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【おばあちゃんは元教頭先生】当時の女性教員を振り返る

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教員生活38年 退職まで勤めあげたおばあちゃん

大学卒業から定年退職まで教員として

私は現在首都圏のとある都市に住んでいる、もう70歳にもなるおばあちゃんです。遠方に住んでいる孫たちと電話したり、メールのやりとりをしたりするのも楽しみのひとつでもあります。

今はどこにでもいる普通のおばあちゃんですが、私は10年前まで小学校の教員として働いていました。大学を卒業してから教員として働き、定年である60歳まで小学校教員として勤めあげ、教頭も経験しました。今日は、そんな私の教員としての体験談をお話します。

どうして教員になったのか?

まだ女性が働くのは珍しい時代

私は農家を営む実家の3人兄妹の真ん中として生まれました。父も母も働いている姿を見ながら育ったので、女性も家事や育児もこなしながら働くのは当たり前という環境の中で成長しました。まだ戦後間もない、日本が貧しい時代に幼少期を過ごしましたが、それでも両親は懸命に私たち兄妹を育ててくれました。

将来の事を考える年齢になった時には、世の中でも「これからは女性も仕事を持つ時代だ」と少しずつ言われていたので、女性でもずっと働ける職業に就く事を希望しました。当時、女性でも一生バリバリ働ける職業と言えば、看護師や教員でしたので、私は身内にもいた教員の道に進む事を選びました。当時、まだ女性の大学進学率は低かったのですが、教育熱心な両親のおかげで、私は地元の国立大学の教育学部に進学できました。

その後、地元の自治体の教員採用試験に合格し、大学卒業と同時に小学校の教員としての勤務がスタートしました。

結婚と同時に首都圏へ

その後、主人と出会って結婚が決まりました。主人は東京の会社に勤めていましたので、私も地元を離れて、首都圏に移り住む事になりました。

当時も、今と同じく教員採用試験は自分が働きたい自治体ごとに受けて、合格しなければいけません。私は、結婚した後も教員としての仕事を続けたかったので、住む自治体の教員採用試験を受けなおして合格し、今度は今住んでいる自治体の教員として働く事になりました。

ちなみに、結婚してからはずっと同じ県内にいます。結婚前の自治体では4年間教員として働きましたので、結婚後は同じ自治体の教員を24年間勤めたことになります。

長女の出産時 現在とは全く違う当時の産休育休制度

今の子育て世代と同じ環境で働く

当時は、結婚すると旦那さんの実家に嫁いでご両親と一緒に同居するなど、いわゆる二世帯住居が結婚した夫婦の一般的な生活形態でした。そして、戦後どんどん世の中の風潮が変わり、女性も働く事がだんだんと増えてきました。私が結婚した時には、既に日本のビジネスの中心地が東京でしたので、私や主人の様に、地方出身者が首都圏で仕事をする為に移り住む事もだんだんと増えてきました。

私が今も住んでいる自治体は、首都圏でいわゆるベッドタウンと呼ばれる都市です。ちょうど当時は大規模なマンションの団地群の建設ラッシュがあり、私たちのような地方から移り住んできた世帯が多く住んでいました。まだまだ周りでは二世帯同居をする人も多い一方で、私の周りでは私たちも含めて、いわゆる今の子育て世代と同じ、核家族世代が多かったです。

当時育休はなく、産後休暇制度のみ

結婚してからしばらく経ち、長女を妊娠しました。当時は妊娠や出産と同時に仕事を退職する女性がほとんどでしたが、私は一生続けられる仕事として教員を選んだので、産後も仕事を続ける事を希望していました。


現在は、教員も含めて女性には産休・育休制度を設けている職種や企業がほとんどです。けれども、当時は公務員職である教員でさえも、産休はありましたが育休制度はまだありませんでした。

当時の産休制度は、「産後休暇制度」となっていて、産後8週間つまり56日間の休みが付与される制度となっていました。つまり、産後57日目からは働き始めなければいけません。しかも、産後休暇制度自体はあっても、当時は教員の数が少なかったこともあり、56日間の休み全てを消化できる女性はほとんど教員の中ではおらず、私も長女の出産後1か月ほどで職場に復帰をしました。

