新興勢力の台頭による豪華で壮大な「安土・桃山文化」

戦国乱世を経て日本は織田信長、そして豊臣秀吉によって統一されていきます。こうした新興勢力の台頭が新しい文化を生み出しました。それが今回考察していく「安土・桃山文化」になります。安土・桃山時代は、わずかな期間ながらその内容は実に濃いものになっています。


鎌倉文化、室町文化(北山文化・東山文化)に続くのが、「安土・桃山文化」になります。単に「桃山文化」と呼ぶこともあります。時期的には、「織田信長」「豊臣秀吉」が台頭し、天下統一に向けて激動の時代となる16世紀後半から17世紀の始めです。

実に短い期間といえます。しかしこのわずかな期間の中で日本は大きな変貌を遂げることになるのです。それに応じて社会の価値観や振る舞いも変化していきます。

この安土・桃山文化の大きな特徴は、これまでの文化と比較して「宗教の影響が薄い」文化といえるでしょう。室町文化が臨済宗を保護し、禅宗が大きな影響を及ぼしました。この流れは「千利休」らに確実に受け継がれ、大成していくことになりますが、権力を持っていた寺院勢力は織田信長や豊臣秀吉によって大きく制限されることになります。

仏教色が弱まり、より人間味溢れる文化が花開いたのが安土・桃山文化といえるのではないでしょうか。勢力図が大きく変わり、新興の戦国大名や豪商が登場し、その威光を強く反映した建築物や作品がつくられるのです。

これが安土・桃山時代をして「豪華で壮大な文化」といわしめる由縁です。今回はこの時代の主役である「織田信長」「豊臣秀吉」を改めて紹介しながら、その文化の内容について考察していきます。

安土時代

安土文化の主役・織田信長とは

「楽市・楽座」を奨励して経済を活性化。いち早く「鉄砲」という新兵器に目を向けて戦場で効果的に使用する方法を発案。さらにイエズス会(カトリック宣教師)からも意欲的に「南蛮文化」を吸収しています。まさに「時代の革命児」が織田信長です。

「天下布武」を掲げ、逆らう勢力には容赦しなかった面も織田信長の特徴でしょう。1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちし、1574年には長島の一向一揆を焼き討ち、1581年には高野山を包囲しています。

織田信長は安土にセミナリヨ(神学校)を建てることをイエズス会のオルガンティノに許可しています。この学校では、神学や哲学の他、天文学や暦学、数学から医学に至るまでヨーロッパの知識を学ぶことができたそうです。

織田信長は1573年に室町幕府第15代将軍の足利義昭を攻めて京都から追放し、これにより室町幕府は事実上滅亡しました。もともとは織田信長に擁立されて将軍となった足利義昭ですが、天下統一を目指す織田信長と対立し、諸大名と密約を交わし、織田信長包囲網を作り上げていたのです。

織田信長は1582年重臣である明智光秀によって奇襲を受け、本能寺で自害しました。明智光秀の謀叛は今日でも多くの謎が残っていますが、新しい幕府を誕生させる以上の野心が織田信長にはあったからだともいわれています。このあたりは室町幕府第三代将軍・足利義満と類似点が見られます。

織田信長が築城した安土城

山城中心から変化し、平城が多くなってきます。壮大な平城の城郭建築が本格的に始まっていくのがこの安土文化からなのです。本丸には天守ができ、外の曲輪には二の丸や三の丸が備わっています。


中でもひと際壮大だったのが1576年より築城が始まった「安土城」です。明智光秀の謀叛によって焼失してしまいましたが、五層七階という巨大な城だったようです。地下一階、地上六階と伝わっています。ルイスフロイトによると、ヨーロッパに存在する壮大な城と同格の規模だったと記されています。

織田信長はこの安土城を「天主」と呼びました。キリスト教のデウス(天主)に由来するという説があります。はたして織田信長は朝廷に取って代って日本を支配するという野心を抱いていたのでしょうか。

