使官有物払い下げ事件」がスクープされます。開拓使長官が不当に格安な金額で同郷の五代友厚に官有物を払い下げようとしていたのです。これにより明治政府への批判が高まり、自由民権運動は盛り上がりをみせることになります。

このとき政府内で議会の早期開設を唱えていたのが参議の「大隈重信」でした。大隈重信はイギリス流の議院内閣制を理想としていましたが、岩倉具視らはドイツ帝国を樹立したプロイセンの方式を採用したがっていたそうです。伊藤博文はどちらとも決めかねていましたが、大蔵省内の大隈派が開拓使官有物払い下げは不当であることや、中止を主張したことに激怒し、大隈重信を罷免します。

反政府運動を鎮静化するために伊藤博文は、明治天皇が大隈重信と行幸している最中に、払い下げの中止、大隈重信の罷免、そして10年後に議会を開催することを決めてしまいます。そしてその後、御前会議が開かれ、「国会開設の勅諭」が公表されることになりました。欽定憲法の制定、そして10年後に議会を開設することを公に約束したのです。政府にとっては、10年も経過すれば自由民権運動の熱も冷めるだろうという憶測もあったようです。

大日本帝国憲法の制定

プロイセンの立憲主義

1882年から伊藤博文はヨーロッパに渡り、ドイツ系の立憲主義について学びます。憲法にも様々な種類がありますが、伊藤博文は君主の権限が強いプロイセンの憲法を参考にすることに決めました。

立憲主義というものは本来、憲法によって国家権力が制限されるものです。伊藤博文はこの立憲主義によって議会制度を定めました。大日本帝国憲法は立憲主義と共に国体を柱にしています。国体とは天皇を中心にした秩序のことです。この国体によって議会の権限は制限されることになります。

伊藤博文は憲法制定、議会開設に先駆けて1885年に太政官制を廃止し、内閣制度に移行します。そして初代内閣総理大臣に就任するのです。

大日本帝国憲法の内容

1889年2月11日に公布された大日本帝国憲法の特徴は、国家統治の大権を天皇が総攬すると明記されていることです。天皇大権とも呼びますが、行政や立法に強い影響力を持っていました。司法については独立が確立しています。

帝国議会についても開設されることが明記されています。また臣民は誰もが平等に公務に就任できる権利についても規定されています。兵役の義務についても規定されています。言論の自由や結社の自由についても法律の留保のもとで保証されました。

大日本帝国憲法の盲点

イギリスの政党内閣制に関しては参考にしていないために、大日本帝国憲法では、内閣や内閣総理大臣に関する規定を設けませんでした。内閣総理大臣の権力を高めることで、天皇大権を損なう恐れがあったためです。

一方で統帥権を独立させています。大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍は共に大元帥である天皇の直轄となったのです。軍部は議会や内閣に対し一切の責任を負わないこととされています。このことがやがて軍部の暴走を招き、内閣では軍部をコントロールできなくなっていく要因となります。

帝国議会の開設

帝国議会の仕組み

帝国議会は二院制です。公選による「衆議院」と、非公選の「貴族院」に分けられます。貴族院には皇族、華族の他、勅選議員や多額納税者などが選ばれています。衆議院の解散は天皇大権に属していました。貴族院には解散はなく、衆議院が解散している期間は停止の状態となります。両院共に対等の権限を有していますが、衆議院には予算先議権がありました。

第1回の帝国議会は大日本帝国憲法が施行された1890年11月29日に開会しています。第1回衆議院選挙はそれに先立ち実施されており、選挙権は満25歳以上の男子で1年に直接税15円以上を納めている者だけに与えられています。日本の総人口のおよそ1.1%でした。

帝国議会の権限

大日本帝国憲法で規定されている帝国議会の権限についてご紹介しましょう。
・政府が提出する法律案に対する立法協賛権
・政府が提出する予算案に対する予算協賛権
・政府に対する建議権
・天皇に対する上奏権
・帝国議会に提出された請願の審議権

つまり帝国議会は立法機関ではなく、立法協賛機関でした。立法権を持っていたのは帝国議会ではなく、天皇だったのです。ですから、帝国議会には、天皇による法律裁可権に基づく裁可を経る条件付きの法律提案権が与えられました。

予算の編成権は政府にあり、帝国議会には提出された予算案について否決する権利は有していませんでした。あくまでも修正のみ可能で、それも削減に制限されています。ちなみに追加予算案については否決できました。

まとめ

帝国議会が開設されると、衆議院は政府の超然主義に立ち向かっていきます。しかし日清戦争を経て、両者は協力の道を進んでいくことになります。やがて大正の時代になると、大正デモクラシーによって政党政治が幕を開け、衆議院が強まりました。そして戦争が激化し、軍部が力をつけ始めると帝国議会は機能しなくなっていきます。1940年に全政党が解散され、大政翼賛会が成立し、軍部の方針を追認し支える体制となりました。帝国議会もまた政府や軍部を追認するだけの翼賛議会になってしまったのです。

第二次世界大戦の敗戦により、日本は憲法改正の法的義務を負うこととなり、1946年5月16日の第90回帝国議会の審議を経て、11月3日に「日本国憲法」が公布、1947年5月3日に施行されました。

国会は唯一の立法機関となり、衆議院と参議院の二院制となりました。こちらでは衆議院の優越が規定されています。法律案は両院で可決されたときに法律となります。内閣総理大臣の指名権があり、衆議院には内閣不信任決議権もあります。予算案や条約の承認も国会の権限に含まれています。

憲法制定の目的は、国家権力を制限し、権力の濫用を防ぎ、国民の人権を保護するためです。日本国憲法は大日本帝国憲法よりも多くの点が改善されました。さらに、帝国議会では果たせなかった議会に課せられた本来の目的を、現在の国会は果たすことができるようになったのです。今後、どのように変化していくかわかりませんが、何のために憲法があり、何のために国会があるのか、その意義をしっかり確認しながら日本の政治を見つめていきたいですね。それが先人たちの遺志なのではないでしょうか。

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