娘の預け先で四苦八苦

前述の通り、私も主人も地方から首都圏に移り住みましたので、お互いの実家は遠方で産後は頼れる人はいませんでした。もちろん同居している家族もいません。ですので、産後仕事に復帰するにあたって、特に苦労したのが長女の預け先でした。

当時も今のように保育所はあったのですが、女性の社会進出がやっと少しずつ定着してきた時代でしたので、保育所の数自体がとても少なかったのです。職場から「人員が足りないので復帰して欲しい!」と要望されているので産休を切り上げて復帰するものの、通える範囲の保育所の空きがなく、預け先がないという状態でした。

結局どうなったかと言うと、小学校の保護者や知り合いなど、周りのつてを頼りました。運よく保護者のつてで、預かってくれる人(Aさん)が見つかりました。Aさんは、長女と同い年の孫を持つ、まだまだ若いおばあちゃんで、近所に住んでいたのでAさんに働いている間長女をお願いする事にしました。

現代の人達にとっては、近所の人に子供を預ける事は信じられないかもしれません。けれども、当時は今の子育て世代と同じような核家族世帯は、周りに頼れる人が誰もいない代わりに、近所でお互いを助け合っている事が多かったのです。特に、私の住んでいるマンションも地方出身者が多く、お互いが助け合っている家庭が多くありました。

「育児時間」はあってないようなもの

長女の預け先も無事に見つかり、職場に復帰をしたのですが、産後の疲労がまだまだ残っている体で仕事をするのはとても大変でした。また、娘を預けていたのですが直前まで母乳を与えていたので、預ける事になってから胸が張ってしまって母乳が詰まってしまい、乳腺炎になって高熱を出す事もありました。

当時は、育児休暇がない代わりに「育児時間」という制度がありました。毎日育児をしている人は合計1時間の休憩時間が得られるという制度です。1時間をどのように使っても良いので、昼休みに中抜けをして家に戻って家事をこなす、出勤時間を30分遅らせて退勤時間を30分早め、実質的な勤務時間を1時間減らすといった使い方もできました。

けれども、育児時間もあってないような制度でした。当然育児時間の制度も当時の私は全く使用できませんでした。

そして、産後の体で無理をし過ぎたのか、体調を崩してしまう事も多くありました。

一度退職を決意した長男の妊娠

初めて頭をよぎった「退職」

長女が2歳の時に、長男を妊娠している事が分かりました。

長女の出産後に無理をしすぎて体調を崩す事が多かったのに加えて、長女が病気の時にも側にいれあげられない事など、教員としての仕事をしながら子供を育てる事に対して、辛い思いをする事も多くありました。その為、教員としての仕事を続ける事は諦め、長男の出産と同時に退職した方が良いのかもしれない、と考えるようになりました。

校長先生に妊娠を報告したのと同時に、退職しようかどうか迷っている事を正直に話しました。すると、校長先生は「辞めるのはいつでもできる、あなたは学校には必要な存在だから、考え直してほしい」とありがたい言葉とともに引き留めに合いました。

退職を踏みとどまらせたのは夫の存在

帰宅してから、夫に出産後に退職しようか迷っている事、校長先生には引き留められたことを相談しました。自分自身も、長女の出産後の大変さや、長女を他の専業主婦の家庭のお母さんのように、いつでも側にいてあげられない事でも悩んでいる事も正直に話しました。

夫からは、「君が今まで頑張った上で就いた仕事だから、頑張って続けて欲しい。できる事はサポートするから」と言いました。小学校教員として働き続けてきた今の私の姿を見て、「今までの頑張りを無駄にしてほしくない」と思ったそうです。


夫のこの言葉で、私は自分が「無理」と感じる所まで、教員を続ける事に決めました。

出産後は、周りの助けを借りながら育児をする

長男を出産し、また職場に復帰しました。復帰する時には、長女を預けているAさんの所に長男も一緒に預けられる事になりました。結局、長女も長男も4歳の時には保育所に入所できたのですが、Aさんには、保育所へ入所できるようになるまでお世話になりました。