桃山時代

桃山文化の主役・豊臣秀吉とは

織田信長に仕え、足軽から大出世を果たして大名になったのが木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)です。本能寺の変においてはいち早く異変に気が付き対処し、明智光秀を山崎の戦いで破ったために織田信長の後継者となります。

1590年に天下を統一した豊臣秀吉は、全国の大名に指示して1592年より明や朝鮮の征服のために出兵します。キリスト教については1587年にバテレン追放令、1596年に再度禁教令を公布、1597年にはフランシスコ会の信者を捕らえて処刑しています。

政策としては「太閤検地」「刀狩り」「惣無事令」などで農民や大名を規制し、統制するシステムを構築しています。この後の江戸幕府の基礎を築いたのが豊臣秀吉なのです。

豊臣秀吉が築城した大坂城、聚楽第

豊臣秀吉は関白、太政大臣を務め、権勢をふるっています。1585年には一向一揆の拠点であった石山本願寺跡に「大坂城」を建築しました。その威信を示すべく織田信長が築いた安土城よりも巨大な五層十階だったそうです。残念ながら現在の大坂城は、石垣にいたるまですべて江戸時代以降に再建されたものです。

豊臣秀吉は、1587年の北野天満宮で行われた壮大な茶会「北野大茶湯」で、黄金の茶室を披露しました。さらに同年には京都の邸宅「聚楽第」が完成しており、後陽成天皇の行幸を迎えています。どちらも圧倒的な権勢を誇示したものでした。関白職を甥の豊臣秀次に譲った際に聚楽第も豊臣秀次の邸宅となりましたが、1595年に豊臣秀吉は豊臣秀次を処刑。豊臣秀吉はこのときに聚楽第も徹底的に破却しています。こちらは遺構すら残されていません。

豪華で壮大な文化

城郭建築、書院式庭園

安土・桃山文化に代表されるものは美しい機能美を備えた「城郭建築」でしょう。現存し、国宝にしてされているものに愛知県の「犬山城」、長野県の「松本城」、滋賀県「彦根城」、そして最高峰と呼ばれているのが兵庫県の「姫路城」になります。白鷲城とも呼ばれる姫路城は大小4つの天守を持ちます。京都府の「二条城」は二の丸御殿のみ国宝に指定されています。

大名の権威を誇示したのは城郭だけではありません。「書院式庭園」にも反映されています。豊臣秀吉が基本設計したという醍醐寺の三宝院庭園が代表格です。こちらでは日本各地から700本もの桜を集めて植えさせ、1598年に一日だけ「醍醐の花見」を実施しています。他にも智積院大書院庭園や二条城二の丸庭園などが有名です。

障壁画、屏風絵

城郭内にも豪華で壮大な障壁画が描かれ、屏風が置かれることになります。やはりその権勢を示すような金箔の地が好まれて使用され、派手で力強い画風が主流でした。ここに登場するのが安土・桃山文化を代表する「狩野永徳」「狩野山楽」ら大和絵と水墨画を融合させた狩野派になります。

特に狩野永徳は日本美術史を代表する絵師の一人とされており、その障壁画は織田信長や豊臣秀吉に認められ、安土城や大坂城、聚楽第で採用されています。こちらは現存はしていませんが、現存している作品では「唐獅子図屏風」や国宝の「洛中洛外図屏風」などがあります。

弟子の狩野山楽も安土城の障壁画の作成に参加しており、狩野永徳の後継者として有名です。江戸幕府が成立した後も京都に残ったことから「京狩野」とも呼ばれます。豊臣秀吉の命令で狩野永徳の養子となっています。

東山文化を受け継いだ文化

茶道の確立

豪華で壮大な文化だけが発展したわけではありません。東山文化の「わび」「さび」を受け継いだ文化もまた大成し、確立されています。「千利休」による「わび茶」です。やはり禅の影響を受けています。