そして2人の子供が保育所に入所をしても、病気の時は預けられません。もちろん、私には頼れる両親などはいません。そんな時にはAさんがまた預かってくれました。今でいう病児保育のような存在としても、Aさんはサポートしてくれたのです。

Aさんの所にも預けられないほどの高熱の時や、水ぼうそうや風疹などの感染症の時には休暇を取りましたが、私と主人が交代で休暇を取りました。どうしても私が仕事を休めない時には主人が仕事を休んで、病院に連れて行ったり看病をしたりもしました。

周りの助けがあったからこそ乗り切った育児

今のように産休育休もきちんと整備されていない中、周りに頼れない状態で育児を乗り切れたのは、運よく周りの環境に恵まれていたからだと思います。もしもAさんがいなかったら、主人が激務で休みを取る事もままならなかったら、私の教員生活は出産と共に終わっていたと思います。

今の子育て世代は共働きも核家族も当たり前です。産休育休制度が整備されても、まだまだ女性が働きやすい環境が整っているとは言い難いです。教員も含めて、子育てをしながら働く女性にばかり負担がかからないような、何らかのサポートが必要だと思います。

教員生活を振り返って… 保護者や生徒との関係

学級担任で忘れられない出来事

仕事と家庭の両立は大変でしたが、とてもやりがいがありました。自分が指導した子供たちが成長していく姿を間近で見られる事は、小学校教員として一番のやりがいでもあります。

1年生の学級担任をしていた時に、とても忘れられない出来事があります。ある日、クラスのひとりの女の子、Cちゃんの筆箱がなくなってしまいました。クラス全員で協力して探したのですが見つかりません。「もしかすると、間違って持ち帰っちゃった子がいるかもしれないから家でも見て下さい。後は先生が教室の中を探しておきます」と児童たちに伝えて帰宅させました。

生徒たちが帰宅後、私一人で教室内を探していたのですが、クラスの一人の男の子(B君)がまだ帰らずに残っていました。「先生が探しておくからもう帰りなさい」と声をかけたのですが、B君はじっとして動きません。すると、B君がCちゃんのなくなった筆箱を差し出したのです。実はB君はCちゃんの事が好きで、からかうつもりで筆箱を隠したのだけれども、クラスで騒ぎになってしまって言い出せなくなかったと正直に告白しました。

人の物を隠す事はもちろんいけない事です。けれども、1年生のB君は自分のやってしまった事に胸を痛めて悩みながらも、最後は素直に告白しました。その姿にとてもいじらしさを感じて、私は「良く言えたね!」と思わずB君を抱きしめてしまいました。

次の日、B君はCちゃんに筆箱を返して仲直りしました。今の時代なら、児童の物がなくなるとまず盗難を疑う教員もいると思いますが、当時の私はその可能性は全く思いつきませんでした。昔の児童は今よりも子供らしく素直な子が多かったのではないかと思います。実際に、もしも私が最初からB君を始め児童たちを疑ったとしたら、このような結果にはなっていなかったのではないでしょうか。

勿論、今の時代の子供が悪いという訳ではありませんが、子供が昔のような素直さを失ってしまった要因が、今の子供を取り巻く環境や、私たち大人にもあるのではないかと思うと、残念に感じます。

学年主任 教務主任を経て教頭へ

2人の子供の育児を夫や周りの人と協力しながら教員としての仕事を続ける中、教員としては中堅にあたる35歳を過ぎた頃から学年主任を任されるようになりました。

その後、学年主任をずっと兼任しながら学級担任を続けていたのですが、45歳を過ぎたあたりから校長先生に教頭試験を受けてみないかと勧められました。自分が管理職に就く事はあまり想像できませんでしたが、せっかく勧めてもらったので受けてみる事にしました。

教頭試験に合格した後、教務主任になりました。

教頭先生はとにかく大変

教務主任を経て教頭になった私ですが、管理職とはいえ教頭は雑務も多いポジションでした。例えば、学校の設備などで故障している所があれば、力の強い男性の教頭なら教頭自ら修理します。「ずっと用務員さんだと思っていた人が教頭先生だった」なんて声も良く聞いたものです。

私は女性だったこともあり、力仕事はあまり担当しませんでしたが、運動会のプログラム作成や保護者宛の学級通信などのお便り作成、入学式や卒業式の司会進行などを行いました。「PTAの会長かと思ったら教頭先生だった」とよく言われたものです。

私は人の上に立ってバリバリとリーダーシップを発揮するタイプではありませんでしたが、ありがたいことに周りの教員や保護者のサポートもあり、退職まで教頭としての職務を全うする事ができました。

昔と今で「教員と保護者の関係」を比較すると

小学校教員は、子供たちに勉強を教えるだけでなく、これから生きていくための力を身に着けさせるのも仕事です。クラス内でいじめなどのトラブルがあれば解決のために動かなければいけませんし、児童だけでなく保護者と係わりも沢山あります。


運よく私は周りの保護者とも良い関係に恵まれました。保護者が教員を信頼して預けてくれる事が分かりましたので、私もそれに応えられる様にしっかり子供たちを見てきました。今の時代のような、いわゆる「モンスターペアレント」といった存在の保護者に出会う事もありましたが、話し合いで解決に至っていました。言わなくても、当時は教員と保護者の間に信頼関係が出来ていたのだと思います。

今の小学校教員と保護者の関係を見ると、時代の変遷からかもしれませんが、本来家庭で行うべき躾を学校や教員に求めるなど、保護者が学校へ求めるそもそもの方向性が違うと思わざるを得ません。小学校教員への精神的な負担は当時よりも重くなっていると感じます。

退職後の楽しみもある 今の教員に伝えたい事

児童たちが朝元気に登校したら、元気に下校させる。怪我やトラブルが起きない事を前提に、万一何か起きた際には、児童が辛い思いを背負ったまま帰さないように。この事をいつも年頭に置き教員を38年間続けました。

前述の通り、今の小学校教員は過酷な中で仕事をしている方も多いと思います。まだ児童や保護者との関係も良好だった私でさえ、退職後は燃え尽き症候群のようになってしまい、「後進の指導をしてほしい」「講義を開いてほしい」といったお誘いも全て断っています。

その代わりに、今でもかつて勤めていた小学校の校庭を覗いて子供たちの姿を見るのはとても励みになります。また、在職中はとても忙しかったので、退職した今は一人で海外旅行をしたり、ずっとやってみたかった習い事にチャレンジしたりしています。特に面白いのが、私も含めて教員は、人に教えるのは得意でも、人から教わるのは苦手という事です。それでも、今は「教わる立場」に立つことの楽しさを覚え、やりたい事がたくさんあって忙しいながらも充実した毎日を送っています。

小学校教員と言う仕事は、とても大変な仕事です。けれども、自分がずっとやりたかった事を退職後に思い切り楽しむ事もできます。何よりも、子供たちが成長する姿をこの目で見る事ができる、最高のやりがいがある仕事です。だからこそ、今の現場に立つ小学校教員の方には頑張って欲しいですし、小学校教員になりたい、と考えている人はぜひ夢を叶えて欲しいと思います。

本記事は、2017年9月17日時点調査または公開された情報です。
記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。

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この記事を書いた人

憧れの職業から時事問題まで、母親と女性の視点から。子供達の成長と被災地復興を見守る「千谷麻理子」さんの執筆する解説記事・エッセイ・コラム記事です。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 人生の先輩の経験談として、興味深く読みました。特に、育休はなく産休のみだった、というところにとても驚きました。女性の先生や、先生を目指している人にとって、ためになる記事だと思います。

  • お子さんがいる(特に小さい)ママさん先生は、一体どうやって仕事と家庭を両立しているのだろうと思っていました。よほど旦那さんが協力的とか、ご両親が近くにいていつでも面倒をみてくれるのか、とか。保育事情が今よりもっと厳しい昔では、さらに両立は難しいことだったと思います。その中でも教師として続けてこられたことは、読んでいて勇気のもらえるものでした。

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