千利休は織田信長、豊臣秀吉に重用され、茶道が奨励されたことから、茶をたしなむことは武士にとっての重要な教養の一つとされました。そのため利休七哲という千利休の高弟には有力大名である蒲生氏郷や細川忠興、高山右近などが連ねています。

豊臣秀吉が主宰した北野大茶湯では天下三宗匠と呼ばれる千利休、今井宗久、津田宗及が揃って身分の差なくくじで選ばれた相手に茶を立てています。茶の湯は武士や商人だけでなく庶民の生活教養文化の一つにもなっていたのです。


高級茶器は一城にも匹敵するといわれ、織田信長は恩賞として茶器の名器を家臣に与えています。織田信長は息子の織田信忠に家督を譲った際に、茶器の名器だけを持って住居を移ったといわれています。千利休は茶道具や懐石を考案し、茶道を確立していきました。

草庵

豪華で壮大な城郭や庭園とは別に、千利休は簡素な草庵で茶をたしなみました。千利休の唯一の遺作といわれているのが、京都大山崎町の妙喜庵の「待庵」です。国宝に指定されています。わずか2畳の広さの草庵で、刀を置いてから入らねばならないにじり口があり、茶をたしなむうえでは身分は平等であるという千利休の精神が宿っています。

また、茶室へ至るまでの道のりは書院式庭園とは対照的に自然な山の趣が表現されており、「露地」と呼びます。これもまた客をもてなす茶の湯の一期一会の心得です。露地を確立したのも千利休の業績といわれています。

西洋の文化、大衆文化

南蛮文化

安土桃山時代は仏教色が弱まったのと同時に、ヨーロッパ文化が流入してきた時期にあたります。革新的な織田信長はいち早くこの南蛮文化を採用しています。1581年に京都で行われた一大軍事パレード「京都御馬揃え」では正親町天皇も招待されていますが、このときの織田信長のいでたちはビロードのマントに西洋帽子だったと伝わっています。

戦場では鉄砲が使用されるようになっただけでなく、南蛮風の衣装を身にまとう庶民も登場し、イエズス会の宣教師たちの活動が広く浸透していたことを示しています。地球儀なども持ち込まれていますが、当時の日本人には理解するのはたいへんなことだったようです。織田信長は理に適っていると納得したと伝わっています。

南蛮文化は宣教師の活動により、キリスト教の布教とともに大名や庶民の間に広まっていきます。しかし、信者による寺社破壊や日本人を奴隷として売買しているという情報、さらに宣教活動は日本征服前の地ならしなどといった見解を豊臣秀吉が持つと、一転して禁教令が発布されて宣教師の活動も制限されることになりました。

かぶき踊りと三味線

その他、庶民の間に流行したものには、「かぶき踊り」があります。創始者はこの時代に登場した「出雲阿国」とされています。女性の踊り子だったようですが、正体は謎に包まれています。かぶき踊りは遊女屋でブームとなり、江戸時代には規制が行われました。

三味線は中国より琉球王国に伝わり、それが堺の琉球貿易を通じて日本に広がりました。豊臣秀吉が淀殿のために作らせた三味線もあるそうです。日本を代表する弦楽器となったのは江戸時代に入ってからのことになります。

まとめ

安土・桃山時代はとても短期間ではありましたが、日本にとっては新しい文化が芽吹く大切な時期でした。これは既成概念をぶち壊そうとした織田信長、豊臣秀吉の貢献が大きいといえるでしょう。そういった点では明治維新の時期と類似する要素も強いかもしれません。当時の人たちは時代の変化についていくのもたいへんだったのではないでしょうか。

また、この時代に誕生した洗練された作品の多くが日本文化の代表作品として大切に扱われています。安土・桃山文化が後世に与えた影響はとても大きなものでした。この貴重な時代の作品を改めてじっくりと見つめていきたいですね。

著者・ろひもと理穂

本記事は、2017年10月20日時点調査または公開された情報です。
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